ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

スコットランドな金曜日

2017-11-13 | 系図のこと

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土曜日がヴェテランズ・デイだったので、今年は、前日金曜日が代替休日になった。日の出とともに起きて早速いつものトレイルでの歩きをして、水曜日の晩、家族の歴史センターでお会いした老婦人と約束したとうり、彼女の家を訪ねる支度をした。Vは、79歳の未亡人だが、去年背中の大手術を経てなお、自由闊達で、杖はついていても矍鑠(かくしゃく)としている。彼女から依頼されたことは、系図関係の記録・書類の整理と保存である。

実は数年前に私は彼女のスコットランドの先祖を1840年ほど前まで遡って調査したのだ。その時、Vは、ある友人が、彼女の母方につながる先祖を持つ、と言い、どこがその接点なのか調査に協力して欲しいと依頼していたのだった。その時は、何をどう調べるかわからなかったので調査は始められなかったのだが、最近、その友人から電話があったと言う。

その友人は80歳で、身辺整理のため、母親から受け継いだ17箱ある系図関係書類を捨てたいが、Vが欲しいか聞いてきたそうである。Vは早速サンフランシスコの友人宅へ駆けつけたそうだ。友人の母親が非常に長い間系図調査をコツコツとしてきた成果が、かなり大きなプラステイック容器17箱に納められていた。その箱のどれにVに関係する先祖の記録が入っているのかわからず、すべての箱を持って帰るのもできず、結局つながりがある母方の苗字に関するものだけをざっと選び、それでも箱一つになったそう。その箱をVは整理し分類するのを手伝って欲しいと依頼してきたのだ。

なるほど大きな箱にぎっしりと入っている。一つ一つ手にとって見てみると、この調査をしていた友人の母親がどのような人だったのか興味が湧き、聞いてみた。するとVは、彼女の友人の母親は、牧師の妻でかなり長い間コツコツと系図の調査をしてきて、もう亡いが、おそらく1910年代頃の生まれのはずだ、と言った。その系図調査の記録は1930年くらいから始められていた様子で、書類の黄ばんだ書類が、その年月を感じさせている。

私はこれらをまずデジタル化し、それから索引化することを提案し、その手順を話しあった。そして彼女は、一冊のアルバム・スクラップブックを持ってきて、これをまず手始めにデジタル化して欲しいと言う。

  

 

  


これ(上記の写真)には、彼女の生い立ちから、人生の節目の写真や日記の類が所狭しと入っている。私はこれを持ち帰り、一週間のうちにデジタル化することを約束した。彼女はとても喜び、玄関へ歩いて行く私に廊下の壁両側に架けられた写真などを説明してくれた。その中で、特に目を惹かれたのは、スコットランド人の象徴的な、と言えるシャドウボックスであった。 

そのシャドウボックスには、Vの母方、Sinclair一族のタータン、大きなブローチ型のキルトピン、曾祖父が第一時世界大戦時英国軍に従軍した時の古い写真、その彼の幾つかの勲章が飾られている。下の写真のブローチピンは、似ているが、Vのは、スコットランドでしか採れない薄いピンクの透明な水晶のような石がピンの中央にある。その下の写真が、Sinclair 一族のタータン。

 

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と言うことで、今週帰宅後のプロジェクトが舞い込んだ。ちなみに、Vには、彼女の友人に残りの16箱は決して捨てず、最寄りの家族の歴史センターに相談する旨をお願いすることを依頼して私は帰路に着いた。


蜘蛛の糸を切らないで その2

2017-11-05 | 系図のこと

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あのFrederick Douglas フレデリック・ダグラスは銀行の倒産年にトップに選ばれ、経営困難な銀行を助けるために私財を投じたが。。。


蜘蛛の糸をきらないで から続く

 

センターが開所したすぐ後に、エクストラクション(抽出)・プロジェクトを手助けできるかどうか尋ねられた。それは系図調査をする人々がもっと容易に調査できるように、マイクロフィルムにある情報を読み取り、索引化するプロジェクトである。我々はただちにできると答えた。

1990年代、我々は数多くのプロジェクトを手掛けたが、最も意義深かったのは、Freedman's Bank(解放黒人銀行)である。それは決して小さな仕事ではなかった。11年、600人の服役者、そして70万ヴォランテイア時間後、48万のFreedman's Bank記録は抽出され、索引化されたのだった。どんな記録がこれらにあるのか?ここに一つの例を挙げる。


記録:ペリー・ジェフリ 

月日:1875年7月31日

出生地:ジョージア州ウォーレン郡

住所:サヴァンナ街キャムベル通り

年齢:24

職業:マットレス製作と調理

父:ペリーは、クー・クラックス・クラン(KKK)によって殺害された。

兄弟・姉妹:ヘンリー、ウィリアム、トイダ、オースティン。この四人は、全員、五年近く前にジョージア州コロンビア郡トムソン近くのダーセンにて、クー・クラックス・クラン によって殺害された。


(このプロジェクトを)我々が始める前、この作業が自分や他の服役者達にどれだけの影響を与えるか、想像だにしなかった。しかし、このような記録の抽出・索引作業をして同情を感じ得ない人などいるだろうか。いかに酷くこの人々が扱われ、どんな悲惨な事態に陥っていたのかを、目にした時、非常にタフで知られる服役者達でさえ、涙したのだ。再三再四、我々はこんなコメントを見つけたのだった。

 

「私の父は売られました。」

「兄弟は射殺されました。」

「姉妹が一人いましたが、焼き殺されました。」

「父は私が幼かった頃に荷馬車に轢き殺されました。」

 

私の内に一生とどまるだろうある記録には、「私は自分の娘の名前が何というのか知りません。娘は生まれてすぐ取り去られ、農工具と引き換えになったのです。」とある。自分にとって、人生で一番重要な日の一つは、生まれたばかりの自分の最初の子供、娘をこの腕に抱いた時である。とても幸せだった。そんな娘を農工具の一つや二つと交換するのを見るなど、自分には、想像もできないことだ。

これらの記録は私に、哀れみ、苦しむ人々への思いやり、悲しみを理解する心、情を教えてくれた。夜、監房に戻り、消灯時間を待って一人になると、今まで自分がひどい扱いをしてきた人々を思い、私は涙にくれた。

そして私一人だけが影響を受けたのではなかった。                                ある日曜日、記録の抽出・索引化作業をしていると、すぐ隣に座っていた服役者が、泣いているのを見た。大丈夫かと尋ねると、彼は洟をすすりながら、「どれほどの扱いをこの(奴隷の)人々が受けてきたのか信じられない。」と言った。慰めようと彼の肩に手を伸ばした私は、彼の首にKKKと刺青があるのに気がついた。

神は今の今まで、この記録が再発見され、作業されるのをお待ちになられたと、私は信じている。           何故ならば、作業者の我々に大きな影響が及ぶのをご存じでいらしたからだ。奴隷達の置かれていた境遇が、我々のとは比較にならない一方、刑務所に服役していることが我々を奴隷の境遇に近づけたのだ。この作業を刑務所外でしていたら、決してそうはならなかったと思う。まるで声なき声に、二度目のチャンスが与えられるために、我々が小さなお手伝いをして、そのお返しに我々にも二度目のチャンスが与えられたと感じている。

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ユタ州立刑務所内で大勢の服役者が抽出・索引化した記録は、誰もが容易に検索できる記録になった


こうして「蜘蛛の糸」が、この服役者達に、垂らされたのだ。二度目のチャンス。どうか彼らが、カンダタ(犍陀多)のように、このチャンスを逃さないように、糸が切れないように、と心から願う。


蜘蛛の糸を切らないで 

2017-11-04 | 系図のこと

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http://www.ldschurchnewsarchive.com/media/photos/2001/3911.jpg

希望と夢を掻き立てて、設立されたワシントンD.C.のペンシルバニア街の解放黒人銀行建物


Freedman’s Bankは、解放黒人貯蓄貸付銀行のことで、合衆国政府が解放された黒人社会の経済発展などを先導する意味あいで始められた。1865年から1874年までの営業だったが、アフリカ系アメリカ人の初の経済機構としてある程度の成功は収めている。銀行は消滅したが、この銀行が所蔵した大量の書類は、奴隷解放後のアフリカ系アメリカ人社会経済にたいへんに貴重な物となった。そして、系図家、とくにアフリカ系アメリカ人系図家にとっては、重要な情報源となっている。私自身二件アフリカ系アメリカ人の系図を手掛けた折、使用した。

この書類の山は、リリースされて以来、長い間文字通り“山“で、一切索引化されてなく、情報の宝庫だったにも関わらず、宝の持ち腐れ状態だった。ついに索引化されて、整理されたのは、ついこの15年程のことで、多くのヴォランティア達がその過程を手伝った。

実は意外な人達が、この索引化作業に携わったことは、余り知られていない。この人達のおかげでこの作業が進み、はかどったことは、数えきれない人々に大きな恩恵をもたらした。その人達とは、ユタ州立刑務所で当時服役していた受刑者の有志である。

この作業を手伝った服役者の一人はその(忘れえぬ)体験を、系図家で著作の多いミーガン・スモレニャック・スモレニャック女史の著書Honoring Our Ancestorsに寄せている。以下はその体験記である。

http://www.trentonlib.org/microfilm/


二度目のチャンス

ブレイン・ネルソン

刑務所収監までは、鍵の束がカチャカチャ言うのを聞くと、教会で母親が鍵の束で遊ばせて、おとなしくさせようとしている子供のことを思ったものだ。現在私は服役しているが、その鍵束の音は、まったく違った意味を持つ。服役者にとって、鍵束の音は、監禁、手錠、そして刑務官がやってくるという意味だ。何をしていてもただちにやめて、寝ているふりをすることだ。

11年間フリードメンズ・バンク・プロジェクト(上記参照)を手掛けてきて、鍵束の音は奴隷たちにとってどのように聞こえていたのだろうかと度々思いめぐらす自分がいる。彼らにとって、鍵束の音は、やはり足枷や手枷を思い起こさせたのだろうか。

服役者の人生にとって、最大の恐怖の一つは、「さっさと支度しろ、お前は移されるのだ。」と言われることだ。刑務所内の新しい監房棟に移るのは、住み慣れた監房や友人となった他の服役者達と別れ、何が起こるかわからない環境に移されるのは、大変苦痛なことだ。

奴隷たちも荷馬車や見知らぬ人がやってくると、自分や愛する家族の誰かをそこから引きはがすようにして、他所に売るために、連れて行かれるのでは、と、不安と焦燥にかられたことだろう。我々服役者は、家族から離されることがどんなことかよく知っているが、それは、一時的なものに過ぎない。奴隷にとっては、愛する者との別離は未来永劫だった。

さて自分を奴隷の身になって考えさせた、このフリードメンズ・バンク・プロジェクトとは何か。今を遡る1865年、解放黒人貯蓄貸付銀行は解放されたばかりの元奴隷達の金融取引の指導などのために設立された。彼らの金子(きんす)を預金でき、そこは詐欺師から護られる安全な場所である筈だったが、不正直な管理経営とよくある詐欺行為によって、銀行は1874年に潰れてしまった。預金額$5700万以上は失われ、銀行を信頼していた何千、何万の預金者の夢と希望を打ち砕いたのだった。

この銀行について唯一の良いことは、その預金者の記録だった。預金口座を開くために、家族の氏名、住んだ場所、他所へ売られた身内についてさえ、詳細な個人情報を要請された。おおよそ八百万から一千万人のアフリカ系アメリカ人は、この預金者リストに記録された祖先を持っている。極端に些少な記録数のため、アフリカ系アメリカ人の系図を調べるにあたって、これは非常に貴重で価値の高い記録である。問題は、これらの記録が、今までどのような形にせよ、一切索引化されていなかったことであった。何百、何千、何万とあるファイルの中から、一つの家族を探し出すのは、非現実的であった。

そこで、受刑者達の出番となったわけである。およそ十年前、ユタ州立刑務所システムで教えられていた系図クラスに登録した四人の受刑者の一人が自分であった。どんどんこれは盛り上がり、刑務所内にサウスポイント家庭の歴史センターが設立されるまでになった。末日聖徒イエスキリスト教会の管理下設立されたが、あらゆる信仰・教会(無神論者にも)にかかわらず、どの服役者にも門戸が開かれている。(服役者のために刑務所内に設立されたセンターに)全ての受刑者は、悪い言葉を使わない, などのセンターの規則を守れば、参加できる。

刑務所に入所するまで、私はディーゼル(車両)整備工で、コンピューターについては何一つ知らなかったが、(家族の歴史センターで)プロジェクト・コーディネイターとして奉仕しているうちに、コンピューターの取り扱いの熟練者となった。センターについては、(服役者の間で)すぐ広まり、彼らの熱意は高揚し、フィルムリーダーの使用順番を管理するのが難しくなった。彼らの中にはリーダーを使う番を待つ間、マイクロフィルムを電灯にかざして読もうと試みた者さえ、居たほどであった。


 

https://www.lds.org/church/news/prisoners-rescuing-prisoners-indexing-at-utah-state-prison?lang=spa

ユタ州立刑務所内の家族の歴史センターでインデックス作業を奉仕する服役者


続きは、また明日。

 


記録と勘

2017-10-16 | 系図のこと

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結婚してしばらく経った頃、夫の病弱な叔母(父方)を訪ねたことがあった。玄関を入るとすぐの壁に古めかしい服装の婦人の写真が大きな額縁に入って飾ってあった。「これは祖母。」と夫は耳打ちしてくれた。応接間に入ると、銅を産出する州らしく、たくさん銅を使って葉や幹を表した大きなfamily tree(家系図)が壁にかかっていた。夫の叔母は、人懐こく、やさしくて、「@@@(夫)は、私の一番お気に入りの甥なのよ」とおそらく夫の兄二人にも同じことを言うのだろうことを言いながら、私が目を見張って見入っていた壁の家系図を説明してくれた。


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夫の叔母が所有していた系図の木は、この木を短くして横に広げたような木で

四角い基盤に納められていた。

 

一枚一枚の銅の葉には姓名が彫られていて、「これは私の祖母で、若くして寡婦となるも、際立つ裁縫の腕で南から移住してきたコロラドのその町で生計を立てたの。病人看護にも並外れて優れていたので、とても重宝されたらしいわ。」と話した。彼女は又たくさんの古い写真、書類、書簡などをチェスト(参照ここここ)に所蔵していて、「いつかゆっくり整理したいのよ。」と蓋を開けて見せてくれた。



こうしたことを見せられて、系図家なら誰だって垂涎するに違いない。私もそうだった。しかしながら、若かった私はしゃしゃり出てはいけないと思い、見せていただいてありがとうございました、と礼を言うにとどめてしまった。これは大失敗だった。写真を撮るとか、コピーしても良いかくらいは尋ねたらよかったのに、と、今思う。しばらくして、この叔母は病死し、この”宝”を引き継いだ娘も、ある夏思いがけずに急逝し、また夫の父親も、癌で亡くなった。夫に、あのチェストや系図の木は誰が今所有しているのか聞くと、おそらく夫の従兄にあたる亡き叔母の息子が引き継いだらしいと言った。

夫は父親が40歳過ぎて生まれた末っ子で、叔母と言ってもかなり年を取っていた上に、非常に若くして結婚し、子供を持ったので、夫の従兄と言えども、父親といえそうなくらいの年の差があった。その従兄は結婚し二人子供をもうけたが、離婚し、アリゾナ北部の山にある母親のキャビンに住んでいたりしたので、おそらく叔母のチェストはそこにあったと思われた。

最初にそのチェストや銅の系図の木を見て15年ほど経った頃から、私はチェストの内容物に関する夢を見始めた。銅の相場が高騰し、銅の系図の木は、おそらく換金の価値はあっただろうが、私はそれよりも、ともかく、チェストの内容物が気がかりだったのだ。その家の者でなければ、価値がないが、私にとっては、系図的に意義のある重要物ということである。そのチェストの中に、たくさんの夫の先祖の名前がひしめき合っているようにも思え、機会あるごとに、夫にあのチェストの中身を追跡したほうがよいのでは、と話しした。


チェストの中身に関する夢は続き、とうとうそれらを喪失する悪夢まで見た。切羽詰ったものを感じ、夫と休暇を取り、アリゾナへ行く計画をした。出発前に夫は従兄に連絡を取ると、なんと彼は少し前に軽いストロークを起こし、老人ホームにいる、と言う。ああ、やっぱり。私の夢には理由があったということだ。

早速ホームを訪ねると、彼は言葉が少し不自由で、左半身が少々不随になっていた。世間話の後、夫がチェストについて訪ねると、従兄は、それはキャビンに置いてある、と言った。病人に疲れが見えたので、早々に私達はいとまを告げて去った。その時、私はあのチェストも内容物もすでにないと感じた。

案の定それから少しして、その従兄は他界した。その後彼の元妻と娘と交流があった夫は、チェストがどこにあるか尋ねたが、二人ともなにも知らなかった。そしてその元妻もやがて亡くなった。キャビンもすでに人手に渡ってしまっているようだったので、チェストは売られてしまい、中身は燃やされでもしたのだろう。そう結論付ける以外に、考えも想像もつかなかった私は、暗黒な気持ちでチェストの内容物を諦めざるを得なかった。

おそらく焼失されてしまった(実は多くのこうした家族の歴史に関する書類や写真は、あまり考えられずに焼かれてしまうことが多い)だろう写真でも、ふとしたことで見つかるかもしれないと、見果てぬ夢を見ている私。自分の先祖ではないが、子供達、孫達の先祖である。そのチェストの内容物なしに、私は結局地道な探索で、夫と子供達をSons of American Revolution/Daughters of American Revolutionの会員に登録できたが、私が調べたかったのは、夫の先祖たちがどのような生涯を送ったのか、どのようなお顔だったのか、であった。

 

 

 

その後不思議なきっかけで、私はユタ大学マリオット図書館スペシャルコレクションに夫の先祖の写真と記録があるのを発見したのだった。夫も夫の家族も、初めて見る写真と記録だった。あちら側もこちら側に見つけて欲しいのかもしれないと深く感じ入ったことである。

どこへ旅してもアンティークショップを覗き、定番の鍵の山とともに大抵ある古い写真のコレクションを、今でも見逃さないで、まず写真の裏に何か書いてあるか調べる私。夫の先祖でなくとも、どなたかの先祖である。もしお名前や場所などが記されていれば、その子孫を探せるかもしれない。余計なお世話かもしれないが。

もしセピア色になった写真があなたの押入れやチェストにいつまでもあるなら、どうぞお近くのFamily History Center(日本では家族の歴史センター)へその処遇をお尋ねくださることを切に願う私である。


屋根裏部屋に

2017-09-30 | 系図のこと

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屋根裏部屋や地下室に、埃を被っているスティマートランク、フットロッカー、ホープチェストがあり、その中には見ず知らずの人々の古い写真や手紙や書類が入っていたら。日本ならば仏壇の普段使わない引き出し、押入れの棚、納戸に、あるいはお蔵に、たくさん写真の入った箱やトランクなど眠っていたら。系図家にとっては、胸ときめく瞬間である。

http://brienne.org/unlockedbriennearchive/

1926年に、17世紀製のトランク(上の写真)が、オランダ・ハーグにある通信博物館(the Museum voor Communicate)に遺された。オランダ・ハーグはヨーロッパの情報伝達網(郵政)の中心地であって、このトランクは、当時の郵便局長夫妻、サイモンとマリー・ド・ブリエンが所有していたものである。トランクは思いがけない古文書を保管していた。ヨーロッパ各地から情報伝達の中枢オランダ・ハーグに届いたが、開封・未開封の書簡が2600通も入っていた。一通とて宛名先に手渡されていない。

17世紀、書簡受け取り人も郵便代と配達料を支払わねばならなかった。もし受取人が死亡していたり、たまたま留守をしていたり、あるいは受け取ることに興味がなければ、勿論料金徴収は出来なかった。こうした“死んだ”書簡は、通常破棄されるものだが、ブリエン夫妻は、いつか受取人が取りにきて、料金を支払ってくれるだろうと考えて、この未配達書簡を保存していたのである。それ故このトランクは、Piggy Bank(豚の貯金箱)、オランダ語でspaarpotjeと呼ばれた。

このトランクの中で、歴史は凍結されていたおかげで、初期現代期の日常生活を今、垣間見ることができるのである。書簡は無検閲、未編集で、600通ほどは、未開封である。ごく最近、再発見されるまで、古文書そのものは、歴史家による調査など、実質的にされずにきた。オランダ・ハーグの通信博物館では、国際的かつ多分野にわたる研究調査員チームが、未封書簡のレターロッキング*のフォーマットとカテゴリーを保存、デジタル化、写本、編集、そして識別する作業をすでに開始している。

*Letterlockingとは、第三者やその他の人々に知られずに差出人が受取人にメッセージを確実に伝える際に、精巧な手紙の折り方や、封蝋の仕方、あるいは勝手な開封をさせない工夫を手紙に施すこと。

このトランクはまさに歴史の宝庫と言って差し支えない。何故なら、この書簡類には、フレンチ・ユグノー教徒(French Huguenots)によるものがあるからである。ユグノー教徒は1715-1787に、迫害を逃れて英国、ウェールズ、スウェーデン、オランダ、そしてアメリカなどへ逃れた人々で、その子孫は世界中に広まっている。もしあなたの伴侶にユグノー教徒の先祖がいたら、この書簡類に名前を見つけることができるかもしれない。今後の展開は、www.brienne.org で随時わかる。

もしお宅に古い書類や写真や手紙があった場合、燃やさないで、断捨離の前に、是非近くの大学歴史学部や図書館の館員にご相談なさることを願っている。