初代は“後家殺し”の異名をとった爆笑王、二代目は上方落語を支えた重鎮。そんなずっしりと重くて大きい「春団治」の看板を背負い、華麗な高座をつとめた三代目桂春団治さんが、亡くなった。『上方』を代表する名前がまたひとつ消えた。
戦後まもなくベテランが相次いで亡くなり、もう滅びたとまでいわれた上方落語を現在の隆盛に導いた四人。のちに四天王といわれた「豪放」な六代目笑福亭松鶴さん、「端正」な三代目桂米朝さん、「はんなり」した五代目桂文枝さん。そして春団治さんは羽織のかっこいい脱ぎ方を見るために来る客がいるといわれたほど「華麗で繊細」と評されたが、いずれも故人となった。
春団治代々の出囃子『野崎』に送られ舞台袖を出たところで軽く頭を下げ、高座にピタリ座って、ふたたび深々と頭を下げる。低い声で「ようこそのお運びでありがたく御礼申し上げます。あいも変わりませんバカバカしいお噂をば聴いていただきまして、すぐさま失礼さしていただきます」と決まり言葉で始め、余分なせりふをそぎ落とし、完璧にこしらえた噺を演じきった。
父に稽古をつけてもらったのは「祝いのし」だけ。それも父の入院中のことだった。ネタが多くなかったのは完璧主義だったからとされる。また、上方落語には「あほんだら」「小便」など汚いセリフが時々出てくるが、春団治落語にはそう感じさせない品のよさがあった。