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田村淳「〈延命治療はせん〉と言い続けた母ちゃん。パンツ1枚残さず、告別式の弁当まで手配して旅立った」

2021-11-28 15:30:00 | 日記

婦人公論.jp様のホームページより下記の記事をお借りして紹介します。(コピー)です。

延命治療を望まないことと、「早く死にたい」と望むことはイコールではありません。田村淳さんの母・久仁子さんは自分の病を知ったときから、大切な家族と楽しく別れるための数々の仕掛けを用意して、旅立ったのです(構成=内山靖子 撮影=清水朝子)
「なにかあった場合、うちは延命治療はせん」
母ちゃんが亡くなって、もうすぐ1年になります。享年72。母ちゃんの話をするといまだに泣きそうになるし、悲しみが薄れることはこの先もたぶんない。実の母を亡くす、というのは本当につらい経験ですね。
母ちゃんの左肺にがんが見つかったのは、亡くなる5年前のことです。その報告を電話で聞いたとき、僕は「悪いところを取り除けるのであれば、手術をしてほしい」と言いました。そうでなければ、母ちゃんは手術を拒むつもりだったから。
元看護師の母ちゃんは、それが納得できる治療か検討してくれたのだと思います。傷が小さくて済む胸腔鏡手術。その数年前にやはり肺がんと診断された父ちゃんが初期の段階で手術を受けて元気になったこともあり、「これは延命治療じゃない。積極的治療のためだから」と納得してもらいました。
「なにかあった場合、うちは延命治療はせん」――。これは、母ちゃんが繰り返し僕に伝えていた言葉です。ここ最近言うようになったのではなく、はじめて聞かされたのは、僕が20歳になったときでした。成人という節目に、ふさわしいと思ったんですかね。(笑)
「これから大事な話をするけど。うちになにかあっても延命治療はしないで」
そんなことを言われても、当時の母ちゃんは40代。僕も若くて、死ぬなんてリアリティがなく、そのときは適当に聞き流していたと思います。
数えきれないほど家族会議を重ねて
でも僕の誕生日がくるたび、「おめでとう。ところで覚えてる?」、帰省するたび、「おかえり。ところで延命治療はしないでね」とかれこれ20年以上言われ続けてきたせいか、がんのことを打ち明けられて真っ先に頭に浮かんだのが、延命治療のことでした。
僕の性格を知り尽くしている母ちゃんは、いざというときに効果を発揮するよう、長年かけて着々と仕掛けていたんだと思う(笑)。ことあるごとに言われていたので、母ちゃんにとって大切な意思であると、僕も理解できていました。
でも、手術から2年後に再発。このときの母ちゃんは、「手術はもうしない」と、はっきり意思を固めていました。手術後、激しい痛みに苦しんだこと。そして、いまの自分にはもう一度手術を受けられるだけの体力がないこと。だったら、このまま最期までがんとともに暮らしていく、と。
家族としては、一日でも長く生きていてほしい。だから僕も手術以外の治療法はないか、手を尽くして探したし、提案もしました。でも母ちゃんの考えは変わりませんでしたね。
父ちゃんや弟とも何度も家族会議を重ねて、最後は「母ちゃんの意思を尊重しよう」と3人で納得するしかなかった。2人の本音は、正直なところわかりません。だけどこれは母ちゃんの人生だから、好きなように生きればいい、としか言えない。ストレスのかかる治療を無理やり押しつけて、一日でも長く生きることを望むのは家族のエゴでしかないですから。
淡々と死と向き合う母ちゃんの姿を見るのはつらくて、あんなに泣きながら何度も弟と電話し合ったこともなかった。でも3人が一切ブレなかったことで、母ちゃんらしい人生の閉じ方を最後まで見守ることができたのだと思います。ほんと、死に方って生き方なんですよ。
屋形船遊びをしておきたい!
母ちゃんが延命治療に対してはっきり拒否を示していたのは、看護師だったことも大きいと思います。患者さんたちを看取りながら、「こういうお別れの形はイヤだな」「これは理想だな」という考えが固まっていったのかもしれない。意識が混濁した状態で、薬で長く生かされている友達の話をしながら、自分はそれを望まない、と言っていたこともありましたね。
僕は山口県下関市の最南端にある彦島(ひこしま)で生まれました。母ちゃんは僕と弟を保育園に迎えにくると、なにかしら面白いことを言って先生方を笑わせているような、明るくて面白くてサバサバした人。僕がいつも母ちゃんに言われていたのは、「他人に迷惑をかけるな」と「やりたいことをやりなさい」ということでした。
つまり、自分のやりたいことをやるのはいいけれど、他人に迷惑をかけずにやれ、というのが母ちゃんの教え。そう考えると、「延命治療はしない」というのも、ある意味母ちゃんらしい選択だったのかもしれません。
地元で漫才コンビを組み、芸能界に進みたい願望を強く持っていた僕は、両親に反対されながらも高校卒業とともに上京。東京で相方の(田村)亮さんと出会い、吉本興業の所属芸人としてロンドンブーツ1号2号を結成しました。
食べられない時期もあったけど、それでも結成から5年で冠番組を持つことができた。徐々にMCの機会が増え、お笑いにとどまらない幅広いテーマに取り組めるようになって、結婚もして……。母ちゃんのがんが発覚したのは、そんなさなかの2015年のことでした。
2年後に再発がわかり、これ以上の延命治療をしないと決めてからは、できるだけ実家に帰って母ちゃんと過ごす時間をつくろうと考えました。ちょうどそのころ、福岡でレギュラー番組を持っていたこともあって、コロナ禍以前は下関にもちょくちょく顔を出すことができたんです。
「あと何回、会いにこられるだろう」という思いが胸をよぎることもあったけど、あえて特別なことはせず、いつもと変わらない日常を心がけました。体調のいいときはごはんをつくってもらい、母ちゃん自家製味噌入りの味噌汁を食べる。18のときまで自分が座っていた席に座り、家族や仕事の話もたくさんしました。
母ちゃんは、確かに延命治療を拒みました。でもこれは、「早く死にたい」と望んでいることとは違います。誰でもいつかは必ず死ぬのだから、限られた時間を自分らしく暮らす、と決めただけ。その証拠に、母ちゃんは5年前から「やっておきたいこと」をノートに書き出していたそうです。
このことは最初、ノートを見せてもらったという妻から教えてもらいました。「銀座の資生堂パーラーでパフェを食べてみたい」「北海道に行きたい」「マカロン食べたい」「家族みんなで屋形船に乗りたい」……。なにを真っ先にやりたいか妻が尋ねると、「屋形船!」と即答だったとか。
そのことを聞き、母ちゃんに連絡すると、「家族だけじゃなくて、これまでお世話になった人、淳が仕事でお世話になった人、みんなを呼びたい」と言います。19年秋、けっこう大きな船を仕立てて、東京湾での船遊びという夢を叶えてあげることができました。

母ちゃんの最後の希望
年が明けて国内外にコロナウイルスが蔓延すると、実家に思うように帰れない日が続いて。そんなある日、母ちゃんの着物をリメイクしてつくったバッグが、妻のもとに届きました。妻が泣いているので理由を聞くと、「死んだらこれをあげる」と言っていたものらしいのです。
慌てて主治医に電話をして「余命を教えてほしい」と頼むと、「もって1年」と告げられました。まだまだ大丈夫、と思っていたので、さすがに頭が真っ白になりました。母ちゃんは、薄々予感があったのかもしれない。そうであったとしても、これはちゃんと本人に伝えないとダメだ、と考え直したんです。それで緊急事態宣言が明けてすぐの6月、下関に帰りました。
父ちゃん、母ちゃん、弟と4人で、ちょっといい天ぷら屋さんへ。食事が進んだころに、落ち着いて余命の話を切り出しました。がんの転移が進んでいること、もって1年であることを告げると、母ちゃんは「そうかな、と思ってた。でも母ちゃんは余命を超えると思う」と笑いました。家族4人で食事をしたのは、僕が18歳で上京する前の晩以来。そして、これが最後になってしまいました。
がんはほかの臓器や骨にも転移していたため、2週間後に母ちゃんは大腿骨を骨折。入院することになったのです。父ちゃんは毎日病院に行き、僕たち兄弟もできる限り病院に足を運びました。母ちゃんの最後の望みは、8月10日の72歳の誕生日を自宅で祝い、6月に生まれたばかりの僕の次女を抱っこすること。「痛い」「つらい」と言うと退院の許可がおりないので、1ヵ月の間、なんとか痛みに耐えたのだと思います。
誕生日当日、僕は妻と2人の娘を連れて、実家に帰りました。「かわいいねぇ」と次女を抱いていた姿はいまでも忘れられません。
覚悟はしていたけれど、これが母ちゃんとの最後の別れになりました。僕たちが帰ったら病院に戻って、痛み止めのモルヒネを打ってもらう。そうしたらもう意識がなくなる。部屋で2人きりになり、「だから、話ができるのは今日が最後だよ」と言われたんです。
いろいろな話をしたけれど、やっぱり実家をあとにするときが一番つらかったですね。タクシーに乗り込んだものの、妻に促されてもう一度家に戻り、母ちゃんを抱きしめました。病院に戻った母ちゃんが息を引き取ったのは、それから約1週間後のことでした。

鼻がムズムズするから、お棺に花は入れないで
母ちゃんは終活ノートをつくっていて、その死までが周到に準備されていました。延命治療に関する希望はすでにお話ししたとおりですが、「輸血、人工透析、気管切開、胃ろうなど含め、延命のための治療はしないでください。もし私が苦痛を感じているなら、モルヒネなどの痛みをやわらげるケアは、有難くお受けします」という文体が、母ちゃんらしくていいな、と思いましたね。
葬儀は斎場の見積もりをとり、申し込みまでしていたのです。遺影はもちろん、棺はエコ棺、告別式の仕出し弁当のランクは竹……まで決めていたところを見ると、下見をしていたのだと思います。父ちゃんがひとりで葬儀の手配をできっこないこと、家族が葬儀でどれほどバタバタするかもちゃんとわかっていたんですね。
「死後の顔を見られたくない」というのも希望のひとつで、コロナ下に参列を希望してくださる方は多かったのに、12人のみ、と人選もしてありました。
それから、棺に参列者が花を入れて送り出すのが一般的なスタイルですが、「花は足もとだけにして」という希望もありました。理由は、花粉で鼻がムズムズするから、らしいです(笑)。花のかわりに家族写真を入れてほしいと葬儀社に頼んであり、500枚くらいはあったかなあ。思い出の写真をスキャンしてプリントしたものがすべてポチ袋に詰めてあったんです。
写真を見て思い出話をしながら、みんなで棺に入れていく。よくこんなことまでひとりで考えたなあ、と思います。最後に入れるのは天ぷら屋で撮った写真、と父ちゃんに伝えていたそうで、泣きながら写真を棺に入れる父ちゃんを見て、僕も弟も涙が止まりませんでした。
遺影は、結婚式で着られなかったウエディングドレスを50代のときに着て撮った写真。出棺の音楽はベイ・シティ・ローラーズの「サタデー・ナイト」!
これほど葬儀に似合わない曲もないし、一瞬かけ間違いかと思った人もいたかもしれないけど(笑)、すべて母ちゃんの指定だと葬儀社の方から聞かされて、みんなで大笑い。僕以上の芸人魂、というか、見事なエンターテインメントでした。最後まで「他人に迷惑をかけない」「やりたいことをやる」人生を貫いた、母ちゃんらしいエンディングだったと思います。

遺書の形は人それぞれでいい
遺品もね、なにひとつ残っていなかったんですよ。まあ、もともと華美なものに興味が少ない人ではあったけど、数少ない指輪などは早い時期に僕と弟の妻たちに渡していたようなので。がんとわかったときから5年かけて、自然な形で形見分けをしていたんです。
タンスも空っぽ。残っていた下着などは、最後に自宅に帰ってきたあの日に処分した、と父ちゃんから聞かされました。父ちゃんがやったのは、たぶん銀行口座の凍結解除の手続きと、携帯電話の解約くらいじゃないでしょうか。
それから「誰もお参りできないお墓なら、なくていい」と、納骨堂も購入していました。お寺の決め手は、「あの住職の声でお経をあげてほしい」だそうです(笑)。父ちゃんが亡くなったら、2人の骨を一緒にして散骨して、という希望も事前に伝えられていました。
亡くなって1年が経ちますが、不思議なことに、生きているときより亡くなってからのほうが母ちゃんを思い出す時間が増えました。お骨は分骨して自宅に置き、「今日はこんな仕事をしたよ」「最近、こんなことをはじめたよ」と、毎日のように会話をしているんです。
僕はいま、芸人の傍ら「遺書を動画で残す」サービスをプロデュースする仕事をしています。遺書とは、財産分与のあれこれといった法的根拠を伴う遺言書と違って、いわゆる家族に残すメッセージのようなもの、と考えてください。
遺書を一度でも書いてみたことがある方ならわかると思いますが、いざ書こうと思うと難しい。死を考えることは、自分にとって生きることとはなにか、大切にしてきたことはなにか、どんな人生を歩んできたか、に向き合う作業でもあるからです。
それに人の気持ちは年齢や環境によって変わっていくので、適宜更新することも大事。動画なら双方にとって残しやすく、受け取りやすいのでは、と思ってはじめたのが、「ITAKOTO」というサービスです。
もともと延命治療について20歳から聞かされていたくらいなので、田村家において「死」の話はタブーではありませんでした。運営にあたって、死についてもっと学びを深めたくて大学院にも入りましたが、実体験に勝るものはない、というか、母ちゃんの終活から受けた影響は大きかったですね。
なにしろ、母ちゃんに「ITAKOTO」の話をしたら快く動画を送ってくれたんですが、なんとフラフープを永遠に回し続けている動画でした(笑)。本当に遺書の形なんて人それぞれでいいんだな、と教えられた思いです。
誰だって、あの世に旅立つときの心残りはできるだけ少ないほうがいい。母ちゃんの見事な最期を胸に刻んで、僕も自分自身の人生を悔いのないように生きていきたいと思っています。   


30年前に母が書いた幼稚園の連絡帳を読んだら、共感の嵐だった

2021-11-28 13:30:00 | 日記

ダイアモンドオンライン様のホームページより下記の記事をお借りして紹介します。(コピー)です。

30年前に母が書いた幼稚園の連絡帳を読んだら
共感の嵐だった
「押し入れ整理してたら、こんなの見つけたよ」
 そう言って母がくれたのは、30年前の幼稚園の連絡帳だった。年中から入園した私。しかし、あるときから私が幼稚園へ行きたがらなくなり、母は悩んでいたようだ。
 連絡帳には、母の悩みや先生とのやりとりが2年分、びっしりと書かれていた。現在子育てをしている私自身がとても共感し励まされたので、ほんの少しだけ公開したい。
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【年中】
5/19 最近娘が、「幼稚園に行きたくない」と、ときどき言うようになりました。どうやら毎日、男の子に追いかけられてスカートをめくられたり、キックされたりするのが嫌なようです。
7/4 「スカートめくりやいじわるは、その子があなたと遊びたいと思っているからかもしれないよ」と娘に言って聞かせたのが、少しわかってくれたかな…。幼稚園では、元気よく遊んでいるでしょうか?
11/28 毎朝決まって口にすることは、「きょう、幼稚園お休み?」と「きょう、お弁当あるの?」のふたつ。朝の送迎でも、玄関のところで「いってらっしゃい」「バイバイ」をかならず5~6回は繰り返します。泣いて嫌がらないだけいいと思うのですが、いつになったら毎朝元気に、すすんで登園してくれるのかと思うと…
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わかる。とてもわかる。4歳の息子も、まったく同じことを毎朝口にする。
一方、実は私は幼稚園生活に、楽しかった思い出しかない。こんなに行くのを嫌がっていた感じだったとは、知らなかった。
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1/22 主人が1月20日から東京へ研修に行っています。カレンダーを見ながら、指折り数えてパパの帰宅を待っている娘です。休み明けはまた「帰りたい」、なんて言うかもしれません。よろしくお願いします。
3/10 ときが経つのは早いものだと毎年思いますが、今はとくに強く感じています。内弁慶な娘が、果たして幼稚園でちゃんとやっていけるかどうか心配していましたが、最近は仲良しの○○ちゃんと、2人だけで登園できるようになりました。先生にも感謝しています。
毎朝、幼稚園に行くのを嫌がって泣くことはありませんでしたが、それでも毎日毎日登園するのは、彼女にとって大きなストレスでもあったようで、私としては、いつ「行かない」と泣き出すのか、気が気ではありませんでした。「きょう、幼稚園お休み?」というのが、朝の決まり文句だったように思います。「じゃあ、お休みする?」と聞くと「嫌」と言うので、やはり幼稚園は楽しいところのようです。
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 息子もそうだ。幼稚園お休みする? と聞くと「うん!」というのはちょっと違うけれど、幼稚園自体は好きだといっている。
 お迎えに来たときの母は、笑顔だった記憶しかない。でも、本当は、こんなに心配してくれてたんだ。
「今のままが一番幸せのような気すらします」
母がひそかに悩んでいたこと
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【年長】
5/5 今週から幼稚園が本格的に始まりますね。娘は、自分の思っていることをなかなか言葉にできない性格です。私としては、その点が一番の心配ごとです。せめてあと1年で、元気に挨拶ができるようになりますように。
6/1 保育参観の日に、泥だらけになって遊んでいる姿を見て嬉しく思います。なんだか年長さんになってから生き生きしているようで、毎朝はりきって家を出ていきます。たとえ泥だらけになっても元気いっぱい遊んでくれることが、私にとっては大きな喜びです。
7/7 園の階段をのぼっていくときは、情けないほど心細い表情で、何度も振り向きながらバイバイをする子でした。親の私はそれが歯がゆくて、どうして元気よく「おはようございまーす!」と入っていけないのかと、じれったい思いをしていました。今は、「先生に昨日つくったネコちゃんの縫い物をみせるんだ!」と言ったり、お泊り会も楽しみにしていて、パジャマをつくってとせがまれています。

12/9 クリスマスページェントの練習が始まって、とても張り切っています。「ガブリエルの役になれてうれしい」と言いながら、歌ったり踊ったりの毎日で、妹もすっかり覚えてしまいました。「一番前で、マイクで歌いたいの!」……以前に比べて、なんと積極的になったことでしょう。
2/3 園生活も、残すところ1ヵ月余り。なんだかこのままずっと幼稚園児であってほしい気もします。小学校へ行けばいろいろなしがらみもあるだろうし、今のままが一番幸せのような気すらします。
卒園まであとわずかとなった今、このまま元気で登園してほしいということと、もうひとつ気がかりなことがあります。娘の祖母(私の母)が現在入院中で、重体です。娘にとっては、たった一人のおばあちゃんです。おそらく出席は無理でしょうが、なんとか入学式を見せてあげたいと願っています。
3/14 先生、最後に……1年間、本当にありがとうございました。小学校でも、娘の表面に出にくい性格を理解してくれる先生にめぐり逢えたらと思います。
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 幼稚園時代の私、なんて息子とそっくりなんだろう。
 息子の口ぐせは、「きょう、幼稚園お休み?」「きょう、お弁当?」のふたつ。毎朝泣いて嫌がることはないものの、「おうちのほうが好き」と言う。理由をたずねても、首をかしげるだけだ。
 私はそれを、息子の個性だとわかりつつも、ただ元気にニコニコと登園してくれる、それだけで十分なのに……ともどかしくも感じていた。
 実は30年前、母も同じことで悩んでいたのだ。
保護者の悩みは
いつの時代も同じ
 幼稚園時代のことは、ぼんやりとしか覚えていない。母は、当時の担任の先生のことを「年中の先生は新人さんでちょっと心配だった」「年長さんの先生はベテランで安心だった」といっていたが、私の脳裏に焼きついているのは、おそらく年中の頃の先生。いつも、私を優しくひざの上で抱っこしてくれていた。
 私の記憶のなかの幼稚園は、大好きなお友達と先生がいる、楽しい場所。その後の小学校生活もエンジョイしたし、今もこうして生きている。子どもって、案外そんなものなのかもしれない。
 祖母は、小学校の入学式の直前に亡くなった。私はお通夜のために、入学式をお休みした。今思うと、祖母が「入学式の日に私と一緒にいたい」と願ってくれていたのだろうか。
 途端に母のことが心配になる。今こうして母が生きているのは、幸せなことなんだ。いつも元気ではつらつとしているから、つい忘れてしまう。早く新型コロナウイルスのパンデミックが終わり、家族で気兼ねなく集まることができる日が来ますように。
 そして息子には、無理をさせず心配しすぎず、「うちの息子は大丈夫」と信じよう。こんなにも大切に想ってくれていた母に、ありがとうを言いたい。
幼稚園の連絡帳は
70年も前から存在した
 これは以前、母の連絡帳を読んだ私が、自分と息子とのあまりのシンクロぶりに驚き、心のままに綴った記事だ。当初掲載したnoteでは、現在進行形でお子さんの登園しぶりに悩む保護者の方から、すでに子育てを終えたご年配の方、親元をはなれて暮らす20代の方まで、幅広い世代から反響をいただいた。
 そこで、ふと思った。そもそも連絡帳は、いつからこの世に存在しているのだろう?と。
 1980(昭和55)年に出版された『戦後保育史』によると、すでに1950(昭和25)年には、“母親と先生が”連絡を取り合うための「家庭連絡簿」として存在していたようだ。
 1950年といえば、終戦からまだ5年。もともとあった保育所は多くが焼失したが、奇跡的に焼け残った園で、少しずつ保育が再開されていた。子どもを通わせるのは、おもに戦争で夫を亡くし、働く必要のある母親だったという。
 ……それから、約70年がたった今。
 連絡帳はもう、母親と先生のためだけのものではなくなっている。
連絡帳の工夫を紹介
連絡帳は夫がほぼ担当、夫婦合作のページも
 もしこぴさん(@moshikopi)宅では、2歳の息子さんの保育園の連絡帳を、週4回ペースで夫が記入している。夫はほぼ在宅勤務で、普段から家事・育児を5:5で分担。朝、妻のもしこぴさんが息子さんの着替えをする間に、夫が連絡帳を書く……という流れに、自然となったのだそうだ。
「うちでは『ベンツ買う』と言っています」の一文に、思わず笑みがこぼれる
カエルのイラストは、妻のもしこぴさん作。夫婦の合作がほほえましい
さりげなくご主人の好みが織り交ぜてある
「いつか子どもが大きくなったときに見返すと、成長を感じて面白そう。その日が楽しみ」と、もしこぴさんのご主人。
 また、大阪在住の元保育士Rさんは言う。「パパが連絡帳を書くケースは1割にも満たなかったですが、ママとはまた違った視点でお子さんのことを書いてくれる。それが面白く、私は大好きでした」
 母の連絡帳は、30年のときを経て、私たち親子の背中を押してくれた。もしこぴさんの息子さんは、数十年後、この連絡帳をどんな気持ちで読むのだろう。
 だれかを想って書いたものは、今よりもずっと遠い未来に、その人自身と、その人が大切にするだれかを勇気づける。
 連絡帳や日記にかかわらず、今はいろいろなツールが出ている。どんな形であれ、記録は唯一無二の宝物だ。べつに今すぐ、だれかに見せる必要はない。あなたもこれを機に、「記録」を始めてみてはどうだろうか。
(ライター 原由希奈)


お父さんとお母さんの自慢の子だから」…里親として10人余りを育てた元官僚がいま思うこと

2021-11-28 12:00:00 | 日記

ヨミドクター様のホームページより下記の記事をお借りして紹介します。(コピー)です。

 

短期、長期を合わせて10人余りを里子として迎え入れてきました。今は小学5年生の男の子の父親として、子育てに励んでいます。

これまで育てた子どもの中には、 癇癪

かんしゃく

 を起こして妻に食ってかかり、部屋のドアを蹴って穴を開けてしまうような子もいました。そんな子も、寄り添い、気持ちを受け止めるうちに、手を出してくることがなくなりました。「偉くなったな」と褒めると、「お父さんとお母さんの自慢の子どもだから」と言って、私たち夫婦を喜ばせてくれました。

子どもたちの成長を間近で感じ、一緒に成長しながら親子関係を築いていけるのが、里親の 醍醐

だいご

 味だと思います。

里親に登録したのは2007年。末っ子の三男が中学3年生となったのを機に、妻が話を持ちかけてきました。当時は、厚生労働省で里親制度を担当する家庭福祉課長。大変さは分かっていました。しかし、自分の足元に福祉の現場があるのはありがたいと感じ、夫婦で踏み出しました。

08年の春、初めての里子を迎えました。実子3人を育てたので、「もう1人くらい大丈夫」と思っていましたが、経験は通用しませんでした。その子の気持ちや言動を受け止めることができず、4か月で養育を断念しました。その子には本当に申し訳ないことをしてしまいました。

この経験から、同じような悩みを抱える里親を孤立させてはならないという思いを強くしました。困難を感じている里親には、周囲の関係者が支援する手厚い体制づくりが必要だと考えています。

それから約1年半後、児童相談所から、2週間程度の短期委託を打診されました。ためらう気持ちもありましたが、「自然体でいこう」と受け入れを始め、経験を積み重ねました。

18歳で委託期間が満了した後も、奨学金の申請などの相談に乗り、交流が続いている子どももいます。社会人として自立した姿を頼もしく感じます。

里親には、実の親と一緒に暮らせない子どもたちに家庭の温かみや、人と信頼し合うことの大切さを伝える責任があると思います。子どもたちが将来、自分の家庭を持つときの道しるべになりたいです。(聞き手・野島正徳)

◆里親= 児童福祉法に基づき、虐待や貧困といった理由から、親元で暮らせない原則18歳未満の子どもを家庭などで引き受け、育てる人のこと。厚生労働省によると、昨年3月末現在、里親の登録数は全国で1万3485世帯。里親経験者らが5、6人を養育するファミリーホームと合わせて、計7492人の子どもが養育されている。

ふじい・やすひろ 1960年、大阪府生まれ。83年、厚生労働省(旧厚生省)に入省。2007年、妻の珠美さん(62)と里親に登録。同省を16年に退官後、「全国家庭養護推進ネットワーク」を19年に設立、代表幹事に。里親らの交流を促進し、家庭での養育を必要とする子どもたちへの支援拡充に向け、政策提言を続けている。

 


悠仁さまが「即位しない」というご意思を表明される可能性も 眞子さまの“駆け落ち婚”が皇位継承に与える影響

2021-11-28 11:00:00 | 日記

デイリー新潮オンライン様のホームページより下記の記事をお借りして紹介します。(コピー)です。  記事は2カ月程前に書かれたものです。現在と少し違いますがご了承ください。(年齢、ご結婚日時等)

職員にきついご指摘をなされる紀子さま
 前代未聞の“駆け落ち婚”を成就されようとしている眞子さま(29)と小室圭さん(29)。その結果、秋篠宮家の威厳は失墜し、将来の皇位継承すら危ぶまれる事態となっている。
 ***
 皇室制度に詳しい名古屋大学大学院の河西秀哉准教授はこう指摘する。
「今後、女性皇族が結婚後も宮家に残る制度が成立する可能性はあります。ただ、ご結婚の意思を貫かれた眞子さまの例を踏まえ、“ご本人の意思を尊重して”佳子さまが皇室を離脱される、つまりは宮家を継がない選択肢は残さざるを得ないように思います。かつての秋篠宮さまは“気楽な次男坊”として比較的自由に暮らされ、眞子さまや佳子さまもそうした雰囲気のなかで育ってこられました。しかし、悠仁さまがお生まれになり、秋篠宮さまが皇嗣となられたことで大きくお立場が変わった。その結果、秋篠宮ご夫妻は“自分たちのふるまいも変わらなければならない”とお考えになったのだと思います。ご姉妹はそのことに違和感をお持ちなのではないでしょうか」
 かつて秋篠宮家に仕えた関係者も河西氏と同じ意見だ。
「秋篠宮さまが皇嗣になられてからご両親のお子さまに対するご指導が厳しくなった印象を受けます。佳子さまはダンスに強い思い入れがおありなのですが、紀子さまのご反対に遭って通うことを断念されたダンス教室もありました。また、紀子さまは職員に対してきついご指摘をなさることもしばしば。相手の意見に耳を貸さずに“そうではなくてね”“それではあちらはどうなったんですか”と詰問されるようなこともある。秋篠宮家に仕える職員は転属や退職が絶えず、残った職員は出身省庁もバラバラで統括役を担う存在がいない。悠仁さまが高校進学を控える微妙な時期だけに不安を禁じ得ません」
悠仁さまが即位されたくないというご意思を表明された場合……
 「儀式を執り行うおつもりはないようですが、眞子さまとしては天皇皇后両陛下ならびに上皇・上皇后陛下への私的なご挨拶はなさるようです。その上で入籍を済ませ、10月に緊急帰国する予定の小室さんと一緒に飛行機で渡米することを望まれています。皇籍離脱後に小室さんと新戸籍を作り、パスポートを新規発給するまでの期間は、都内のマンションで仮住まいされるご予定ですが、厳戒態勢が避けられません。その際、隣に“夫”がいてくれれば心細くないとお考えなのです」(前出・記者)
 一方、麗澤大学の八木秀次教授は危機感を募らせる。
「眞子さまのご結婚は、佳子さまのみならず、将来の皇位継承にも悪影響を及ぼす恐れがあります。眞子さまにご結婚の自由を認めた以上、悠仁さまの即位についても自由意思を認める事態になりかねないからです。上皇陛下が生前退位された際には、そのお考えを尊重して一代限りの特例法が作られました。また、秋篠宮さまは“兄が80歳のとき、私は70代半ば。それからはできないです”と即位に関するご自身の意見を述べられたとされます。となれば、悠仁さまが即位されたくないというご意思を表明された場合、それを認めないわけにはいかなくなります。英王室では、エドワード8世が離婚歴のある米国人女性と結婚するため退位した“王冠をかけた恋”が有名ですが、それと同じことが日本の皇室で起きないとは言い切れません」
 皇族の身分を捨てて新天地に旅立とうとするプリンセスの一途な愛によって、秋篠宮家、ひいては皇室が危機を迎えようとしている。


高円宮承子さま、“深夜出歩き”の裏で不安視される「小室さんと共通点」を持つ交際男性

2021-11-28 08:36:17 | 日記

週間女性プライム様のホームページより下記の記事をお借りして紹介します。(コピー)です。

「飲食店への時短要請が解除されたとはいえ、早々に撮られてしまったのは少々うかつだったかもしれませんね。眞子さんの結婚問題が決着したこともあり、今度はご自身の将来について考えていらっしゃるころだと思います。ただ、そのお相手に関して、ご家族や周囲が懸念を抱かれているとか……」(宮内庁関係者)

 11月中旬の夜、高円宮家の長女・承子さまが六本木の飲食店が連なる一角で、深夜2時過ぎに数人のグループでいるところを『NEWSポストセブン』に報じられた。

日本酒と焼酎がお好き
「承子さまは膝丈のワンピースにジャケットを羽織り、仕立てのいいスーツなどの上品な身なりをした男女と一緒とのことで、職場の同僚との宴会終わりだったのだと思います。現在は『日本スカッシュ協会』の名誉総裁を勤めるなど、皇族として公務を担われ、普段は『日本ユニセフ協会』で、常勤の嘱託職員として勤務されています。和気あいあいとした雰囲気だったそうですから、職場での人間関係も良好なのでしょうね」(同・前)

 昭和天皇の弟・三笠宮さまの孫にあたる承子さまといえば、国民の中では“奔放なプリンセス”というイメージも強いだろう。


 
「イギリスに留学中だった'07年、会員制のSNSに投稿されたプロフィールや日記が週刊誌に報道されてしまいました。《王様ゲームやったけどエロ系一切なし》《男の人2人にナンパされた》など、自らの恋愛事情や日々の出来事を赤裸々に記した日記だったことで、世間を驚かせました。

 結局、留学していた『エディンバラ大学』は卒業できずに帰国し、その後は改めて『早稲田大学』にご入学。『早稲田』は27歳で卒業されました。普段はSPが常に護衛しているのですが、過去にはSPを振りきるために職場から退勤してダッシュされたこともあったそうです」(皇室担当記者)

 承子さまを知る友人は、今回の深夜宴会報道について、次のように話す。

「奔放だと言われがちですが、実はおっとりした雰囲気の方ですよ。確かにお酒は好きだと思います。以前は『六本木ヒルズ』で開かれていた元プロサッカー選手の中田英寿さんプロデュースの日本酒イベントに参加したり、都心の繁華街にある人気しゃぶしゃぶ店や一般的な居酒屋などでもお酒を楽しまれていました。

 日本酒や焼酎がお好きのようです。確かに、盛り上がると承子さまとの飲み会は深夜まで続くこともしばしばあるので、今回の報道も特に驚きはしませんでしたよ」
高円宮家は次女の典子さんが皇室とも縁のある『出雲大社』の宮司を代々勤める家系の長男・千家国麿さん、三女の絢子さんは日本郵船に勤め、NPO法人『国境なき子どもたち』の理事職も担っている守谷慧さんと、それぞれ結婚されている。

 どちらも母親の久子さまが出会いのきっかけを作られたそうだが、長女の承子さまも以前から「結婚間近」と、たびたび報じられている。

ご家族から反対の声が
「数年前から結婚間近のお相手がいらっしゃるそうです。お相手はかねてから交際が続いている大手銀行に勤める同学年の男性で、2人きりでの居酒屋デートも週刊誌に報じられたことがあります。仕事ぶりも職場から高く評価されており、勤務先のホームページにある社員紹介の欄で紹介されたこともあるほどです。

 これまで何度もご結婚の話が出たようですが、そのたびに一旦留まるということを繰り返されているんだとか。眞子さんの結婚騒動で世間が揺れる中、なかなか踏ん切りがつかなかった部分もあるのでしょうが、小室さん夫妻は渡米して世間の注目も少しずつ離れてきている。承子さまも現在35歳ですから、そろそろゴールインも視野に入っているのでは」(前出・宮内庁関係者)

 しかし、皇室の結婚において避けては通れない“壁”が存在する。


久子さまと百合子さま('20年)

「実は、ご家族から承子さまのお相手を反対する声が挙がっているのです。承子さまが宮邸に招き、ご家族に紹介されたことがあったのですが、彼の態度が少し無遠慮な様子で、久子さまや祖母の百合子さまが好感を持っておられないようなのです」(高円宮家関係者)

 久子さまは、高円宮家の3姉妹の結婚相手を見つけるため、積極的に宮邸でパーティーを開かれていた。
「パーティーには旧華族や代々政治家を輩出している名家の子息などが招かれ、“お見合い”をさせてこられました。この会での出会いではありませんでしたが、典子さんと絢子さんはご自分の人脈などから結婚相手を見出されています。

 久子さまとしては、皇族の結婚は“家族も国民も安心できるお相手がいい”とのお考えでしょうし、直接会って好感を持てなかった男性と娘を結婚させるとは現状では考えられません。その点が、承子さまがたびたび結婚間近と言われてもなかなかゴールインできない、最大の原因なのかもしれません」(同・前)

小室圭さんとの「共通点」
 以前、週刊誌からの直撃取材を受けた承子さまは「結婚と交際は別です」とお答えになるなど“久子さまの教え”を念頭に置かれているとはいえ、長年交際してきた男性との結婚をあきらめるという選択はなかなか難しいのは想像に難くない。

 ご結婚のハードルが上がっているのは、小室圭さんの存在も影響していることだろう。


小室眞子さんの祖父・川嶋辰彦教授が入院中の病院に小室圭さんも一緒にお見舞いへ

「小室さんと眞子さんの結婚が延期となり、国民から猛バッシングを受けた最大の原因は、小室家が抱えていた金銭トラブルが発覚したからでした。ほかにも、小室さんの母親である佳代さんのお金に関する疑惑が次々と報じられたことも理由です。

 小室さんの件で、次に結婚される女性皇族のお相手は国民からの注目度がかなり高くなるでしょう。相手男性だけではなく、ご家族がトラブルを抱えておらず、安定した仕事や立派な人柄であることも求められると思います。

 承子さまの交際相手は、小室さんが勤務していた『三菱東京UFJ銀行(当時)』と並ぶメガバンクの中堅行員です。しかも、実は名前のイニシャルが“K”だそうで、小室さんと比較される恐れがある。そういったことも踏まえ、久子さまとしては高円宮家の家長として、承子さまの結婚相手は慎重にならざるを得ない事情があるのです」(皇室ジャーナリスト)

 小室夫妻の結婚問題が皇室にもたらした影響は、計り知れないということか……。