美咲ラコルのつれづれなるままに☆

ぼちぼち日々を過ごしています。

選ばれる女におなりなさい デヴィ夫人の婚活論

2020-04-14 12:44:02 | お気に入りの一冊

今月の一冊は

選ばれる女におなりなさい デヴィ夫人の婚活論

ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ

講談社

 

デヴィ夫人を好きだという方に、私は一度もお会いしたことがありません。

バラエティ番組での、元気なお姿を見ながら、

美しいなぁ

面白い方だなぁ

という印象を持っていましたが、それ以外はほとんど知りませんでした。

ある時、「ファミリーヒストリー」というテレビ番組で偶然

デヴィ夫人のルーツを知ることになりました。

 

デヴィ夫人とスカルノ大統領の出会いは、帝国ホテルだそうです。

コーヒーを飲んでいたデヴィ夫人の姿に、大統領は一目惚れだったのでしょうか

ちなみに、スカルノ大統領は大の親日家だったそうです。

19歳のデヴィ夫人は、出会いから二か月後、インドネシアに渡ることを決断します。

スカルノ大統領は、デヴィ夫人に宮殿をプレゼントされたそうです。

 

インドネシアに渡って6年目の1965年9月30日。

突然兵士が宮殿にやってきて、

「昨夜、反乱がおこりました。宮殿から離れないでください」

と言われたそうです。

スカルノ大統領に不満を持ったとされる軍人が、6人の将軍を殺害したそうです。

のちに「9月30日事件」と呼ばれるクーデターです。

幸い、スカルノ大統領の部下のスハルト将軍によってすぐに鎮圧されました。

 

しかしその後、スハルト将軍が自ら権力を握ろうと

スカルノ大統領支持者を逮捕、殺害しはじめました。

亡くなった方は100万人とも300万人とも言われているそうです。

 

スハルト将軍は軍部を掌握。

市民からも支持されるようになります。

スカルノ大統領の退陣を訴えるデモが頻繁に行われるようになりました。

デヴィ夫人への風当たりも強まり

「日本に帰れ」という声もたかまりました。

軟禁状態が半年ほど続いたのちの

1966年3月20日。

事態を改善しようとしたデヴィ夫人は

ジャカルタのゴルフ場で、スハルト将軍に一緒にプレーをしようと持ちかけます。

 

警備する兵士たちに囲まれながら、デヴィ夫人はスハルト将軍に訴えました。

「スカルノ大統領を支えてあげてくれませんか」

 

スハルト将軍は耳をかそうとはしなかったそうです。

まもなくスカルノ大統領は職を失い、幽閉されます。

そのころ、デヴィ夫人はスカルノ大統領との子供を身ごもっていました。

「デモが押し寄せるなかでは安全に出産はできない」と

スカルノ大統領はデヴィ夫人に国を離れるようすすめます。

 

1967年、デヴィ夫人は日本に戻り、カリナさんを出産します。

ところが連日マスコミからの取材が殺到。

そのため半年後、デヴィ夫人はフランスに移り住みます。

 

そして3年後の1970年。

スカルノ大統領の危篤の知らせが届きます。

デヴィ夫人はインドネシアへの入国を禁じられていたにもかかわらず

カリナさんとジャカルタ空港におり立ちます。

当時はクーデターの影響で

空港には厳戒態勢が敷かれていました。

 

デヴィ夫人は、スカルノ大統領との再会をはたすことができました。

翌日、スカルノ大統領は69歳で亡くなりました。

デヴィ夫人、30歳のことです。

 

平成16年、デヴィ夫人は生活の拠点を日本にうつしました。

人にはいろんな観方があります。

デヴィ夫人に対しても、いろんな観方があると思います。

 

自分の命を投げ出しても、スカルノ大統領のために

スハルト将軍に会いに行った勇気を

日本人として尊敬していますし、誇りです。

今もインドネシアでは、デヴィ夫人は勇気ある日本人として知られており

愛されているそうです。

あっ!

本の紹介は明日いたします。

申し訳ございません。

 

今日のブログは、ファミリーヒストリーより引用させていただきました。