ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

藤の花から

2022-03-29 | わたしの思い
Photo Credit: Pixabay

 

 

 

 

ここ最近はめっきりと初夏のような陽気になり、夜間は就寝時に寝室の窓を開けてみた。 最初の二晩は、あっという間に寝つき、翌朝十分安眠した快感さがあり、外気に触れて、眠られるというのは幸せなことだと思った。 夫もそうであった。 ところがそれから三日目の明け方、自分の喘鳴で起きた。 気管支喘息の到来。 寝室の窓の下、一階のパティオに植えてある藤が満開になっていたのに気がついた。 その眺めを愛ではしても、その花粉や香りには、アレルギー反応を起こす。 

喘息症状はバンデミックが始まった以来のことである。 この二年間常時マスクを装着、ソーシャルディスタンスを守り、手指の消毒を怠らずにきたおかげで、合衆国はふた冬はインフルエンザ感染もなかったし、風邪もひかなかった。 おかげで私の喘息も収まっていたのだった。 さっそく常備してある吸入薬二種(救急用の気管支拡張薬と長期管理薬=メインテナンス)とネビュラライザー(薬液を霧化して肺に届かせる電気医療機器)とそれ専用の薬が突然の喘息発作を抑えてくれる。 毎年春秋はそうした薬のストックをしっかり確認しておいてよかった。 緊急治療室へ連れていかれるのも感染危惧があり、それが命取りになる可能性も捨てきれない。 特にステロイド薬(緊急に役立つ)の普及は、喘息発作による死亡や入院を大幅に減らしているのだから。

 

 

Life Savers 命の恩人

 

アメリカのCovid−19の感染状況は、たいして好転しているわけではないが、各地で子供も大人ももうマスク装着せずによろしい、となり、ソーシャルディスタンスも別に取らずともよい、ただし、3回のワクチン接種済みであれば、という。 つまり特にマスクはいらない、というのは、現政権の選挙までの点稼ぎに過ぎない。 教会へ集うも、マスクをしている者はひとりもいない。 横浜の姉にそういう状況を話したら、「怖いなぁ」の一言。 私もそう思いますがね、と私も一言。 アメリカ人はマスクをすることが感染して入院するより怖いらしい。

もしかして、これは(キリスト教徒の多い)欧米人と日本人の死生感の違いかもしれない。 米国は世界最大のキリスト教徒人口、具体的には世界最大のプロテスタント人口を抱えており、2億3000万から2億5000万人のキリスト教徒がいる。 1億5000万人以上がプロテスタント教会に所属している割合は高い。 10年前の75%から減少しているとは言え、2021年に米国の人口の63%をキリスト教徒と自認する人々が占めている。 ちなみにドワイト・D・アイゼンハワー大統領が署名した1956年の法律で確立されたアメリカ合衆国の現代の公式モットーは、”InGodWeTrust”である。このフレイズは、1864年に米国のコインや紙幣に最初に登場して以来である。 度々このフレイズがアメリカの権利章典の信教の自由に違反するのではないかという嫌疑が騒がれるが、この「神」がキリスト教の神だけにあらず、回教徒やユダヤ教などの神と捉えても、間違いはないと思う。(仏教とて確かにブッダは神ではないが、並外れた存在だが、この『神』は信仰の対象と考えられる。) コインや紙幣にはそう印字されていても、信教の自由はしっかりある。

 

 

 

とにかく合衆国には未だ全国民の63%はクリスチャンであると自覚していることから、そこにあるクリスチャンの死生感が、仏教や神道など八百万の神を生活に取り入れる日本人のものとは違いがある。 どう違うのかというと、キリスト教徒は、この世は来世につながるもので、ここでは人間として様々なことを経験し、人間を磨いていく修行の場でもあるということだろうか。 従ってこの世を去ることはつまり死はこの場限りの生で終わり、と往々にして思う日本人とは異なる。 同時に死を極端に恐れ、忌み嫌い、絶望感を持つのではないだろうか。 だから、マスクを装着することは、しかも強制されることは、持って生まれた自由意志を否定し、たとえ感染の危機があるとしても、上からの「命令」には従わない、という考え方をする人がアメリカには多く、またクリスチャン生活をするヨーロッパ人にもある。

キリスト教徒はイエス・キリストの贖罪によって、人類は誰でも、たとえ犯罪人でも死して復活するものだという教えが根底にある。 そして各自のこの世での経験や行いによって、裁きを受けるわけである。 全人類が霊の牢屋から解放される日がやってくると信じるから、先に逝った愛する家族や友達や隣人に再びまみえるという希望があるのだ。 人生はこの世限りでない、という考え方がその教えの基本にあるのだ。

アメリカの建国の父祖のひとり、パトリック・ヘンリーは、ニューイングランド地方への英国の支配に抵抗する運動に加わり、演説をしたが、その閉めに、こう言った:”Give me liberty, or give me death!" ( 「私に自由を与えよ。 然らずんば死を与えよ。」)  だからアメリカ人の「マスク装着は上から命令されたくない」のは、つまりこの文言に由来するのではあるまいか。 合衆国に帰化した私は、それでもN95マスクだって息苦しさを堪えて装着している。 日本人だから、道理にあった「命令」には従う。 なによりもマスク装着は感染・入院よりも怖くはない。

 

Adobe Stock

 

 

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背骨

2022-03-26 | アメリカ事情

 

 

 

 

 

先日骨密度検査を受けたが、この時、きっちりと身長も測ってくれて、なんと20歳の頃よりも1インチ(約3センチ)伸びている。 そんなことがあるのだろうかと訝る私に医師は、「姿勢にいつも注意していますか?」と聞く。 姿勢は、大学時代に出会ったダンスをする日本人の友人が、始終気をつけているというのを真似して、なるたけまっすぐ背筋を伸ばしたり、猫背にならないように極力気をつけているが、それはどなたでもなさることだろう。 固めのベッドを好むことがよかったのだろうか? はて。

医師は、「あなたは、アルコール飲料もコーヒーも、タバコも嗜まないんでしたね? 水分補給も十分なようですし。」と言い、「きっとなにか今までの人生で健康でいられるような生活をなさってきたのでしょう」と理由付けする。 ???でいっぱいになった頭を傾げながら、オフィスへ戻ろうと車に戻った。 私は確かに日本人女性の平均身長よりすこし高い。 そして子供達の背丈について考えてみると、末娘が私と同身長で、長女は168cmはあり、息子たちは6フィート(182.88cm)かそれ以上で、夫は6フィート2インチ(187.96cm)である。 

確かに水はよく飲むが、運動はトレイルを歩き回るくらいでヨガも高酸素運動もしてはいない。 その時ふと思い出したのは、数年前に読んだ医療ジャーナリストの記事である。 それは椎間板は、朝夕で伸び縮みする、という話で、下出真法(しもで まさのり)という整形外科医の話が書かれていた。その医師によると;

背骨は、骨盤の上に、椎骨という骨が24個も積み重なってできているものである。 小さな骨が連なっているから、全体が滑らかに曲がったりねじれたりでき、その椎骨と椎骨の間に挟まっているのが、椎間板だ。 これは弾力性に 富む組織で、背骨にかかる重さを支えるクッションの役割を果たすために髄核があり、そこが水分を蓄えることによって膨らみクッションとなる。 その髄核の水分の増減によって、人の身長は伸び縮みすると言う。 つまり、計算すれば、椎間板の厚みが1ミリ程変化すれば、全体で2センチ以上変わることになるそうだ。 その椎間板のわずかな厚みの変化が、身長を大幅に伸び縮みさせるらしい。

だから、朝と晩では、身長差が生じると言うことだ。 無重力宇宙に滞在して地球に帰還すると飛行士たちの身長は、4、5センチも増えているそうだが、私は最近宇宙から帰還した覚えはないし、宇宙をさまよう夢を見たことがあるだけだ。 地球上で朝晩で変わる身長差は、1、2センチなのに3センチ伸びていたならば、よもや夢か現かのどこかで私はひっそりと、幽体離脱でもしていたのだろうか。 

とにかく椎間板には血流がなく、髄核が伸び縮みすることによって水分が循環させられているという話である。 そのため椎間板の健康を維持するには、その循環を妨げないために、背中への圧力を適度に変化させ、同じ姿勢を続けず、こまめに体を動かすることだそうである。 椎間板に適度に圧力をかけたり、休ませたりすることだ。 そうしないと髄核による水分の循環が悪くなり、酸素と栄養を供給できなくなり、椎間板の老化が進んでしまう。 だからといって、横になってばかりでもいけない。 適宜に歩いたり、こまめに動くことが大切だと下出真法医師は言う。

そうした知恵は、専門家から聞く機会がなかったが、その記事は役立った。 たまたま検査したのが朝だったので、帰宅後我が家の「あの」壁の前に立った。 子供達や孫達、子供の友人達、はたまた床を板に貼ってくれた作業員の身長まで記してある壁である。そこで測ってみたら、やはり朝のままであった。 そうか、それでは医師が言ったように、これまでの習慣だろうか。 水をよく飲むことや、固めのベッドを好むこと(ベッドが固めだと朝は早く起きられるし、固いが故にじっと同じ姿勢ではいられない)、走るのはしんどいから、歩くことを運動としようと決めて、知らず知らずのうちに背骨の健康につながっていた、ということに調子よく決めておこう。 これに熱心な断捨離活動が加われば、適宜に体を動かすことに繋がり、そうなると家も片付き、椎間板だけは健康のまま、思い残すことなく舟出できる、という一石二鳥となるだ。 あくまでもの話。

 

usgs.gov

 

 

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殺伐とした世の中で

2022-03-23 | 人間性

BBC.com

 

 

 

三月もあと一週間余りを残すが、この月は誕生日を迎える人が多い。夫の姉、我が家の長男、そして三男の妻。 結婚記念日などの記念日もある。 夫の姉と三男の妻には、チョコレートの箱と花束それぞれ2打のバラを長い箱に入れて配達するサーヴィスを頼んだ。 古い映画の見過ぎと思うが、私は花の宅配には、必ず花の箱に入れて配達してもらうのが好きだ。 普通のガラス花瓶付きは、往々にしてローカルの花屋が店にある花を入れてくれても、注文した花と大分異なるものが配達される。 その点花問屋から直接箱入りで届けられるものは、注文通り、希望通りであるのに気がついたのである。 

オンラインで注文手配できる花屋は、いくつか気に入ったサイトがあるが、その一つのウエッブサイトには、気の利いた言葉のヒントをくれるような引用文を掲載している箇所がある。 著名な人々の遺した身近な文、言葉である。 その中でLady Gagaのものに行き当たった。 

Lady Gaga曰く:I've been searching for ways to heal myself, and I've found that kindness is the best way.  「私は自分自身を癒す方法を探していましたが、人への思いやりが最善の方法であるとわかりました。」 Lady Gagaは歌唱力や演技力があり、その才能と共に時折奇抜な言動がよく話題になる。それでも彼女は 例えば日本での東北大震災時には、前宣伝なく、密かに多額の寄付をしたり、自身の虐められた経験から、虐めの犠牲となる子供たちや人々を支援したりして、自分の言ったことを実行する人だ。

殺伐という言葉は、それ自体物騒だが、英語でも、sanguinary, inhuman, bloodthirsty, bloody-minded,などと恐ろしげで、不快なものである。 長引く疫病、勃発した侵略戦争、天井のない物価高、物不足、など、人々が砂を噛むようなあるいは薄氷の上を歩くような世情は、少し前までは、そんな状態があるとは多くが体験しなかったはずである。 日本では「平和ボケ」という言葉がそこらへんをしょっちゅう闊歩していたはずである。 

それはほんの2年ほどですっかり様変わりしてしまった。多くは、自分にできることから始めて、ワクチン接種、マスク装着や手指消毒を頻繁に行い、不要不急の外出や集まりを避け、ひっそりと自宅で仕事をしたり、学業をしたり、つまり忍従を強いられてきている。 もともと現代人の物事に対する注意持続時間は短く、それを2年続けているうちに、不平不満が噴出し始め、1年目にしても行き場のないやるせなさや鬱憤を晴らしたく、それは凄惨ないじめや人種問題・差別となって報道されている。 そのたるものが、ある国の隣国への侵攻やある閉鎖的な独裁者国のミサイル多発射である。 

17〜18世紀盛んだった宗教的な従来の権威を離れ、理性(悟性)による知によって世界を把握しようとした啓蒙思想運動のジョン・ロックやヴォルテール、ジャック・ルソー、モンテスキューなどなどの啓蒙界の重鎮たるヨーロッパ人の思想家たちは、今現在を見て、さぞかし嘆くのではなかろうか。 アメリカとて、18〜19世紀の思想家たるジョン・アダムズ、ジェームズ・マディソン、トーマス・ペイン、ジョージ・メイソン、ジェームズ・ウィルソン、イーサン・アレン、アレクサンダー・ハミルトン、そして博学者のベンジャミン・フランクリンとトーマス・ジェファーソンは、現代人が実はなにひとつそうした啓蒙から学ばず、進歩していないことを嘆くやしれない。

時には象牙の塔に籠もって研究し続けたり、あるいは実際に生きて生活して生まれただろう啓蒙思想は、現代人には何一つ役立たないのだろうか。 難しいなんとか論を振りかざしても、知によって世界を制覇しようとしても、やり遂げられることは数限りなくありそうで結局ないのかもしれない。 そうすると、Lady Gagaの言うところの「人への思いやりが最善の方法」であるような気がしてならない。 

昔から好きな短い子供の歌がある。 

”Kindness Begins With Me"

I want to be kind to ev’ryone,
For that is right, you see.
So I say to myself, “Remember this:
Kindness begins with me.”

「自分から始めよう」

誰にでも親切 大事なこと

自分から始めよう 人に親切

Words and music: Clara W. McMaster, 1904–1997. © 1969 IRI

 

 

この小さな歌の中に、人々が気に留め、行動したい大切なことがしっかりと詰まっている。 もしひとりひとりがこれを心掛け、行動したら、世界はどうなっていくだろうか。

robynbirkin.com

 

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情けは人の

2022-03-21 | わたしの好きなもの

Luke 6:31

 

 

 

日本語に浸って暮らすことがなくなって久しいが、TV Japanという北米向けの殆どがNHK構成によるケーブル局をたまに観る時、あら、この言葉使いは、なんだかおかしく聞こえる、と思うことがしばしばある。ニュースでもそうである。 

〜をさせていただきます、というような慇懃無礼にさえ聞こえる物言いは 〜致します、〜致しましたであったものと思う。 何をなさっていらっしゃるのでしょうか、と言うところを何を「されている」のでしょう、になってしまうと、なにか悪いことを「されて」いる、という意味合いにも取れる。

そうした混同や勘違いによる誤用は、ことわざの世界にも及んでいる。 たとえば、情けは人の為ならず、という本来の意味が全く異なった意味となってしまっているのがある。 現代人の多くはこれを誤用し、「ならず」を「~ではない」ではなく「~にならない」と誤解している。「情けは人の為ならず」は「情けをかけることはその人の為にならない」という意味に間違えている。 

これは、「ならず」を「ならない」と誤訳し、そのために起こった間違いだ。 ここで言う「ならず」は「だけではない」である。 つまり情けは人の為ならず、は「人に情けをかけることは巡り巡って自分に返ってくる」あるいは「人にする良いこと(善行・親切)は自分にも巡ってくる」という意味だ。 次の実際にあった話は、情けは人の為ならず、を本来の意味で非常によく表している。 

フレミングという貧しいスコットランド人の農民がいた。 ある日、家族のために細々した生計をどうしたら改善できるか考えながら歩いていると、近くの泥炭沼から助けを求める声が聞こえた。 彼は持っていた農具をその場に置いて、沼地に駆け寄った。 そこには、黒い泥炭に腰まで沈み、恐怖に駆られている少年が、そこから抜け出そうともがき苦しみつつ叫んでいた。 父親であるフレミングは、ゆっくりと恐ろしく死に至ったであろう窮地から、少年を救い出した。 

翌日、豪華な馬車がフレミングの貧相な家に着いた。 優雅な服を着た貴族が馬車から出てきて、フレミングが救った少年の父親として自己紹介した。 「私はあなたにお礼をしたいのです」と貴族は言った。 「あなたは私の息子の命をお救いくださいました。」 「いいえ、私がしたことに対する支払いは受け入れられません。」とスコットランド人の農民は申し出に答えた。 

その時、農夫の息子があばら家の戸口にやって来た。  「このお子さんはあなたのご子息ですか?」貴族は尋ねた。 「はい」と農夫は誇らしげに答えた。 「それではこの提案をしたいと思います。 あなたのご子息を私がお連れして、良い教育をお受けになられるように致しましょう。 この若者が父親のあなたのような人格をおもちになるならば、彼はあなたが誇りにお思いになられるお方に成長なさいます。」

さて、この農民フレミングの息子が成したことは、やがてロンドンのセント・メアリーズ・ホスピタル・メディカルスクール(セントメアリー病院医学部)を卒業し、ペニシリンの発見者の有名なアレクサンダー・フレミング卿として世界中に知られるようになったことだ。 

数年後、泥炭沼から救われたあの貴族の息子は肺炎に襲われた。 何が彼を救ったのか?  ペニシリン。 その貴族の名前はランドルフ・チャーチル卿。 彼の息子の名前はウィンストン・チャーチル卿であった。 人はかつて言った、情けは人の為ならず。

 

 

 

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アイリッシュのお祭りに一考

2022-03-19 | アメリカ事情

 

 

 

3月17日が夫の姉の誕生日なので、月曜日には、2ダースのバラの花束と箱入りチョコレートの配達を手配した。 もう今年もセイント・パトリックの日がすぐそこだ、と思っていたが、当日の17日の朝、出勤の支度をしている時はすでにそれを忘れていて、それでも偶然緑色のカーディガンを紺のワンピースに羽織った。そしてオフィスに着いてから、同僚が緑のカップケーキを持ってきていたのを見て、ようやく、そうだった、と気がついた。 別にアイリッシュではないし、カトリック教徒でもないが、普通この日は緑を身につけていないと、つねられる、と言われる。 尤も、つねられた3月17日は未だ経験していない。

 

 

何気なく羽織った緑色。

 

普段は遠慮するが、このちいさなカップケーキの美しい緑色に誘われて。。。意外に美味しかった!

 

特にアイルランド移民やその子孫が多い東部のボストンやニューヨーク、中部のシカゴでは、かなり大掛かりにこの日を祝う。 Covid-19のおかげで、行事を控えていたが、マスク装着義務の解けた今は、以前のように警官・消防士などを始めとする団体のパレードが催され、去年はホワイトハウスにある噴水を緑に染めたり、シカゴのシカゴ川も緑色になった。 

この聖パトリック(下図)は、アイルランドにキリスト教をもたらしたとされているアイルランドの守護聖人である。 シャムロックは聖パトリックがその伝道に、御父(神)、御子(キリスト)、そして聖霊のカトリックの言う三位一体を説明するのに使ったと言われる。 (プロテスタントの宗派によっては三位三体である。) アイルランドでは、聖パトリック以前にも、古代ケルト人は四つ葉のクローバーを悪霊から守るお守りと見なしていた。

 

 Nheyob/Wikimedia Commons

 

ローマン・カトリック国のアイルランドは、それでも昔から妖精譚がたくさんあり、以前ブログでも紹介したが、セイントパトリックスデイによく顔を出すのは、あの緑のちいさなレプラコーンLepracaunである。この妖精は地中の宝物(特に金貨)がどこにあるのか知っており、虹の橋の終わり(たもと)には、黒い大鍋いっぱいの金貨があるという伝説もある。もちろんそこには誰も行きつけない。このレプラコーンはアメリカのジェネラルミルズ社のシリアル、ラッキーチャームによって子供たちにもおなじみであり、毎年セイントパトリックスディが近づくと、下のように緑色の箱になる。

 

 

Lucky Charms, General Mills

 

朝食にセイント・パトリックに敬意を表する孫たち

 

横浜の姉がテキストしてきて、元町でセイントパトリックスディのパレードを催したと言う。 それには、姉も私も失礼ながらおおいに笑ってしまった。 カトリックの布教を祝うならば、アイルランドの守護聖人よりも、せめてキリスト教国ではない日本で布教したフランシスコ・ザビエルのためにパレードする方が理にかなうのではないだろうか。 

原料や品物や技術をグローバル化することは、昨今のパンデミックやウクライナ情勢を鑑みると、原油・天然ガス供給から物流に至るまでの不具合は、非常に顕著で、考え直さねばならない岐路に国々は立たされている。 セイントパトリックスディのような文化や習慣をグローバル化するのは、罪がないようでいても居心地はあまり良くない。 それが商魂であると言えば、たくましさを感じるが、アイデンティティまでもグローバル化するのはいただけない。

 

 

 

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