婦人公論.jp様のホームページより下記の記事をお借りして紹介します。(コピー)です。
延命治療を望まないことと、「早く死にたい」と望むことはイコールではありません。田村淳さんの母・久仁子さんは自分の病を知ったときから、大切な家族と楽しく別れるための数々の仕掛けを用意して、旅立ったのです(構成=内山靖子 撮影=清水朝子)
「なにかあった場合、うちは延命治療はせん」
母ちゃんが亡くなって、もうすぐ1年になります。享年72。母ちゃんの話をするといまだに泣きそうになるし、悲しみが薄れることはこの先もたぶんない。実の母を亡くす、というのは本当につらい経験ですね。
母ちゃんの左肺にがんが見つかったのは、亡くなる5年前のことです。その報告を電話で聞いたとき、僕は「悪いところを取り除けるのであれば、手術をしてほしい」と言いました。そうでなければ、母ちゃんは手術を拒むつもりだったから。
元看護師の母ちゃんは、それが納得できる治療か検討してくれたのだと思います。傷が小さくて済む胸腔鏡手術。その数年前にやはり肺がんと診断された父ちゃんが初期の段階で手術を受けて元気になったこともあり、「これは延命治療じゃない。積極的治療のためだから」と納得してもらいました。
「なにかあった場合、うちは延命治療はせん」――。これは、母ちゃんが繰り返し僕に伝えていた言葉です。ここ最近言うようになったのではなく、はじめて聞かされたのは、僕が20歳になったときでした。成人という節目に、ふさわしいと思ったんですかね。(笑)
「これから大事な話をするけど。うちになにかあっても延命治療はしないで」
そんなことを言われても、当時の母ちゃんは40代。僕も若くて、死ぬなんてリアリティがなく、そのときは適当に聞き流していたと思います。
数えきれないほど家族会議を重ねて
でも僕の誕生日がくるたび、「おめでとう。ところで覚えてる?」、帰省するたび、「おかえり。ところで延命治療はしないでね」とかれこれ20年以上言われ続けてきたせいか、がんのことを打ち明けられて真っ先に頭に浮かんだのが、延命治療のことでした。
僕の性格を知り尽くしている母ちゃんは、いざというときに効果を発揮するよう、長年かけて着々と仕掛けていたんだと思う(笑)。ことあるごとに言われていたので、母ちゃんにとって大切な意思であると、僕も理解できていました。
でも、手術から2年後に再発。このときの母ちゃんは、「手術はもうしない」と、はっきり意思を固めていました。手術後、激しい痛みに苦しんだこと。そして、いまの自分にはもう一度手術を受けられるだけの体力がないこと。だったら、このまま最期までがんとともに暮らしていく、と。
家族としては、一日でも長く生きていてほしい。だから僕も手術以外の治療法はないか、手を尽くして探したし、提案もしました。でも母ちゃんの考えは変わりませんでしたね。
父ちゃんや弟とも何度も家族会議を重ねて、最後は「母ちゃんの意思を尊重しよう」と3人で納得するしかなかった。2人の本音は、正直なところわかりません。だけどこれは母ちゃんの人生だから、好きなように生きればいい、としか言えない。ストレスのかかる治療を無理やり押しつけて、一日でも長く生きることを望むのは家族のエゴでしかないですから。
淡々と死と向き合う母ちゃんの姿を見るのはつらくて、あんなに泣きながら何度も弟と電話し合ったこともなかった。でも3人が一切ブレなかったことで、母ちゃんらしい人生の閉じ方を最後まで見守ることができたのだと思います。ほんと、死に方って生き方なんですよ。
屋形船遊びをしておきたい!
母ちゃんが延命治療に対してはっきり拒否を示していたのは、看護師だったことも大きいと思います。患者さんたちを看取りながら、「こういうお別れの形はイヤだな」「これは理想だな」という考えが固まっていったのかもしれない。意識が混濁した状態で、薬で長く生かされている友達の話をしながら、自分はそれを望まない、と言っていたこともありましたね。
僕は山口県下関市の最南端にある彦島(ひこしま)で生まれました。母ちゃんは僕と弟を保育園に迎えにくると、なにかしら面白いことを言って先生方を笑わせているような、明るくて面白くてサバサバした人。僕がいつも母ちゃんに言われていたのは、「他人に迷惑をかけるな」と「やりたいことをやりなさい」ということでした。
つまり、自分のやりたいことをやるのはいいけれど、他人に迷惑をかけずにやれ、というのが母ちゃんの教え。そう考えると、「延命治療はしない」というのも、ある意味母ちゃんらしい選択だったのかもしれません。
地元で漫才コンビを組み、芸能界に進みたい願望を強く持っていた僕は、両親に反対されながらも高校卒業とともに上京。東京で相方の(田村)亮さんと出会い、吉本興業の所属芸人としてロンドンブーツ1号2号を結成しました。
食べられない時期もあったけど、それでも結成から5年で冠番組を持つことができた。徐々にMCの機会が増え、お笑いにとどまらない幅広いテーマに取り組めるようになって、結婚もして……。母ちゃんのがんが発覚したのは、そんなさなかの2015年のことでした。
2年後に再発がわかり、これ以上の延命治療をしないと決めてからは、できるだけ実家に帰って母ちゃんと過ごす時間をつくろうと考えました。ちょうどそのころ、福岡でレギュラー番組を持っていたこともあって、コロナ禍以前は下関にもちょくちょく顔を出すことができたんです。
「あと何回、会いにこられるだろう」という思いが胸をよぎることもあったけど、あえて特別なことはせず、いつもと変わらない日常を心がけました。体調のいいときはごはんをつくってもらい、母ちゃん自家製味噌入りの味噌汁を食べる。18のときまで自分が座っていた席に座り、家族や仕事の話もたくさんしました。
母ちゃんは、確かに延命治療を拒みました。でもこれは、「早く死にたい」と望んでいることとは違います。誰でもいつかは必ず死ぬのだから、限られた時間を自分らしく暮らす、と決めただけ。その証拠に、母ちゃんは5年前から「やっておきたいこと」をノートに書き出していたそうです。
このことは最初、ノートを見せてもらったという妻から教えてもらいました。「銀座の資生堂パーラーでパフェを食べてみたい」「北海道に行きたい」「マカロン食べたい」「家族みんなで屋形船に乗りたい」……。なにを真っ先にやりたいか妻が尋ねると、「屋形船!」と即答だったとか。
そのことを聞き、母ちゃんに連絡すると、「家族だけじゃなくて、これまでお世話になった人、淳が仕事でお世話になった人、みんなを呼びたい」と言います。19年秋、けっこう大きな船を仕立てて、東京湾での船遊びという夢を叶えてあげることができました。
母ちゃんの最後の希望
年が明けて国内外にコロナウイルスが蔓延すると、実家に思うように帰れない日が続いて。そんなある日、母ちゃんの着物をリメイクしてつくったバッグが、妻のもとに届きました。妻が泣いているので理由を聞くと、「死んだらこれをあげる」と言っていたものらしいのです。
慌てて主治医に電話をして「余命を教えてほしい」と頼むと、「もって1年」と告げられました。まだまだ大丈夫、と思っていたので、さすがに頭が真っ白になりました。母ちゃんは、薄々予感があったのかもしれない。そうであったとしても、これはちゃんと本人に伝えないとダメだ、と考え直したんです。それで緊急事態宣言が明けてすぐの6月、下関に帰りました。
父ちゃん、母ちゃん、弟と4人で、ちょっといい天ぷら屋さんへ。食事が進んだころに、落ち着いて余命の話を切り出しました。がんの転移が進んでいること、もって1年であることを告げると、母ちゃんは「そうかな、と思ってた。でも母ちゃんは余命を超えると思う」と笑いました。家族4人で食事をしたのは、僕が18歳で上京する前の晩以来。そして、これが最後になってしまいました。
がんはほかの臓器や骨にも転移していたため、2週間後に母ちゃんは大腿骨を骨折。入院することになったのです。父ちゃんは毎日病院に行き、僕たち兄弟もできる限り病院に足を運びました。母ちゃんの最後の望みは、8月10日の72歳の誕生日を自宅で祝い、6月に生まれたばかりの僕の次女を抱っこすること。「痛い」「つらい」と言うと退院の許可がおりないので、1ヵ月の間、なんとか痛みに耐えたのだと思います。
誕生日当日、僕は妻と2人の娘を連れて、実家に帰りました。「かわいいねぇ」と次女を抱いていた姿はいまでも忘れられません。
覚悟はしていたけれど、これが母ちゃんとの最後の別れになりました。僕たちが帰ったら病院に戻って、痛み止めのモルヒネを打ってもらう。そうしたらもう意識がなくなる。部屋で2人きりになり、「だから、話ができるのは今日が最後だよ」と言われたんです。
いろいろな話をしたけれど、やっぱり実家をあとにするときが一番つらかったですね。タクシーに乗り込んだものの、妻に促されてもう一度家に戻り、母ちゃんを抱きしめました。病院に戻った母ちゃんが息を引き取ったのは、それから約1週間後のことでした。
鼻がムズムズするから、お棺に花は入れないで
母ちゃんは終活ノートをつくっていて、その死までが周到に準備されていました。延命治療に関する希望はすでにお話ししたとおりですが、「輸血、人工透析、気管切開、胃ろうなど含め、延命のための治療はしないでください。もし私が苦痛を感じているなら、モルヒネなどの痛みをやわらげるケアは、有難くお受けします」という文体が、母ちゃんらしくていいな、と思いましたね。
葬儀は斎場の見積もりをとり、申し込みまでしていたのです。遺影はもちろん、棺はエコ棺、告別式の仕出し弁当のランクは竹……まで決めていたところを見ると、下見をしていたのだと思います。父ちゃんがひとりで葬儀の手配をできっこないこと、家族が葬儀でどれほどバタバタするかもちゃんとわかっていたんですね。
「死後の顔を見られたくない」というのも希望のひとつで、コロナ下に参列を希望してくださる方は多かったのに、12人のみ、と人選もしてありました。
それから、棺に参列者が花を入れて送り出すのが一般的なスタイルですが、「花は足もとだけにして」という希望もありました。理由は、花粉で鼻がムズムズするから、らしいです(笑)。花のかわりに家族写真を入れてほしいと葬儀社に頼んであり、500枚くらいはあったかなあ。思い出の写真をスキャンしてプリントしたものがすべてポチ袋に詰めてあったんです。
写真を見て思い出話をしながら、みんなで棺に入れていく。よくこんなことまでひとりで考えたなあ、と思います。最後に入れるのは天ぷら屋で撮った写真、と父ちゃんに伝えていたそうで、泣きながら写真を棺に入れる父ちゃんを見て、僕も弟も涙が止まりませんでした。
遺影は、結婚式で着られなかったウエディングドレスを50代のときに着て撮った写真。出棺の音楽はベイ・シティ・ローラーズの「サタデー・ナイト」!
これほど葬儀に似合わない曲もないし、一瞬かけ間違いかと思った人もいたかもしれないけど(笑)、すべて母ちゃんの指定だと葬儀社の方から聞かされて、みんなで大笑い。僕以上の芸人魂、というか、見事なエンターテインメントでした。最後まで「他人に迷惑をかけない」「やりたいことをやる」人生を貫いた、母ちゃんらしいエンディングだったと思います。
遺書の形は人それぞれでいい
遺品もね、なにひとつ残っていなかったんですよ。まあ、もともと華美なものに興味が少ない人ではあったけど、数少ない指輪などは早い時期に僕と弟の妻たちに渡していたようなので。がんとわかったときから5年かけて、自然な形で形見分けをしていたんです。
タンスも空っぽ。残っていた下着などは、最後に自宅に帰ってきたあの日に処分した、と父ちゃんから聞かされました。父ちゃんがやったのは、たぶん銀行口座の凍結解除の手続きと、携帯電話の解約くらいじゃないでしょうか。
それから「誰もお参りできないお墓なら、なくていい」と、納骨堂も購入していました。お寺の決め手は、「あの住職の声でお経をあげてほしい」だそうです(笑)。父ちゃんが亡くなったら、2人の骨を一緒にして散骨して、という希望も事前に伝えられていました。
亡くなって1年が経ちますが、不思議なことに、生きているときより亡くなってからのほうが母ちゃんを思い出す時間が増えました。お骨は分骨して自宅に置き、「今日はこんな仕事をしたよ」「最近、こんなことをはじめたよ」と、毎日のように会話をしているんです。
僕はいま、芸人の傍ら「遺書を動画で残す」サービスをプロデュースする仕事をしています。遺書とは、財産分与のあれこれといった法的根拠を伴う遺言書と違って、いわゆる家族に残すメッセージのようなもの、と考えてください。
遺書を一度でも書いてみたことがある方ならわかると思いますが、いざ書こうと思うと難しい。死を考えることは、自分にとって生きることとはなにか、大切にしてきたことはなにか、どんな人生を歩んできたか、に向き合う作業でもあるからです。
それに人の気持ちは年齢や環境によって変わっていくので、適宜更新することも大事。動画なら双方にとって残しやすく、受け取りやすいのでは、と思ってはじめたのが、「ITAKOTO」というサービスです。
もともと延命治療について20歳から聞かされていたくらいなので、田村家において「死」の話はタブーではありませんでした。運営にあたって、死についてもっと学びを深めたくて大学院にも入りましたが、実体験に勝るものはない、というか、母ちゃんの終活から受けた影響は大きかったですね。
なにしろ、母ちゃんに「ITAKOTO」の話をしたら快く動画を送ってくれたんですが、なんとフラフープを永遠に回し続けている動画でした(笑)。本当に遺書の形なんて人それぞれでいいんだな、と教えられた思いです。
誰だって、あの世に旅立つときの心残りはできるだけ少ないほうがいい。母ちゃんの見事な最期を胸に刻んで、僕も自分自身の人生を悔いのないように生きていきたいと思っています。