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知人は小高い麓に住み、静寂と平和な空気を満喫できても、そこからどこへ行くにも車を運転するには、夏の間でさえちょっとしたチャレンジのような悪路しかない。つまり道路には大小の穴があり、でこぼこで、たいへんにラフな乗り心地になる。たくさんの緑の葉でいっぱいの枝が重たげに垂れ下がっている木々は運転者の視界を妨げている。さらに、いつひょいと現れる犬や猫や鹿が、道を渡ろうと飛び出てくるか常に目を光らせていなければならない。
そんな田舎道を運転していると、時折道端で子鹿が死んで横たわっているのが目に付く。まだ白い斑点が背中に残るほんの子供の鹿である。そして道を数マイル下ったところでは、さきほどの反対側の道端で別の子鹿が死んでいたりする。息絶えた、若いと言うよりも、まだまだ幼い子鹿を見るのはとても悲しいことだ。鹿たちは、この道路に沿って流れる川から水を飲むために山を下って来るので、その日も彼はそうした事故を防ぐため、いつものように減速していた。
彼はさらに注意深く運転しているので、陽光を浴びる周りの木々や丘の景色が目にはいり、その美しさに神から与えられたギフトだ、と心の中で楽しんでいた。別のカーブを曲がったところで、彼は心の中に衝動を感じ、頭の中に声を聞いた。 「もっと遅くして!」とその声は言った。
彼は再びブレーキをかけていると、突然2頭の成長した牝鹿が道路を飛び越えた。完全に止まるまでブレーキを踏んだところ、母親を追うように森から2頭の斑点のある子鹿が現れた。彼は鹿たちが通り過ぎるのを見て、自分が母鹿たちや赤ちゃん鹿たちをはねたり、あるいは殺したりしなかった安堵の涙を瞬き返した。それから彼は微笑んで、あの声のないメッセージを心に送ってくださった神に感謝した、と言う。
「神はささやきながら私たちに語りかけますよね」と知人は言う。自分が何か良いことをしたり、何か親切なことを言ったり、困っている人を助けたり、人々と笑顔を共有したり、励ましの言葉を提供したり、祈ったり、愛を惜しみなく与えたりする、そんな時は頻繁に、心にささやき声があるのを彼は感じることがよくある、と微笑む。そんなかすかな囁きに耳を傾ける時、そのたびに彼は祝福されているような気がするとも言った。
それを直感と呼ぶにしろ、天の声と思うにしろ、もっと多くの人々の人生でいつもそうしたささやきに耳を傾けていられるようになると、どれだけ人々は幸せなれることだろうか。それはいつも声無き声で、見逃してしまいがちでもある。それでも毎朝心の耳を澄ませてその日1日も謙遜で心に落ち着きがあるようにしていたら、きっとその努力は役に立つ。
これはアリゾナの明けの空。こんな朝は、きっと耳を傾けられるだろう、声無き声に。