森にようこそ・・・シャングリラの森

森に入って、森林浴間をしながら、下草刈りをしていると、自然と一体感が沸いてきます。うぐいすなど小鳥たちと会話が楽しいです

起ること、すべてよし

2022-09-28 16:48:34 | 森の施設

 

   起ること、すべてよし

 

  下記の言葉は、私が加盟しているフランチャイズ本部の創業者のものです。

「人生には運不運があり、不運だといって嘆いている人は、

 不運であると悲観的に考えすぎて、ますます自分をみじめにしているのです。

幸運なチャンスも不運なことも誰にも公平にやってくる。

「起ること、すべてよし」何もかも、時には、自分の思うようにいかなかったことも、

あとになってみると、ありがたい事だった、と気づくようになります。」

 

  私は若い時分から、運について、よく考えている人生のテ-マですが、運が良い

ことをただ願っているのではありません。それよりも良い偶然が良い運と言い換えても

いいのです。そして、運がいいのは、いま命を与えられているすべての人々は運が大変

よいと私は思っています。なぜなら、運の悪い人は、この世に生を与えられていない

からです。生が与えられているということは、すなわち運が良かったからです。満万年も

の太古大昔から自分に命を繋いでくれたということは、これは奇跡でもあるわけです。

 だから、自分は大変運の良い人間だと心底思うことが何よりも大切な思考だと思って

います。どんな辛い事があってもです。私は運が良い人間だから、きっと一時的な悩みや

苦しみはその内解消するだろうと。勿論努力をすることは大切というのは当然のことです。

 

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養子に出すか、出さないか?

2022-09-21 12:32:47 | 森の施設

 

   養子に出すか、出さないか?

 

  襖ごとに僅かに聞こえてくる話声に耳をすました。

 「あなたの三人の子供の内、末っ子を男の子を養子に頂けないか。」

 「とんでもない、三人目の女の子を三歳でなくし、戦時中にも関わらず、もう一人の

子供が授かったのです。とても養子には出せないですよ」

 

  これは私の事を言っているのだと思いました。私が小学校に行きかけたころの時だった

と思う。私が育った家族は、母親、父方の祖母、9歳年上の兄、そして5歳上の姉の5人

家族でした。父親は戦時中の船大工の仕事中に大怪我が元で、私が4歳の時に無くなって

いる。9歳年上の兄は、高校を卒業すると、大阪方面に就職し同居家族は4人になった。

 私を養子に欲しいと言って来たのは、神戸の近くといっても三田というところに住んで

いる一人暮らしの母方の親戚で会った。私達と比較すれば可なり裕福な暮らしをしている

様子らしい。その後、養子の話は二度となく、母がきっぱりと断ったからだろう。

 それ依頼私は、詳しいことは母から聞いていないし聞こうとも思わなかったようです。

 これまでに何度か、あの時、母が了承されて私が養子になっていたなら、自分の人生は、

現在と大きく変わったものになっていただろうと、微かに頭に浮ぶことがある。よくぞ母が

養子に出すことをきっばりと断ってくれた母親の愛情に感謝している。

 私のある一時期の出来事でした。

 

 

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物語の根源

2022-09-14 08:21:00 | 森の施設

 

   物語の根源

 

 つらつら考えますと、どんな小説もドラマも芝居も根っこは同じで、

 --------大切なものを失った悲しみ。

 を描いているのではないか、と思います。その日とによって愛だったり。プライドだったり、

親兄弟だったり、恋人だったり、あるいはお金だったり、親の遺品だったり、友だちとの約束

だったり・・・・・その大事にしていたものか突如なくなったときに、どうするか。あるいは、

失わないために何をするかということが、物語の根源になっているような気ががします。

 

 これは小説のあとがきにあた一文ですが、「現実は小説より奇なり」と申しますごとくに、

広い世の中には、小説のような悲しみや苦しみを味わっている人々が少なからず、おられます。

その意味からも、日頃から小説の中でいろんな人生の場面を文字を通して味わい、考える機会に

したいものです。

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人形浄瑠璃の起源

2022-09-09 13:24:45 | 森の施設

 

  人形浄瑠璃の起源

 文楽軒は遠目になって、しばらく川面に目を落とした。生まれは故郷の淡路の海を思いだ

していたのだ。

 植村文楽は軒-------今や大阪では知らない者がない。人形浄瑠璃の義太夫である。

 文楽軒が淡路から明石海峡を渡って、宮津に渡り、塩売りをしながら大阪に来たのが、天

保12年(1841)の夏、もう20年の歳月が過ぎたことになる。当時はまだ青年の顔が残って

いた文楽軒も、今は頭に白いものが混じり、年輪を感じさせる皺(しわ)も寄っている。

 大阪に出て来た時は、若いといっても、既に三十路(みそじ)に差し掛かっていた。妻子がい

たし、地元では庄屋として人望が厚く、酒も飲まず、博奕もやらなかった。ただ、人形浄瑠璃

が三度の飯よりも好きで、資材を投げ打ってまで、諸国に点在していた人形浄瑠璃の一座を招

き、村人に見せていた。

 そのうち、他人が演じるのを見るだけでは飽き足らず、自分でも浄瑠璃を歌うようになり、

自ら文楽軒と次葉瑠璃らしく芸名を名乗るようにもなっていた。

 地元の村人は、人形狂いと陰口をたたくようになった。文楽軒は一向に気にせず、いつしか、

本業にしたいと考えるようになっていた。そう思うだけあって、たしかに浄瑠璃を唸る声は玄

人はだだった。

 妻や年老いた両親の反対を押し切って、単身、大阪に来た時には、既に一銭の金もなく、物乞

い同然の暮らしをしていた。

 (所詮、芸人は物乞いや。どうせなら、日本一の物乞いになったる)

 そう自分を励ますのが、精一杯だった。

 無名の義太夫など、まともな劇場でやらせてくれはしない。文楽軒はいつも、河原や破れ寺

の境内で浄瑠璃を聞かせた。

 「しょむないコジキがおる。近寄るな」

 初めは敬遠されたが、文楽軒の声と表情にしびれ、いつの間にか贔屓(ひいき)がつくようになっ

た。人には言えない幾多の試練を乗り越え、人形遣いや三味線弾きを自分の足で探し出し、御霊

(ごりょう)神社で興行を打った。

 それが以外にも人気博してから、小さな葭簀(やしず)がけの小屋であろうとも、文楽軒の人形

浄瑠璃が持て囃(はや)されるようになつた。

 大きな劇場で人形芝居を討てるようになり、歌舞伎を凌駕(りようが)するほどになったときは、

天保から弘化、寛永を経て、安政に変って三年が過ぎていた。

 元禄時代に近松門左衛門らが盛り上げていた時代から、百数十年を隔てて、人形浄瑠璃を隆盛

させたのが文楽軒である。

 やがて、人々は、文楽軒の名前にあやかって、人形浄瑠璃のことを、文楽と呼ぶようになった。

 

この文章は、「ひとつぶの銀」井川幸四郎著より抜粋したものである。私が淡路島出身であるの

でここに記載させて頂いた。井川氏の著書は大変面白い内容でありますので、興味のある方はお読

みになられたらいかがでしよう。0

 

 

   

 

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