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笑顔より苦しんだ顔ばかりが浮かぶ」自宅で母親を看取った次女がいまでも後悔していること

2021-11-09 15:30:00 | 日記

下記の記事はプレジデントオンラインからの借用(コピー)です。

2017年3月11日15時58分、白血病という病名も、余命も知らされないまま、伊藤鈴子さんは自宅で亡くなった。84歳だった。次女の知賀子さんは「家で過ごした日々は、良いことも悪いことも強く記憶に残っている」と話す。死に向かう過程は壮絶で、家族は悲しい姿を目にすることもある。あなたは大切な人を看取る時、“徐々に衰えていく姿”を受け止められるだろうか——。
訪問医も、訪問看護師も、同居家族も頼りにならない
都内在住の小平知賀子さんは日に日に衰えていく母を、胸を痛めながら見守っていた。ほぼ毎日のように実家に通って身の回りのケアを行ったという。
「お風呂で体を流すたびに背中が小さく、足の筋肉は衰えて細くなっていました。白血病のため、内出血した大きなアザがところどころあって、痛々しかったです」(知賀子さん、以下同)
訪問医も訪問看護師も頼りにならない、母と同居している長男夫婦もよほど助けを求めなければこちらに手を貸さない。そんな中、知賀子さんは鳥取でホスピスケアを行う徳永進医師が著した『わたしだって看取れる』(KKベストセラーズ)を手元に置き、自身を励ましていた。「この本の通りに母の病状が進んでいった」という。
痛みを緩和するため、少量のモルヒネを処方してもらっていたが、死の1カ月前から時折、せん妄(認知機能の障害)が起こった。
「お母さん、お母さん」「お兄ちゃん」「あなた、あなた」
眠りながら、すでに亡くなっている人たちを大きな声で呼び、母本人はドタンバタンと動いている。
かと思えば、急に意識が戻って「なんだかすっごく眠れるんだよね」と、知賀子さんに話しかける。
「体温は正常なのに、体が氷のように感じられた」
亡くなる10日前のこと。知賀子さんがいつものように部屋をたずねると、母がうっすら目を開けて、「知賀か」と問うた。「そうだよ」と答えると、「お母さん、がんばったけどもう無理だ」と応えたという。
死の10日前。鈴子さんと知賀子さんがふれあった様子。
知賀子さんはそんな母に「頑張れ」とは言えず、「大丈夫よ」と繰り返す。
さらに死の6日前、母がしみじみお礼を言った。
「人間、誰もが死ぬ。お前には本当に世話になったなぁ。あの世に行ったらきっちりお返しをするからね」
病名も余命も知らない母が死を受け入れている、と知賀子さんは感じた。
そしてその翌日から母の意識は低下し、普通に会話をすることが難しくなったという。
当時のことを思い出しながら知賀子さんが涙をぬぐう。
「亡くなる一週間前から、母の体がどんどん冷たくなっていくんです。手でさすってもちっとも温かくならない。布団の上に湯たんぽを入れて温めようとすると顔だけが火照ってしまう。体温は正常なのに、日を追うごとに体が氷のように感じられて……生きている人の体温じゃなかった」
こっそりミカンを食べさせると、少しだけ意識が戻った
長男夫婦は自分たちが認めた食品でなければ母に与えない。知賀子さんは時折目をさます母親に、こっそり望む食品を与えた。自分の指に蜂蜜をつけて吸わせたり、死の4日前は甘酒を飲ませたり。
「母はおいしいって言っていました。亡くなる数日前には『みかんが食べたい』と言うので用意しようとしたら、弟(長男)はまたダメと。でも翌日にこっそり持っていって、みかんをちぎって、母の開いた口にその水分を少しだけふくませました。糖分だからか、母の意識が少しだけしっかりしたようでした。でも、次の瞬間にはせん妄がひどくなって、痛がって、私は添い寝で母の体をさすり続けました」
最後の一週間、知賀子さんは同じ部屋にいる時は「常に母の体に手をあてていた」という。母の手をとり、足をマッサージして、背中をさする。母を抱きしめ、抱きしめられる日々。その時、突然、知賀子さんの胸に感謝が湧き出してきて、こう叫んだ。
「お母さん、ありがとう、ありがとう」
娘として日々を過ごさせてもらったこと、人はこう終わっていくんだよ、と目の前で教えてもらったこと。母はふんふんとうなずいていた。
「あとわずかな命だときちんと教えてあげたかった」
最後の日となる、2017年3月11日。知賀子さんは「夕方には行く」と約束していた。しかし嫌な予感がして、仕事を放り出して早めに実家に向かっていたところ、連絡をうけた。実家に着いた時には穏やかな死に顔の母がいた。
母(鈴子さん)のお葬式。祭壇は母が好きだった紫色の花で飾った。
「不思議と、亡くなった後のほうが母の手が温かかったんです。その日はしばらく温かかった」
在宅で看取って良かったなと思うことは、母が「自分がいたいと思う場所」にいられて、終われたということ。病院の個室より、家の人の“生活音”があって、変わらない日常の中で寝ていられる。思うように体が動かなくても、それはよかったことだと感じる、という。
それでは「後悔していることはあるか」とたずねると、知賀子さんは「病気を、寿命を、知らせてあげたかった」と話した。
「あとわずかな命だときちんと教えてあげて、そしたらもっと伝えたいこともあったかもしれないと思う」
その気持ちが、私はよくわかる。私の母もがんのため亡くなったが、もう40年以上も前の話だから、がんの告知は一般的でなかった。母にはがんという病名も、余命も知らされていなかったのだ。だが母は、亡くなる一週間前から、当時2歳だった私に対して「ごめんね。ごめんね」と繰り返し謝っていようだ。そんな姿が、祖母の日記に記されている。自分が大人になり、母が亡くなった24歳と同じ時期に子を持ち、ますます母は「余命」を知りたかっただろうと感じた。そうしたらもっと“親子の思い出”をつくることができたかもしれない。
「長男である弟に任せたい」と常日頃から言っていた
鈴子さんも、自分の体の状態がどんどん悪くなっていることには気づいていた。医師がきて輸血をすると、「今日、こんなことをして……」と知賀子さんに知らせてきて顔色をうかがう。でも知賀子さんは弟(長男)に固く口止めされていたために言えなかった。
鈴子さんの白血病が判明しての緊急入院。このときは医師から「帰宅できない」と言われた。
「輸血」という処置にも、知賀子さんは迷いがあった。白血病は正常な血液細胞が減少していくため、輸血をすれば、母は「ラクになった」と言う。しかし、「足りないものを入れる」という対症療法であって、輸血によって病が治ることはない。医療の現場では血液不足も指摘されるなか、治る見込みのない高齢の白血病患者である母に、輸血治療を行い続けるのは「延命」にあたるのではないかと悩んだ。
本当のことを説明し、本人の考えを聞きたい。だが、母が重視した「長男の考え」を優先するしかなかった。
「母はさまざまな事案について『長男である弟に任せたい』と常日頃から言っていました。病になっても内心そう思っていることがわかるから、私も姉(長女)も黙るしかない。けれど一方で、本当は母はこういうケアをしてほしかった、というのが娘の私にはわかる。だから母も身の回りのことは、長男夫婦より私に頼ってくる。在宅の進め方としては後悔ばかりですが、それも母が生前に長男長男とかわいがってきたから仕方ないって、自分に言い聞かせているんです」
4年が経っても、母の笑顔より苦しんだ顔ばかりが浮かぶ
病院の変更も、訪問医の変更も、長男に許可してもらえないため叶わなかった。実は訪問医は、白血病患者を一度も診たことがない、老衰や認知症の患者の看取りばかりやってきた医者だったのだ。それを知ったのは母の死後だった。
「自宅で白血病の緩和ができず、母をラクにさせてあげられませんでした。それでも母にとっては自分が望んだ場所だからよかったんだと思いますが、私にとっては4年経った今も、母の笑顔より苦しんだ顔ばかりが浮かぶんです。病院で看取った人と、自宅で看取った人の違いは『真の苦しみ』を見ているかどうかの差ではないかと思います」
在宅死は「オーダーメイドができる」のが長所でも短所でもある。病気のことも死についても自ら勉強しなければならないが、言い換えれば、すべてを本人や家族が選択できる。本来は訪問医も看護師も、ヘルパーも、納得がいかなければ変えたっていいのだ。
「自分の中で死がすごく現実化した」と知賀子さんは言う。
「身内は父をはじめ突然死の人が多かったから、苦しむ顔も見ていないし、単に“長い間、会っていないだけ”という感覚になってしまいそうになる。それが母を家で看取ったことで、死ぬってこういうことなんだって母に教えられた気がします」
死を「意識する」ことで、これからの人生を豊かにする
実は知賀子さんは葬儀社を営んでいる。そこで死について語り合う少人数の「デスカフェ」を時折開催してきた。
知賀子さんが母の在宅看取りをスタートしてから初めて開いた「デスカフェ」の模様。
2011年ごろから欧米を中心に広まり始めた「デスカフェ」は、現在およそ40カ国で開かれているといわれ、日本でも開催される場が少しずつ増えている。死を忌み嫌って「目を背ける」のではなく、むしろ「意識する」ことでこれからの人生を豊かに生きようという狙いがある。
コロナ発生前の時期、私も知賀子さん主催のデスカフェに参加した。
「死を意識したことがあるか」という問いには参加者からさまざまな声が上がった。
「自分ががんになった時、死にたくないって。生きて子供の成長を見続けたい、と願いました」
「夫が白血病です。長期間、高い治療費を払い続けることに、“命の値段”を考える」
「勤務先の社長が亡くなった時、初めて死を意識しました。息子と二人暮らしだから、もし自分が死んだらどうしようって」
ある女性は、母親が吐血しながら死んでいった様子を皆の前で語り、「私一人で看取ってしまったことが重かった。誰かに話したかった」と涙をぬぐっていた。このように、誰かの死を消化できず、吐き出せる場を求めてくる人もいる。
「希望の死に場所」を聞くと意見が分かれる
この日の最終テーマは「最後はどう逝きたいか」であった。
「大切な人に『ありがとう』と伝えたい」
「死ぬ直前に『いい人生だった』と思える自分でありたい」
など、周囲への感謝や満足感を大事にする姿勢は多くの人に共通している。一方で、
「家族に迷惑をかけたくないから、緩和ケア病棟や老人ホームで逝きたい」
「やっぱり自宅で過ごしたい」
「自然の中で一人でひっそり」
など、“希望の死に場所”は意見が分かれた。知賀子さんは「他の人の考えを聞きつつ、それぞれが答えを見つけることが大切」と話す。
「最期を過ごす場所」や「残り時間を共に分かち合いたい人」「周囲に遺したい言葉」を突き詰めていくと、満足のいく死に方につながっていくのかもしれない。

笹井 恵里子(ささい・えりこ)
ジャーナリスト
1978年生まれ。「サンデー毎日」記者を経て、2018年よりフリーランスに。


鎌田實、48歳の時に陥った「中年危機」。仕事ばかりの生活から離れ、今は「筋活・骨活・たん活」の毎日です

2021-11-09 13:30:00 | 日記

下記の記事は婦人公論.jpからの借用((コピー)です。

諏訪中央病院に赴任し、長野県を日本一の長寿県へと導いた医師の鎌田實さん。多くの人の命を救ってきた名医も、仕事に邁進するあまり不調に悩んだ時期があるといいます。鎌田さんが行き着いた、一生元気で楽しく暮らすための<知恵>とは──(構成=島田ゆかり 撮影=本社写真部、邑口京一郎)
生き方を考えさせられた「中年危機」
ピンピンひらり。これが、私が目指す生き方です。生きている間はピンピンと元気に過ごし、そのときが来たらひらりとあの世に行く。私は長生きをしたいというよりも、生きている今を充実させたいと思っています。
今年(2021年)で73歳になりましたが、大好きなスキーはいくつになっても続けたいし、80歳になってもライブハウスに行きたい。90歳になっても旅行をしたいし、レストランで好きなものを食べたい。そのために、日々養生をしながら暮らしているわけです。
若い頃はとにかく忙しく、仕事三昧でした。30代で諏訪中央病院の院長に就任し、盆暮れ正月休みなく365日働く毎日。当時、病院は多額の赤字を抱えており、また地方病院にはよくあることですが医師も足りない状況でした。その赤字病院を必死で再生させ、全国から医師が来てくれる「マグネット・ホスピタル」へと生まれ変わらせたのです。さらに、地域包括ケアの仕組み作りにも奔走し、今では長野県は長寿で医療費の安い地域になっています。
しかし週末も休まずに働き続けた結果、私は48歳の時に「中年危機(ミッドライフ・クライシス)」になってしまいました。これは中年期の約8割の人が陥ると言われている心理的危機。
40代になると自分の頂点が見えてきて「自分はこの程度か」と思ったり、「このままではいけない」と焦り始めたりするものです。女性の場合、子育てが終わったときに見られる「空の巣症候群」もそのひとつでしょう。役割喪失にともなって、うつ症状や不安に襲われる。私はパニック障害を患い、頻脈、冷や汗、睡眠障害などに2年間悩まされました。
筋肉を減らさず好きなことをして生きる
原因のひとつが仕事ばかりの生活です。このままではいけないと思い、日曜日の午前中は休みを取ろうと決めました。大好きなスキーに出かけ、リフレッシュするつもりでしたが、いざ滑ってみると足腰が驚くほど弱っていたのです。体重も73kgくらいだったのが80kg近くまで増加しており、これから迎える老年期に危機感を覚えました。
とくに実感したのは筋力の低下。そもそも、人間は40代を過ぎると、年々筋肉量が減っていくものなのですが、日々のストレスと運動不足も相まって、50歳の頃の私は絶不調。もうこのままの暮らしを続けるわけにはいかないと悟ったのです。
そこから6年間は、食事や運動などの生活改善とともに、今後どう生きるかを考え直す時期でした。自分は何が好きなのか、何が楽しいのか、何をして生きていきたいのか、自問自答の日々。
結局52歳で院長を退任し、56歳の時、病院を退職しました。訪問医療は好きなジャンルだったためパート医として継続し、NPOを立ち上げて、被災地支援や難民キャンプでの診療支援を行っています。また、子どもの頃から文章を書くのが好きだったので、執筆活動にも時間を割くように。今では15本の連載と5冊の書籍出版が同時進行中。書くことは私にとって楽しみなのだと再確認しています。
実は今年6月に心臓のカテーテルアブレーション(カテーテル心筋焼灼術)という手術を受けました。数ヵ月前から不整脈が気になり始め、心電図をとったところ「発作性心房細動」だったことがわかったのです。これは脳梗塞のリスクが高くなる症状で、寝たきりになりかねません。主治医と相談したところ、術後は運動もできるということで、自分で納得して治療を受けました。今は運動を再開できるほど元気ピンピンです。
心を快適にして体を動かす。これが私にとって不可欠であり、最高の養生ライフでもあります。長年の試行錯誤を経て自分でも毎日実践する養生訓をご紹介します。みなさんも取り入れてください。
わたしの養生訓(1)
1日数分の運動で「筋活」「骨活」を行う
筋肉を鍛える「筋活」は、ピンピンひらりを叶えるために最も重要です。ジムに行って筋トレをするのでも構いませんが、自宅での自重(自分の体重を使う)筋トレでも十分。
私は1時間ごとに3分を筋トレタイムに充てています。8時間デスクワークをしていたら3分×8回で30分弱筋トレができる。これならわざわざトレーニングの時間を捻出しなくてもいいし、むしろ気分転換になって仕事もはかどります。テレビのCM中なども絶好の筋トレタイムです。
私は常に20種類くらいのメニューを用意し、順番に行っていますが、今回は狭いスペースでもできるおすすめの3つをご紹介しましょう。ワイドスクワットは脚、ドローイングは腹筋を鍛えます。鎌田式かかと落としはふくらはぎや脛の筋肉強化だけでなく、骨粗しょう症予防にも。元気に歩き続けるためには、筋肉だけでなく骨も大切なので、「骨活」として取り入れてください。

わたしの養生訓(2)
すきま時間でも効果的な「速遅歩き」
歩くことは有酸素運動になり脂肪を燃焼するだけでなく、認知症予防や骨の強化にも役立ちます。私は1日4000歩、週に2回は8000歩を目標にしています。朝、家の前の道を歩いたり近所の蓼科湖畔へ散歩に行ったり。
とはいえ「忙しくてウォーキングする時間がない」という人もいるでしょう。そこで私が考案したのが「速遅歩き」です。いつもより歩幅を10cmくらい大きめにしながら、速歩き3分、遅歩き3分を2セット。それに速歩きを3分プラスして、15分で終了です。買い物に行くときや駅までの移動などに、この歩き方を意識してみてください。
1日4000歩に速遅歩きを追加するのがおすすめです。歩数計だけでなく、今はスマートフォンなどでも簡単に歩数がカウントできます。持ち歩くようにすると歩く意欲も湧いてきますよ。
わたしの養生訓(3)
たっぷり「たん活」で筋肉の材料を摂る
「たん活」とは筋肉の材料となるたんぱく質をしっかり摂ること。厚生労働省が定めている1日の推奨量は成人男性60g、女性50gですが、私は、筋肉量を増やして「貯筋」をするために体重(kg)×1.2g摂ることをおすすめしています。
私の体重が約70kgなので1日に摂りたいたんぱく質の量は84g。肉や魚は種類によってたんぱく質の量が若干異なりますが、だいたい100gに対し、たんぱく質が20g含まれると換算しています。すると、1日に約400g、たんぱく質を含む食品を摂ることに。
ふだんから私は、昼に鶏肉(100g)を食べ、夜は肉と魚を両方(200g)。それに卵2個、納豆、チーズ、高野豆腐などで目標達成しています。高野豆腐は長野県ではなじみの食材で、たんぱく質を摂るのにおすすめ。粉状にした「粉豆腐」というものもあり、ハンバーグに混ぜるなど手軽に使えます。粉豆腐に冷凍のホタテ、豚肉、キャベツを入れたお好み焼きは最高です。

わたしの養生訓(4)
野菜はたっぷり、ジュースで簡単に
野菜にはビタミン、ミネラル、食物繊維、抗酸化力の高いポリフェノールなどが含まれます。体の機能を正しく維持していくために不可欠な食材です。最近は野菜不足が問題となり、動脈硬化や糖尿病、高血圧など生活習慣病の原因にも。1日350gはしっかり食べるようにしたいものです。
わが家はトマトやセロリ、なす、オクラなど野菜を7~8種類育てていて、朝はジュースにして飲むようにしています。野菜220gに豆乳やヨーグルト、えごま油、果物を少し入れるだけ。あるもので作るので簡単です。
お昼は大皿いっぱいの野菜を電子レンジでチンして、夏はそうめん、冬は温麺と一緒にいただきます。市販のめんつゆに煎りごまをたっぷり入れて、つけ汁にしていただくとおいしいですよ。
夜はたんぱく質メインで副菜に野菜を少し。朝にたっぷり野菜を摂っているので、これで十分です。

わたしの養生訓(5)
趣味やスポーツで「快感」を得る
人間は、体を動かして汗を流すと心も整います。これは、「中年危機」のつらい2年間を経験したうえでの実感です。私は、冬はスキー、夏はテニスを楽しんでいますが、今はコロナ禍でなかなか叶いません。その代わり、スポーツカーでドライブに。これは田舎暮らしの特権だと思いますが、美しい森の中や湖畔を走ると気分爽快です。快感ホルモンが出てくると、人間は生きる力が湧き出て、チャレンジする意欲も湧いてきます。感情のコントロールもしやすく、認知症対策にも。楽しい時間を過ごすことはとても大事なのです。
コロナ禍で制約の多い毎日ですが、できるだけ自分が「楽しいと思えること」を選ぶようにしましょう。そうすれば、この先ピンピンひらりの人生が待っていますよ。
<鎌田流>毎日のちょこっと運動
\健康長寿の近道/
ワイドスクワット
太ももの大きな筋肉を鍛えることで、若返り物質「マイオカイン」を効率よく分泌
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1) 両足を肩幅より10cm程度広げてまっすぐ立つ
2) 両手を胸の前で組み、足を外側に開いたままゆっくりとお尻を下ろす
3) 太ももが床と平行になったらゆっくりと元の姿勢へ戻す。これを10回続ける
\シンプルだけど効果大/
ドローイング
フレイル&メタボ対策におすすめ。美脚・美尻効果もあり
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1) 息を吸いながらおなかを引っ込めて、その状態を保ちながら息を吐く。両手を持ち上げ、後ろに引くようにして頭の後ろで合わせる
2) おなかとわき腹の筋肉を意識しつつ1分歩いたら、ゆっくり呼吸を整えて普通に1分歩き、再びおなかを引っ込めて1分歩く\キッチンで料理の合間に/
鎌田式かかと落とし
骨を強化して骨粗しょう症対策に。つま先を上げる動作で脛の筋トレにも
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1) テーブルに軽く手を置き、背筋を伸ばして立つ

2) かかとをつけたままつま先を上げて3秒キープ

3) つま先を下ろしたらすぐにかかとを上げ、背筋を伸ばし3秒キープ

4) 最後に「ストン!」とかかとを床に落とす。これを10回繰り返す
構成: 島田ゆかり
撮影: 本社写真部、邑口京一郎
出典=『婦人公論』2021年9月28日号
鎌田實
医師、作家
1948年、東京都生まれ。東京医科歯科大学医学部卒業後、諏訪中央病院に赴任し、長年地域医療に携わる。現在は同病院名誉院長。      


小室夫妻は「かかあ天下」?眞子さん主導で記者会見  専門家が分析

2021-11-09 11:00:00 | 日記

下記の記事は日刊ゲンダイデジタルからの借用(コピー)です。

 先月26日、晴れて夫婦となった小室眞子さんと圭さん。4年前の婚約内定会見では終始顔を見合わせて、おっとりした雰囲気で小室さんを立てていた眞子さんが、今回は小室さんが話すタイミングを目配せ(合図)するなど終始リードしていた。
  ◇  ◇  ◇
 会見では圭さんが眞子さんに対し、「愛しています」と宣言したのが印象的だった。

 妻の人生をサポートする姿勢を見せているが、芸能界でも北斗晶と佐々木健介、北川景子とDAIGOら妻を立てる夫婦は家庭円満なイメージが強い。明大講師の関修氏(心理学)が言う。

「一般的に男性は唯我独尊になりがちで、自分の強さを周囲に知ってもらいたい生き物。女性の方が周囲の目を意識し、家庭を守るためにどう行動すればよいかを大切にします。だから、『亭主関白』より『かかあ天下』の家庭の方が、男性にとってもメリットが大きいといえます。家庭内では発言権がなくても、妻に従っていれば外向けに立ててもらえるからです」

 20、30代の社会人男性に将来の理想の夫婦像をマイナビウーマンが聞いたところ、51%が「亭主関白」と答えている。理想としては夫がリードしたいのだが、博報堂生活総合研究所の家族に関するアンケート調査(2018年)によると、家庭での決定権が「主に夫」と答えたのはわずか38%。30年前の72%から大幅に減少した。一方で、「主に妻」と回答した人は30年前の10%から3倍の30%に増えた。

 現実的に「かかあ天下」の家庭が増えているのが分かるが、夫婦関係はうまくいくのか。

■妻の尻に敷かれたい!

 眞子さんも、金銭トラブルの対応や米国留学について「私がお願いしました」「圭さんが独断で動くことはなかった」と早くも夫を尻に敷いている様子が見て取れた。

「自分の意向に従ってくれた夫というスタンスをとったことで、小室さんは“説明責任”の呪縛から解放されました。一般家庭でも、親族間の問題や子どもの受験など男性が苦手なやりとりは、かかあ天下で無難に切り抜けられるのです」(関修氏)

 妻主導の家庭が増えたのは、共働きの増加にも要因がありそうだ。2020年労働力調査によると、共働き世帯は1240万世帯を数え、専業主婦の571万世帯を加えた全夫婦世帯の68%を占める。女性の経済的自立によって、妻の家庭内での発言権も高まった。

 オールアバウトに連載を持つ「恋人・夫婦仲相談所」の三松真由美所長が言う。

「相談者も妻が主導権を握る家庭の方がうまくいっています。いわゆるプロデュース妻で、家電の購入やネットフリックスの加入など細かい決断を妻が担うパターン。高額の商品でなければ意思を尊重するくらいが円満のコツ。共働き夫婦の場合も、ほとんどの家庭で妻が家事・子育ても同時にこなしていますから、知らず知らずのうちに妻が力を持っていくのが自然な流れです。夫は身を任せるくらいが平穏な幸せが得られます」

 将来の円満な家庭を望むなら、交際時からかかあ天下の「本性」を見抜かなくてはいけない。交際当初こそ従順でかわいらしく見せているが、それは見かけの顔。ふとした瞬間にのぞかせる「かかあ天下」の素養を見逃してはいけない。

①体調が悪いときに看病を名乗り出る

 風邪気味でデートをドタキャンしたら、心配し差し入れを買ってきた。料理も得意で世話を焼いてくれる。また、部屋に遊びに来て脱ぎっぱなしのシャツが落ちていたら、「洗濯してあげるよ」と拾い始めるタイプだ。

「恋愛時代に尽くしてくれるのは、裏を返せば『私がやってあげなきゃ』と思っているから。弟がいる長女や姉御肌のタイプは『かかあ天下』になることが多い。お財布がしっかりした女性もそう。ブランド品にあまり興味がなかったり、デートで食事する際に“おごってほしい”と言わなかったり、値段を見てメニューを決めるタイプは結婚後も家計を管理します」(三松真由美氏)

 結婚後の小遣い制は多少つらいが、浪費家の夫には幸運。亭主関白の場合、定年退職後にお金を稼げなくなって熟年離婚するケースは多い。

②彼氏の母親(義母)を取り込んでいる

 立ち回りや周囲との関係構築が得意で、彼氏の身内や友人などと仲良くなれる。金銭トラブル報道があっても、味方に付いた眞子さんに対し、小室さんの母親は文春の密着取材に〈とても立派な方で。曲がったことや嘘はお嫌いで真実のみを信じて……〉とべた褒めしている。

③店員に勧められても「つい購入」しない

 芯が強い。普段はおっとりしていても、周囲の意見に左右されずに動じないタイプ。買い物も「つい購入」することはない。テレビを見ながら「この人悪い噂ばかりだよね」と話題にしても、「私はこう思う」とすぐに同調はしない特徴もある。

 とはいえ、「かかあ天下」が行き過ぎて、「恐妻」になってしまうのは避けたい。理想は、妻が主導権を握っているように裏でコントロールできる関係だ。

「一生妻にプロデュースされないためには、100%従わないことです。先述したように、夫側には、10個の決断のうち9個は任せる姿勢を見せるように伝えていますが、ガツンと1回自己主張するのがポイント。例えば、親の介護やマンション購入といった大きな買い物のときは、必ず妻と向き合って自分の意見を述べましょう。小言を言われたり、バカにしているなと思った時も、聞き流さずに『どうしてそう思うのか』と問います。女性は『この人、言いなりにはならないな』と察しますから、恐妻というアンバランスな関係にはなりません。また、かかあ天下の家庭はセックスレスで悩みを相談に来られることも多く、夫は夜の生活についても意見をしっかり伝えましょう」(三松真由美氏)

 眞子さんは米国に生活拠点をつくるようにリクエストし、小室さんはそれに従った。「私と結婚するという意思を持ち続けてくれたことに感謝しています」としおらしい面もあるが、妻主導で逆境をプラスに変えられる関係性こそ円満夫婦の秘訣かもしれない。


小室眞子さんの祖父がメディアに語った最期の言葉は「万人へのエール」だった

2021-11-09 10:30:00 | 日記

下記の記事は週間女性プライムからの借用(コピー)です。


「これもご縁かと存じます。よいお仕事と、またお話しできる機会がありますことを祈りつつ、今日はお礼とお詫びを申し上げて、お電話をお暇させていただいてよろしゅうございますか?」
 今年の夏のある日、川嶋辰彦さんは、やわらかな口調でそう断ってから、『週刊女性』の20代女性記者との約30分間におよぶ長電話を切った。
 記者も心待ちにしていた“またお話しできる機会”は、残念ながら訪れることはなかった─。
美智子さまから孫娘への抱擁
「11月4日、紀子さまのお父さまで学習院大学名誉教授の川嶋辰彦さんが、中皮腫のため81歳でお亡くなりに。最期は紀子さまと佳子さま、眞子さんに見送られたそうです」(皇室担当記者)
 川嶋さんは10月19日に都内の病院に緊急搬送され、そのまま入院。ICUで治療を受けていると報じられた。
 小室さんと眞子さんの結婚まで1週間を切っていたため、皇室関係者の間では「会見を延期すべきでは?」という声が上がっていたというが、
「おふたりは予定どおり10月26日にご結婚。当日、川嶋教授の意識があったのかは不明ですが、初孫の晴れの日を迎えることができました。
 10月29日には、小室さん夫妻がそろってお見舞いへ。“孫の夫”との面会が実現したのは、ご家族にとっても喜ばしいことだったのではないでしょうか」(同・前)
 紆余曲折を経て、結婚という人生の節目を迎えた孫娘の姿を、川嶋さんは心待ちにしていたことだろう。
「眞子さんは結婚前日に上皇ご夫妻のお住まいを訪れ、結婚の挨拶を。帰り際に美智子さまは眞子さんを静かに抱きしめられたそうです。30年間、皇室で過ごしたかわいい初孫の門出ですから、募る思いがおありだったのでしょう」(宮内庁関係者)
父方の祖父母である上皇ご夫妻とは、これまで多くの時間を重ねることができた眞子さん。しかし、母方の祖父母との交流は少なかった。
「紀子さまを嫁がせた後、川嶋ご夫妻は必要以上に皇室に立ち入ることを避けてきました。秋篠宮邸への訪問や、ご一家と面会することすらも、控えていたといいます。
 長年、学習院大学に勤めていたため“皇室と民間人の住む世界は違う”と、人一倍理解していたのだと思います」(宮内庁OB)
紀子さまが嫁いだ朝の出来事
 大学では馬術部の部長を担当していたこともあった。
「馬術をご趣味にされていた上皇陛下など、皇室の方々と最小限の交流はあり、秋篠宮さまは当時、紀子さまの第一印象について“川嶋教授と雰囲気が似ている”とおっしゃっていました」(同・前)
 皇室をよく理解していた川嶋さんは、秋篠宮さまと紀子さまのご婚約が正式に決定した日には、娘に礼節のあるコメントを送った。
「紀子には皇族としての責務をしかと自覚し、自覚のもとに自重し、自覚に照らし合わせ両陛下に対して尊敬申し上げ、礼宮さまのご指導のもとに新しい家庭、宮家の中で気負うことなく人間性を結実してくれればと願っています」
'89年8月、秋篠宮さまとの婚約内定後、川嶋辰彦さんとともに初めて報道陣の前に出られた紀子さま
【独自入手】小室眞子さん、中高の卒業アルバムに書き込んだ「好きな男性のタイプ」
 自宅にテレビやマンガ、雑誌を置かないという教育方針のもと“まじめで”“礼儀正しく”“温かく”をモットーに紀子さまを育ててきた。
「旅行はもちろんのこと、父娘で美術館へ足を運ばれることもありました。学生時代は大学内で待ち合わせて、一緒に帰ることも多く、仲のよい父娘だったと聞きます。皇室へ嫁ぐ朝、自宅を後にされる紀子さまに対し、川嶋教授は送り出すその手をいつまでもふりやめなかった……。その姿には、涙してしまいました」(前出・宮内庁OB)
 こうして幕を開いた紀子さまの皇室生活。まさか、これほど波瀾万丈な日々を過ごすとは思われなかっただろう。
「眞子さんの結婚問題が混迷を極めていた時期、紀子さまは近しい関係者に“娘を守れていませんね……”と、漏らされていたこともありました。
 結婚当日も複雑なお気持ちを抱えておられたと思います。大切に育ててきた長女の結婚を、多くの国民が納得し、祝福してくれる状況で送り出すことができなかった……。自責の念は、今も紀子さまを苦しめていると拝察します」(皇嗣職関係者)
「テレビに映る眞子さんは、皇族時代とは打って変わって暗い表情で、やせてしまったように見えます。ご家族も体調を心配されているでしょう。
 さらに、圭さんがNY州の司法試験に不合格だったのは、秋篠宮ご夫妻にとっても想定外だと思います。小室さん夫妻の今後に暗雲が立ち込めている現状に気が気でないのでは……」(同・前)
川嶋さんの妻からお気遣いを
 長女の結婚問題と義理の息子の“失策”、さらには最愛の父が亡くなった紀子さまのご心痛は計り知れない。川嶋さんの命日から、秋篠宮ご一家は服喪期間に入られた。
「秋篠宮殿下が7日間、紀子妃殿下が90日間、佳子内親王殿下と悠仁親王殿下が30日間、喪に服されます。
 皇室を離れた眞子さんは宮中の慣習にならう必要はなく、一般の人の“祖父が亡くなった場合”の対応と同じです。来年の年賀状は取り止めるなど、どういう形で喪に服するかは、眞子さん個人の判断です」(宮内庁OBで皇室ジャーナリストの山下晋司さん)
 ごく近い親族のみで行う家族葬となったのは、川嶋さんの遺志だったという。


眞子さん 祖父・川嶋さんが生前語っていた悲痛な本音「小室さんとの結婚は残念な結果」

2021-11-09 10:00:00 | 日記
下記の記事は女性自身オンラインからの借用(コピー)です。


《ヒヒラギの 葉の趣に 似たるなり タイ山村の 炉に立つ火揺らぎ》

学習院大学名誉教授の川嶋辰彦さん(享年81)が今年1月に送った年賀状には、こんな短歌も書かれていた。ヒヒラギとは柊のこと。尖った葉を持つ柊は、炉でゆらめく炎に似ているという歌のようだ。

川嶋さんの知人はこう語る。

「川嶋先生の胸の内のざわめきが強く伝わってきます。お孫さんの結婚問題については口を閉ざしていらっしゃいましたが、悩まれているご様子でしたから……。

柊の花言葉を調べてみてドキリとしたこともよく覚えています。『用心深さ』『先見の明』『あなたを守る』……。眞子さんにもっと用心深くなってほしいということなのか、あくまでもお孫さんを守るという決意表明だったのか。もしかしたら、その両方のお気持ちだったのかもしれません」

宮内庁の発表によれば、東京都内の病院で川嶋さんが逝去したのは11月4日午前11時55分。最愛の祖父を看取った眞子さんは仮住まいにしているサービスアパートにタクシーで帰ったが、車内ではずっとうつむいており、左目に浮かべた涙はいまにもこぼれ落ちそうだった。
不合格判明直後に眞子さんを慰めていた小室さん

実は眞子さんは10月26日に小室圭さんと結婚してから、頻繁に川嶋さんのお見舞いに訪れていた。

「一般人になって自由に動くことができるということもあったでしょうが、川嶋さんが亡くなる直前の3日間も毎日夕方に病院を訪れていました。1人で行くことが多かったのですが、10月29日には小室圭さんも同伴しています。川嶋さんに紹介するためでしょう。

眞子さんとしては、当日公表される予定だった夫の司法試験の合格も報告したかったのでしょうが、それはかないませんでした。実は宮内庁の幹部たちも、小室圭さんは司法試験に合格するに違いないという認識でした。それは眞子さんを通じて“試験の手ごたえ”について聞いていたからのようです。

つまり小室さんは試験結果をかなり楽観視していたのでしょう。眞子さんは今後も支え続けるそうですが、小室さんの不合格に落胆していることでしょうね」(宮内庁関係者)

10月29日、病院を訪れた小室さんは、鮮やかなブルーのシャツの裾をボトムスに入れないカジュアルなスタイル。前髪をおろした小室さんが、終始顔に笑みを浮かべていたのに対し、眞子さんは沈痛な面持ちだった。

川嶋さんの容体が思わしくなかったためか、それほど小室さんの不合格がショックだったのか……。小室さんは、そんな眞子さんの背中に手をあてて励ましており、本人には落ち込んだ様子はなかった――。
■金銭トラブル発覚後、川嶋教授が本誌記者に漏らした苦悩

かつて本誌記者は、“祖父と孫の絆”について、川嶋さん本人から話を聞いたことがあった。’18年1月下旬、小室圭さんの母・佳代さんと元婚約者の金銭トラブルが報じられてから1カ月ほどたったころのことだ。

当時、本誌は学習院関係者から次のような証言を得ていた。

「川嶋先生が、眞子さまの新居探しなどにかかるお金について、『うちが用意しないといけないんだろうな』と、おっしゃっていたというのです。小室家には経済的に頼れないということを、すでにご存じだったのでしょう。

秋篠宮家に支払われている皇族費は税金が原資ですから、先生は、そのお金で新婚生活を援助すべきではないというお考えのようです。『もう腹をくくるしかないよ』とも、おっしゃっていたそうで、具体的な経済的支援についてもある程度考えていらしたのではないでしょうか」

孫・眞子さんの結婚問題が世間で取りざたされているなかで、それまで何度も取材を受けているとはいえ、そのときの本誌記者の来訪はけっして喜ばしいことではなかっただろう。

しかし川嶋さんは、自宅マンションのロビーで1時間ほども応対してくれただけではなく、「○○さん、寒くはありませんか?」と、自身が着ていたジャンパーを脱いで、記者に着せようとする優しい気遣いまで見せてくれたのだ。

記者が、学習院関係者の証言について聞くと、ほほ笑みながらこう語った。

「結婚式への援助ということならば、どこのお宅でも同じだと思うのですけれど、(当人たちの)親御さんなり、一つ上の世代なりのお考えもあって、どんな式を挙げるかを選択していくことはあると思います。これはあくまで一般論ですが。

僕が(経済的な支援を考えているという)そういう気持ちを持っていたとしても、そんなにはっきりとは語らないように思えるのですが……、もっとも寝言で言っちゃったのかはわかりませんが(笑)」

経済的支援については、川嶋さんは慎重に言葉を選んでいた。金銭トラブル発覚直後から、小室さんの父や祖父が自殺をしていたことなど、“小室家の過去”が次々と報じられ、「結婚をやめるべき」という声が高まってきた状況のなかで、川嶋さんも懊悩の日々を送っていたのだろう。

ずっと柔和な表情だった川嶋さんだが、記者が「小室家の金銭トラブルといった問題が、結婚に悪い影響を及ぼしていることについて、先生はどうお考えでしょうか」、そんな質問を投げかけると、しばし目を閉じて考えこんだ。

「どんな家庭でも、祖父母にとって孫はかわいいものだと思います」

――それでは先生は、眞子さまと小室さんのご結婚をあくまでも応援されるということなのでしょうか?

「……(孫の結婚については)僕なりの感情はありますよ。(小室さんとの結婚に関しての)多くの方の話を聞き及ぶと、僕の基準から考えたときに、『ああ、残念な結果になってしまった』と、寂しく思います。(祖父の)僕が寂しく思うということは、いまの世間の動きからするに、(皆さんが応援していない)可能性は微小ではないような気がするんです……」

愛する孫の結婚を応援することができない苦しさが、ひしひしと伝わってきた。反対の声も多い結婚に突き進む眞子さんのことがよほど心配だったのか、そのあともしきりに「孫は本当にかわいい」という言葉を繰り返していた。
■祖父との永訣が、かたくなだった眞子さんの心に変化を

逝去直前の、眞子さんの連日のお見舞いについて、前出の川嶋さんの知人はこう語る。

「結婚問題を巡って、娘の紀子さまと眞子さんの距離が広がっていたことも、川嶋先生にとってはおつらかったでしょう。

川嶋先生はお優しい方でした。結婚に反対されていたとしても、先生はその本心を押し隠し、眞子さんを励ますようなお言葉をかけていたと思います。眞子さんの結婚会見を見れば、結婚に反対する人たちは“敵”と、考えていることはよくわかります。眞子さんにとって川嶋先生は“応援してくださった方々”であったのは間違いありません。

それだけに結婚が公表された後、川嶋先生が緊急入院されたことは眞子さんにとって衝撃だったでしょう。『自分のために心労をかけてしまった』という気持ちもあって、毎日病院に通っていたのではないのでしょうか」

川嶋さん逝去の翌日、11月5日朝9時半ごろ、眞子さんは赤坂御用地にある秋篠宮邸を訪れ、滞在は10時間にも及んだ。

「11月2日にも秋篠宮邸を訪れており、“初めての里帰り”と報じられました。荷物の整理のためだったそうです。しかし5日は、ご家族で夕食もごいっしょしたそうです。おそらくお父さまを亡くし、ご傷心の紀子さまをお慰めするために秋篠宮邸を訪れたのでしょう」(前出・宮内庁関係者)

祖父との永訣が、眞子さんのかたくなだった心を少しずつ溶かすことになるのだろうか。