森にようこそ・・・シャングリラの森

森に入って、森林浴間をしながら、下草刈りをしていると、自然と一体感が沸いてきます。うぐいすなど小鳥たちと会話が楽しいです

水道管の破裂----札幌では-13℃に下がった

2021-01-30 08:38:18 | 思うまま



        水道管の破裂----札幌では-13℃に下がった

 今年は例年になく、寒い日が続いている。北海道弁で「しばれる」といいます。
でも、最近は札幌はほぼ標準語に近く、特別な言葉は少なくなってきました。
  私の事務所で水止めを毎冬して帰るのですが、ちっと徹底さを欠いたために、
水道管が破裂してしまい、大騒ぎになりました。今年は各地で同じような破裂が発生
しています。
  破裂してしまいますと、天井や床を剥がし、破裂している箇所を突き止めなけれ
ばなりません。その結果僅かな水道管の穴でも、修復工事は大変な作業で費用もバカ
になりません。

  北国の水道システムは、水道管の地下部分で、水抜きをする装置がついています。
つまり、家内の水道管の中の水を抜く装置です。これをしておけば、かなり気温が下
がっても家内の水道は水抜きを元に戻せば、正常に水がでます。よく考えられた装置
だと思います。

  それにも関わらず、各家、事務所で水道管の破裂が発生していることは、気温の
下がり具合が今までにないしばれている環境であるかということです。0


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高齢者の疾病---大きな悩み

2021-01-22 09:52:35 | 思うまま




      高齢者の疾病----大きな悩み

  病院は高齢者で溢れている。身近な人でも70代、80代になると何らかな病を
かかえている。これまでの生活習慣、特に飲食習慣が大きく影響しているようである
が、規則正しい生活を営んでおられる方でも、何らかの病を患っている。これは、高
齢者故のことであるから、このこと、つまり病から逃げられないのである。

  私は、5年半前にバイパス手術を受けたのだが、これはタイミングよくいいこと
であったと言えば、可笑しいけれども、70歳を超えた年齢であったこと、大きな手
術(8時間の輸血なし)が精神状態の上で、一つの経験、一つの覚悟ができたように思
っている。っまり、人間はいつか必ず死を迎えるという実感に近いものが体験できた
からである。ああ、人間(自分)はやはり死を迎えなければならないのだという覚悟で
す。
  
  ところが、大変丈夫な方で今までほとんど病院に治療にいったことが無いほど健
康体の人が、高齢になって、時間を持て余す先々の事を想うと大変憂鬱になっておら
れる人が少なくない。つまり、死の覚悟が出来ていないのである。それほど、病とは
縁遠かったから。

 それゆえ、大病を経験したことは宝物を得た貴重な経験であろうかと思う。もちろ
ん年齢に関わらず何の病も経験無い方が幸せであるのだけれども、ただ、そういう方
が高齢になって死のことを思うといてもたってもおられない精神状態になるのである
らしい。

  だから、病を奨励するわけでは無いけれども、もし、大病になってしまったなら
ば、一種の覚悟を決めるきっかけにすべきだと思う。人間は徐々に衰退して自然に枯
れるようになるのが理想的だけれども、また、本人もそのように思っていても、親族
の方々は、出来る限りの治療をお願いするでしよう。そして、点滴だとか胃瘻だとか
の処置をして、一日でも一か月でも長生きしてほしいというのが、親族の偽らぬ思い
であろう。しかし、そのことにより、本人の意思とは違って、ベットでただ生きてい
るだけの状態を受け入れなければならない。このことは、大変難しく、重要なことで
ある。0
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冬の運動----雪かき(除雪)

2021-01-21 09:17:42 | 思うまま



     冬の運動----雪かき(除雪)

  今年の札幌は、-12℃まで冷え込んだ日がありました。本日の最低気温は-8度
という報道です。でも、最高気温は4度程度まで上がってくるということなので、風が
吹かなければ、少しは温かみを感じることでしよう。

  雪国の憂鬱は大雪です。札幌は北海道の中でも北陸地方より積雪が多くありません。
今までのところで5㎝程度の積雪です。札幌は広い地域ですから東西南北の地域では相当
積雪差があります。

  その雪の除雪、自らのスコップで行う場合は、雪かきといって、玄関前や歩道の一部
の雪を除去します。この作業が年齢とともに大変辛くなってきます。それでも、あまり無
理をせずに雪かきをやれば、結構な運動量になります。

  もう50年前に関西から札幌に永住しに来たときに感じたことは、白一面で綺麗な町
だというイメ-ジを持ったものでした。ところが、いざ生活するとこの雪とマイナス気温
が、いろいろと困難を起こします。水道の水抜きという作業があります。地面の中の水道
管で、水を止めてしまう装置がついています。大体-10℃くらいになると水抜きをしな
くてはなりません。過去にそれを忘れたために、大変なことになった経験があります。

  雪は冷たいマイナスというイメ-ジがありますが、春にはフキノトウなどが生えてく
る所では、雪が毛布代わりになって、雪の下にはすでにフキノトウが芽を出しています。
ということは、雪の下はマイナス温度が下がらないということです。農家の方が、秋の収
穫を一部残して、翌年の春までそのままにしておくと、大根など美味しさが増してくると
いうことです。だから、雪の活用もいろいろとあるわけですが、それでも豪雪地方の皆さ
んの悲鳴は大変なものだと思います。 0

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商いの日々----スタ-ト時点

2021-01-15 12:55:24 | 思うまま




       商いの日々-----スタ-ト時点

  商いを札幌市で始めたのは、29歳と10カ月ですが、30歳からとしておこう。
退職することが決まってから、勤務の休日に自動車教習所に通った。退職する時には、
まだ、運転免許は途中でとれていなく、大阪の教習所から札幌の教習所に転校しても
らうことができ、札幌での教習所で3か月かかって、免許証が得られた。その間、免
許がとれるまで、自転車で営業活動をするこにして、つまり午前中は教習所に通い、
午後から営業活動である。

  どんな商いかというと、レンタル業(D業)で一般家庭と、事務所、商店に対する
商品のお勧めで、札幌は4月はまだ寒さが身に染みて言葉もはっきりと言いにくい感
じがしておりました。私は、小学生のころより、少し緊張するとどもるところがあっ
て、ますます軒並み訪問に困難を要した。
  D業では何屋さんなのか分からないと思うので、具体的にいいますと、清掃用具
(貸しぞうきん屋)のレンタルであります。商品の説明はそう難しいことはなく、
 「こんにちは、私、貸し雑巾屋です。一度お試しいただけませんか」という言い方
に徹して、所謂バカの一つ覚えで、あまりいろいろと説明はしません。もちろん、こ
んな言い方ですから、「結構です」と断られます。断られるのが当たり前で、私はテ
クニック的なことは考えなく、しつこくせずに件数を回ることだと。

  しかし、ただ件数を回るのも、なかなか難しいもので、たとえば、犬に吠えられ
るとか、こんな立派な御殿のような家ではダメではないかと、また逆に古く手入れの
しておられない雰囲気の家では、ダメだろうと言うような気持が出て来るものでした。
それでも、勇気を振り絞ってというと大げさですが、決して、一軒の家も飛ばさずに
まわることに心掛けたと思う。

  おかしなもので、何日かすると一人二人と商品を試してみようかという方が得ら
れてきた。これならこの調子で行けば、時間・日数は掛かるが、お客様が増えて行く
ことができるような気持ちにだんだんなってきた。その結果というか、回り乍ら危惧
していた、豪華な家とか、古い家の人達もそのなかにいたように思い、やはり、回る
前から、間違った先入観を持ってはいけないと強く感じ乍ら、自らを叱咤しつつ日々
の活動に勤しんでいた。

  そして、6月に入って、やっと自動車の運転免許が取れたので、これからは遠く
にも活動範囲を広げられると、早速中古車を購入した。たしか当時の金額で20万円
だったと思う。
  ところが、張り切って車に乗っていると、軒並み訪問をしなくなってしまった。
運転しながら、どこがいいだろうかと、運転しながら街並みを眺めつつ車をはしらせ
ていたら、結局、歩いて訪問していた時よりも5分に1に回る件数が激減するように
なってしまったのです。もちろん悪いことばかりではなく、事務所の玄関マットやモ
ップを車に積めることになったので、商店や会社事務所への営業活動にも重きをおく
ようになってきた。事務所用の商品は価格も高く、それだけ売上金額も上がって来て
はいたのです。

  でも、私自身は自らの判断で商いについたのですが、どうも営業活動が苦手とい
うか積極的に商品をお勧めできない性格が徐々に浮き彫りになってきてしまった。
過日、商いをしながら、他の頼まれごともやっていたと述べたが、実は、私がM社と
P所に所属していたことが、幸いして、人との縁が出来るようになってきたのです。

  たとえば、アパ-トを借りてその自宅の一室を事務所にしていたのですが、私が
いる時に他社の若い営業マンが訪問にこられることがあります。その時には、玄関先
で断らずに、まあ、お上がりくださいと言って、事務所で一応来られた方からお話し
(営業)を聞きます。その会話のなかで、私が、過去にM社とP所にいたというと大変興
味を持たれて、その自分の話を聞きたいというので、30分も私から過去の所属して
いたところの話しをするこという機会があったのです。

  ある日、その営業に来ていた人が再度来られて、また、営業の話だろうと思って
対応仕掛けたら、
 「実は今日は御願いがあってお伺いしました」
 「なんでしようか?」
 「私の会社の社長にあなた様のことを話したら、社長が是非お会いしたいという
のですが、会ってもらえないでしようか? いかがでしようか」
 「私は何ほどのものではありませんが、私でよければ、営業の合間に貴方の会社に
お伺いしますよ」
  ということで或日、その会社の社長様にお会いしたのです。すると、社長が、
 「内の会社は札幌に5店舗の店があります。そこには店長がそれぞれいるのですが、
貴方ににその店長5人に教育をしてほしいのです」というではありませんか。
 「とんでもないことです、私は若輩で何の実績も残しておらないし、他人様を教育
するなど、とてもできることではありまぜん」と申し上げた。それに対して社長は、
 「教育というと堅苦しいと思われるけれども、あなたが、勤めていた会社の創業者
は我が国では大変有名な名経営者のとしての名高い方であり、そこに述べ11年も在席
していたのだから、あなたが学んだこと、創業者の言葉などを話して頂ければそれでい
いのです。だから是非お願いします。」と、こいう事を言われる社長も世の中におられる
のだと感心しつつ、それほど言われるのであれば、御引き受けしましよう。ということ
で月に一度2時間程度夜に話をすることになったのです。そして帰り際に。
 「それは有難い、ついては講師料をお支払いいたしますが、幾らならいいでしようか?」
と社長が言われる。
 「とんでもないことです、私の様な者が話をすること自体が僭越すぎるのに、お金を
いただくことはできませんし、私の勉強の思いでさせて頂きます」
 「そうですか、それではその件は私が決めることにします」

  実を言えば、一回目が終ったあとで、謝礼ですと渡されたお金が何と10万円あり
ました。10万といえば、当時親子4人が生活できる金額でありました。まだ、商いを
初めて2年程度しか営業をしていなかったので、まだ、生活費を稼げるまでには、いっ
ていなく、ほんとうのところ大変助かったというのが、正直なことでした。

  その話をして6回が終ったところで、私から社長に、
 「もう6回もやらせて頂き、毎月大枚のお金まで頂きました。しかし、これ以上続け
ると前に話した内容を繰り返す部分が多くなってきますので、これで終わりして頂けな
いでか」と申し上げたら、
 「なるほど、あなたがそうおっしゃるのであれば一応これにて終わりにします。つい
ては、お聞きしますが、あなたは何の商売をされているのですか?」と聞かれた。
 「はい、私は、2年半前より、D業のレンタルをしています。」
 「それなら、うちの店が5店舗ありますので、総ての店長に指示しておきますから、あ
なたの商品を収めて下さい」

  商いを始めて10年経ったころには、店長に話をさせていただいた、その社長の会社
が発展して、私の商いの半分にもなる程のお客様となっていたのです。

  このことは、私が勤めていた会社の創業者がいかに有名で全国に創業者のフアンがお
られたかということと、P所でに7年間勤務していたことが、大きく影響していることを
つくづく感じるとともに、人のご縁の不思議さに感激するばかりです。 0




 
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29歳で転職・・・サラリ-マンから自営へ

2021-01-14 14:03:56 | 思うまま



      29歳で転職・・・サラリ-マンから自営へ

  22歳の3月に、P所を退職して自営の道に進んだ。その1年前に最初の子供長女が
誕生してその半年後であった。P所での業務は、京都、札幌、東京、そして本社の京都に
戻って一年後に退職した。これまで約10年間に十数回引っ越しをしたことになっていた
のです。まあ、独身時代ですから、転勤しやすい身の上であったわけですが、それにし
て地域とのふれ合いが全く築くことが出来なかったのです。

  結婚して子供が出来て考えて見る時、このような転勤が繰り返されることになれば、
子供もさぞかし大変な境遇に置くことになるかもしれないという思いが強くなってきて
いた。それに合わせて、私のような我儘な人間はサラリ-マンに適しないのではないか、
能力、実力も学歴もないものが、定年まで勤めることが家族とも含めて果たして幸せに
なるんだろうかと思ったのです。

  そして、余り悩まずに今の商売に転職、所謂脱サラをした。その当時は京都にいた
のですが、転勤で経験のあった札幌で商いをすることにして、家族とも昭和49年3月末
に札幌に引越てきたのです。この決断は今までの中でも一番決断を要したことでありま
したが、それほど悩まずその年の正月には決断をしていました。この時もほとんど妻に
も事前に相談せずにほぼ決定的になってから、話をしたところです。幸い強い反対をさ
れることなく、一応理解してもらったと比較的スム-ズに運びました。

  一般的な見方からすれば、結婚して子供が誕生すれば、今まで以上に亭主として
また親として家族を安定的に養っていかなければならない立場としては、誠に正反対の
行動であったと人はいうことでしよう。さらに、退職した年は、オイル危機の真っただ
中であったのですが、その時分は、世間知らずと言うか、それほど大変な不景気だとい
う意識は全くといって無かったのです。退職する時に上司から、
「今はどんな時代なのか解っているのか」呑気な私は、どんな時代ですか?と聞く有り
様でした。
「今はオイル(石油)危機で、世の中大変な苦境であり、不景気なんだよ」と
「ああ、そうですか・・・・」と、とぼけた返事しかできなかったのです。
これは内心で思ったことですが、今が大変な不景気であると言うことは、景気の底だろ
う。そうしたら、これからは、徐々に景気はよくなるはずだと何の根拠もなく一瞬のそ
う思いました。これが、バブル経済で、世の中が湧きたっている時に商売を始めたとす
れば、その後の商いの内容は、必ずしも良い方向に行かなかったのではないかと、思う。

  多くの人は、出来るのであれば、脱サラして事業をしてみたいと思っている人々が
かなり多くおられると思う。しかし、いろいろ考えすぎると、無理なことだと結論を出
してしまうのではないだろうか。自分がやってみたいことが明確になったらならば、思
い切った覚悟と決断が必要です。でも、あまり考えすぎるとダメな理由しか思いつかな
くなってしまう。たとえ旨く運ばなくとも何とかやれるだろうという楽観的な判断も必
要になってくるものと思う。 

 今、人さまに偉そうなことはとても言えるほど、私の商いが大成功している訳でもな
く、現在、社員3人、パ-ト10人という誠に小規模な商いにすぎません。でも、大きく
なれなくとも、もうあれから、創業して以来47年目を今年迎えることになります。継
続しているこそ、一つの成功であるものと思っています。そして、その47年間の間に
本職とは別のところで、社員研修とか、経営アドバイズとか、ホテルの相談役的な頼ま
れることを夜とか、土日とか、あるいは終末に、頼まれることをいいことに多種類の業
務を体験することができました。

  こんな人生が良かったのかどうか、総てが中途半端では無かったかと思うこともあ
りますが、概ね満足できる日々であったと、この我儘な男を許していただいた世間とい
うものに深い感謝の思いがいたします。これから残り少なくなってきた日々をどのよう
に生き抜いていくがが、一つの楽しみであります。 0



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