ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

嗚呼月の明かりよ

2024-02-27 | 自然に憩う
セントラルヴァレーから冠雪したシェラ・ネヴァダ山脈をのぞむが、麓の丘は緑、そして葡萄棚と麓の丘の間にはアーモンドが花盛りの2月である。
Photo Credit: Paul Marshall/Bill McEwen 2/17/2024



2月の満月は、スノウ・ムーンで、ハングリームーンともアメリカ原住民の諸族では言われてきたが、確かに2月はここカリフォルニアの野山にさえ積雪は見られる(上記写真)し、冬故に食糧にも事欠くことが度々あったことだろう。特に北東部居住の種族は苦労が絶えなかったに違いない。

そんな満月を撮影してみたい、と急に思いついた私は、部屋の灯りを全て消し、暗闇の庭に植えてある8本のレッドウッドの上に浮かぶはずの月を探した。ところが、いくら庭用に売られているレッドウッドでも25歳になれば、かなり丈がある。結果枝の間から顔を覗かせている月となった。

写真家の父を持っていたと言うのに、カメラや撮影の仕方などまったくちんぷんかんぷんのこの娘は、アイフォンのカメラ機能でしか撮影しない(できない)。
それでも少し驚いたのは、煌めく星まで写っている。月もちゃんと木のあちら側で光っている。偉いな、アイフォン!


多くの人がそうであるように、私も月が好きで、以前も書いたが、月の光は剃刀を鈍らせると言われている(長男のサイエンスプロジェクトで調べたが、別に月の光は剃刀を鈍らせることも鋭くすることもなかった)。シェイクスピアに至ると、そのAct2 Scene2で、ジュリエットはロミオが彼女への愛を月に誓うと、「ああ、月に賭けて誓うのは止めて。 移り気な月はひと月ごとに満ち欠けを繰り返す。 あなたの恋もあんなふうに変わり易いといけないから。」とぴしゃりと言わしめた。

でもそれは月のせいではない。開拓時代なりゴールドラッシュ時代に髭をそって剃刀をそのまま水辺に置きっぱなしにした男性が翌朝夜露に濡れて錆つき始めていたのかもしれない。月の満ち欠けにしても、それは決して月の思いつきでも気まぐれでもないのに、移り気呼ばわりは可哀想だ。

月にはロマンティック性もあるし、センチメンタルになることもあるし、だから音楽ならば、月に関する曲や歌は沢山ある。クラッシックなら、ベートーヴェンはムーンライトソナタを、ドビュッシーは”Clair de lune”という月光の曲を作った。ポール・ヴェルレーヌは1869年にClair de lune(月の光)という詩を書いた。

現代では、Moon Riverムーンリヴァーはクラッシックなポピュラーソングだし、Fly Me To The Moonフライミー
トゥザムーンもそうである。

1970年代以降では、ニールヤングのHarvest Moon(メランコリーだが、同時にちょっとした幸福感も伺える詩)、スティーブンビショップのOn and Onの一節にも、”Poor ol' Jimmy Sits alone in the moonlight"(可哀想なジミーは月明かりにひとりで座っている=愛している彼女に裏切られて)とある。寂しさが引き立つのが月明かりと言う解釈も多い。

Nick Drake(ニック・ドレイク)という1970年代の詩人で歌手は、Pink Moon(ピンクの月)を書き、歌ったが、これは鬱病を持っていたドレイクの最後の歌となった。確かにこの詩は寂しい。

山ほどある月の歌で、私が好きな曲がいくつかある。最近では、Bruno MarsのTalking To The Moon(月に語る)がある。これも喪失とそれに伴う寂寥感、それとひと振りの望みがある。そうした孤独な月の解釈に比べて、多少明るいのは、Dancing In The Moonlight(月明かりの下のダンス)である。

これはこの歌詞を書いたシャーマン・ケリーが、1969カリブ海にあるアメリカ領ヴァージン諸島セントクロイ島を訪問した時、クロイのギャングに襲われ、負傷したことがきっかけとなったのだった。このギャングは8人のアメリカ人訪問客を殺害したことでも知られている。

その歌詞には、月明かりに熱気を持ってダンスをするみんなは、争いや喧嘩とは関係なく、人生を謳歌し、平和な時間を楽しみたいだけだ、という内容だ。そのメロディも楽しい。私が月に抱く感情に似ている。

満月の美しさをただ素直に愛でたい、青い月の光に夜空を見上げて遠い昔の楽しかったことでも思い出そう、というのが私の素朴な気持であり、自然や自然現象に憩いたいのである。当然狼少年や狼男の出る余地はない。美しい宵に、窓辺でレッドウッドの後ろに浮かびつつある月を待つのも乙なことではないだろうか。






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癒されること

2022-12-06 | 自然に憩う

credit: youtube dreamy sound

もちろん、末娘の部屋とは大違い。理想的な書斎・図書室。

 

 

 

夜明け前に私が書斎代わりにしている末娘の部屋で、書き物をしていると、雨垂れに混じって、紛れもないホホウと言う鳴き声。 ここは市街地、住宅地と言えど、背の高い見上げるレッドウッドやコットンウッドなども植えられているし、野鼠、リス、オポッサムそして狐さえ豊富にいるから、フクロウもシエラ・ネヴァダの麓の森やもっと遠くの古い森から飛来しても不思議はない。 ただその鳴き声を聞くのは、ここへ越してきて25年で、これがただの2度目である。 あれはアメリカコノハズクだろうか。 

夜明け前の闇を突くように連れ合いや仲間に何かを知らせたのだろうか。 隣の市では、人通りの多い、交通量もある街区で、昼間ボブキャットが平然と歩いていたのが、つい最近新聞の記事になった。 ボブキャットは小型の野生ネコで、クーガーやマウンテイン・ライオンやプーマほどの大きさではないが、野生は野生、不用心に近づいたり、触れることは危険である。 シリコンヴァレーのサンノゼ市中や住宅地でさえ、そしてサンフランシスコの丘にさえ、クーガーは出没するのだ。 クーガーやクマは困るけれど、コノハズクや古い納屋に住み着くメンフクロウなどは、いくらでもいらっしゃいと歓迎したい。

 

Credit: Brandon K. Percival

あれはあなたでしたか、アメリカコノハズクさん。

 

まだ暗いうち(と言ってもほぼ7時)に下へ行き、ガラージから日曜版の分厚い新聞を拾おうとすると、すでにガラージの外へのシャッターが暗い外へ全開していて、湿った冷たい空気が入っている。 2台の車はガラージに整然と収まっているし、夫は2階でまだ寝ているし、はて、一体どういうことだろうと首を傾げた。 土曜日は午後からずっと子供たち家族が来て、クリスマスクッキーを焼き、飾り付けていたから、誰かが帰宅する折、壁のオープニング・ボタンを押して外に駐車した車へ向かい、そのまま閉め忘れたに違いない。 ということは、一晩中ガラージ・ドアは開けられていて、野鼠や虫や野良猫などが、冷たい雨と風をさけて入ってきていたのかもしれない。 幸い人間が侵入した気配はなく、第一ガラージの片隅にはハスキーのブーがクレイトのふかふかの寝床でカバーもされて寝ていたから、おそらく何事も起こらなかったのだろう。 よかった。 それで気がついた。 さっきのホホウは、ガラージに侵入せんとした野鼠のような小動物を獲得後の鳴き声だったのかもしれない。 やけに2階の私の「書斎」近くで聞こえたのだから。 完全に私の妄想かもしれないが、なんだか嬉しくなった。 カリフォルニア州農家が広大な畑のあちらこちらに猛禽類、特にフクロウの巣箱を設置しているのは、以前ブログに書いたが、その恩恵を受ける農業従事者のような気持ちになった。 フクロウや猛禽類による農業への多大な恩恵は、計り知れない。 

しばらく前に、大学図書館の駐車場に駐車した車へ向かい歩いていると、夕焼け空に聳える図書館屋上の端に鳩を威嚇するために置いてあるフクロウにそっくりのディコイ(偽物)をふと見上げると、その偽物がホーホーと言ったので思わず足が止まった。 「最近のディコイはなんと精巧に出来ているんだろう、鳴き声も発するなんて、」とじっくり眺めてしまった。 するとそのディコイは突如大きく翼を広げ、飛び立ち、その時初めて本物だと気がついた。 あの大きさからすると、あれは、アメリカワシミミズクに違いない。

Credits: Alan  Andrew / Copyright: RichardSeeley

アメリカワシミミズク

 

 

南カリフォルニアではついぞお目にかからなかった野鳥である。 もともとそう複雑な精神構造ではない私は、感激した。 そして今でもあの時お目にかかれて幸いだったと思う。 カリフォルニア州のこの種のフクロウは比較的アラスカ州のよりも小さいが、それでも平均50センチの長さがある。 おそらくこのアメリカワシミミズクが一番大きなフクロウだとすると、一番小さいと思われるジョニーフクロウは、南カリフォルニアに住んでいた頃しょっちゅう見かけたものだった。 子猫のような大きさだが、獰猛なところが多く、教会の側壁のところに簡単な巣を作って家族で住んでいた。 そして畑地を流れる水路の土手に穴がたくさん開いていて、そこには大抵ジョニーフクロウが住んでいるのだ。

 

 

Credit: Alan Vernon 2010 

Burrowing Owl ジョニーフクロウ

 

人間社会の軋轢や生きることのしがらみに心が擦れているような時、自然はこんな形でも癒してくれる。 朝早起きして書き物をしていて、ラッキーだった、と思える日曜は幸先の良い一週間が待っているような気がする。 頑張れば、こんなことでもご褒美が与えられるものなのね、と妙にうなずいた。

 

 

 

 

 

 

コメント (1)
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