実家近くに住む娘たちやホスピスと葬儀社に知らせると、すぐに深夜の我が家に集まった。 やがて葬儀社が遺体を引き取りにやってくる間に、スエーデンの次男一家、マサチューセッツ州の三男一家に連絡したが、二人ともついこないだカリフォルニアへ父親の見舞いに来ていたばかりだった。私は葬儀の予定が決まるまで急いでくることはないと言い、また本人たちも変わり果てた姿を目に焼き付けるよりも最後に話しのできた顔を覚えていたい、と希望した。
同様に末娘は5月に次男を出産したばかり、4歳の長男もいることで深夜に疲れている娘に、もう話せない父親に会わせるのは酷だと思い、明日でも子供たちといらっしゃいと告げた。末娘も数時間前土曜日の晩に、「また明日くるわね」と父親に話していたのだった。下3人の子供たちは、痩せ衰えた父親の姿に涙していたのを私は知っている。
私は深夜実家に駆けつけて泣く長女と末娘の夫と長男を抱きしめ、その時初めて少し泣いた。
こちらの例年の酷暑が続き、そのためなのか、亡くなる方が非常に多く、葬儀社と墓地は二週間後でないと葬儀も埋葬式もできないとのことで、エムバウミング(防腐措置)と冷蔵を取り計らってもらい、教会のビショップに連絡を取り、7月31日の教会使用を確保してもらった。すぐに新聞社に連絡し、訃報欄用に記事を書き、生前の写真を添付して送り、会社や保険会社や親族・友人には長男と共に、次女の夫が弁護士なので、全て連絡を執り行ってくれた。
そしてこの月曜日、葬儀が無事行われ、多くの方々が参列してくださった。フェイスブックの力は大したものだと思うが、アメリカのあちらこちらから参列なさる方々もいらっしゃり、特にヴァケイション中なのに急遽飛行機で来られた方々もいらして、心から感謝している。花やプランツもまるで花屋が開けるほど贈っていただき、教会の礼拝堂から埋葬式の墓所に溢れ、我が家のダイニングルームのテーブル、応接間のコーヒーテーブル、キッチンテーブルとカウンターまでぎっしりと花瓶に入ったブーケやプラントの鉢でいまだに賑わっている。参列者記帳を見ると、律儀な方々のサインで埋まっている。感謝の念に絶えない。
葬儀後、教会のカルチャーホールで昼食を用意し、その支度もサーヴィングも後片付けも全て教会員の皆さんが取り仕切ってくださった。ベッドに寝たきりの夫だったが、毎週必ず訪問してくださった友人、知人、夫の兄姉、隣人、教会員の方々は庭の芝刈りや手入れに毎週のように世話をしてくださった。私も夫も食事は一人分でさえ余るので、それは辞退したが、物質的なことばかりか、精神的な支えとなってくださり、毎日祈りに私たちを含めてくだっていることは、実際に非常に感じていた。
こうしたこの世での人生における負の経験の中でさえ、私も夫も実は、苦しみ、悲しみ、絶望することは一度もなかった。どちらも不満や不平を口にせず、夫は私に面倒をかけてすまないと常に言ったが、私は、毎日ずっと一緒にいられることがどんなに楽しいことか、と答えて、本当にそれは真実だったから、私は落ち込むことなどなかったのである。
今ほど夫と私と子供たちの持つ信仰を有難いと思ったことはなかった。福音という知恵は絶望や失望どころか、希望に満ちている。わたしたちがどこから来て、何故ここにいて、何の目的があるのか、死後どこへ行くのか、すでに知っていることはどれほど幸せなことだろう。夫も私も子供たちもだから、取り乱して泣き叫ぶなどはせず、夫の「卒業」を静かに感謝し、霊の世界に赴き、やがて復活の朝に再び肉体を得てお互いにまみえることを知っていて、それを楽しみを超えた希望として残りの人生を全うするのみである。再会の嬉しさがどれほどかは、想像がつかない大きな喜びであるのは間違いはないだろう。
この7ヶ月夫の傍で、以前にまして聖典を読み、キリストの福音を学び、多くの聖句に喜びを得て、励まされ、時には二人で英国のミステリー番組や古い映画を熱心に観て、よく話し、よい思い出をたくさん作れた。夫は私の一番の親友であったし、私や家族をいつも優先してきた。この最後の月日、片時も離れずに夫の世話に専念できたことは、私にとっては今までの恩返しで、また栄誉に思えさえする。夫は本当に良い人で、人を助けることは自分の家族を助けることと同様に大事なことだった。そんな彼の素晴らしい笑顔にまみえる日まで、多くの思い出が私を支えてくれるだろう。そして夫の人柄のひな型かのような娘たち息子たち、その伴侶、10人の孫たちが、私の時がくるまで心の灯火となることだろう。未来は明るい。
誰にでも愛されて、誰にでも親切でいた人。