いまどこ ―冒頭表示2
キーボードの2段めと3段目はなぜ互い違いになっていないの - 教えて!goo:
に答えてってな形で部分統合しようかナとも思う。
http://blog.goo.ne.jp/raycy/e/c11db5b33d4a1d67900e568ab0dc6273ではちょっとスレ違うと思う。
http://www6.atpages.jp/~raycy/Q/ を http://www6.atpages.jp/raycy/blog2btron/door やらの作業経過を取り入れつつ、ふくらませるようなかんじで、、
http://www6.atpages.jp/~raycy/Q/ を http://www6.atpages.jp/raycy/blog2btron/door やらの作業経過を取り入れつつ、ふくらませるようなかんじで、、
コンパッション=共苦すること
“苦しみ”はラテン語で「パトス」といい、英語のパッション(passion)の語源になっています。パッションというと「情熱」と思われるかもしれませんが、本来は「苦しみ、痛み」という意味です。苦しいほどの思いのたけが情熱というわけです。ジュースの缶に「情熱の果実、パッションフルーツ」と書いてあるのを見かけましたが、あれは勘違いです。パッションフルーツの花は十字架の形で真ん中のオシベがイバラの冠を思わせることにちなんだ名前です。
欧米で上演される「パッション・プレイ(Passion play)」を情熱的なラブロマンスと期待して見に行ったらとんでもなく失望することでしょう。キリストの受難劇のことだからです。
パトスが「苦しみ」ですから、patientは苦しむ人、すなわち患者のことで、苦しみを耐えることがpatience(忍耐)となるわけです。
苦しみは、自分の痛みからくるとは限りません。他人であれ他の生きものであれ、苦しんでいる姿に接するとき、見るものもこころが痛みます。身体的苦痛ではありませんが、スピリチュアル・ペインを感じるわけです。それがわが子のことともなれば親としては自分の場合以上に苦しいものです。人は他者の痛みを身体的に引き受けることはできなくても、こころにおいて共有できるのです。
痛み、苦しみにおいて互いに固く結びつき、それを共に担うことで重荷が軽くなり癒されるきっかけとなり得るのです。「わかちあえば喜びは二倍に、苦しみは半分に」という言葉には真実があります。
苦しみを共にすること、それを英語ではコンパッション(compassion)といいます。コム(com)は「共に」、パッション(passion)は「苦しみ」。文字通りには「共苦」ということですが、字引を見ると「憐れみ、愛、慈悲、同情」などと訳されています。
日本語で「憐れむ」というと、何か高所から見下ろすようなニュアンスがなきにしもあらずですが、「憐れみ深い」ということは苦しみを共にできることであるわけです。漢字の「憐」という字もよく見れば「心を隣におく」と書きますし、「あわれ」という言葉も「ああ、われ!」、つまりもはや他人事ではなく、わがこと、自分のこととして受けとめ、こころふるわせるという共苦する姿が見られる表現です。
この「苦しむものと共にいてその苦しみをわがこととして受けとめる」という姿勢は聖書に通底する大切なモチーフでもあります。カトリックの作家、遠藤周作さんの多くの作品の中心的テーマでもあり、彼はスーパーマンのように強い救世主ではなく、むしろ弱々しいが私たちと共にいて「共に苦しむ神」としてのキリスト像を切なく美しく描き出しました。
その極みが十字架上のキリストのイメージです。神の子であるキリストが、人の罪を身に受けて苦しむ。苦しみを担い、苦しみを共にして、苦しみを通して人を救うという不思議な考え方がそこにあります。