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「"家で死にたい"という母の願いをかなえられた」2カ月の介護を振り返って次男が涙するワケ

2021-11-27 15:30:00 | 日記

プレジデントオンライン様のホームページより下記の記事をお借りして紹介します。(コピー)です。

現在、日本では8割の人が病院で最期を迎える。「家で死ぬ」とは一体どんなものなのか。柿谷厚子さん(享年70)は抗がん剤治療が効かなくなった時、家で過ごすことを希望し、2カ月後に家族に見守られながら自宅で亡くなった。厚子さんの死を家族はどう受け入れたのか。また、本人は自宅に戻れても、同居できない家族はどうすればいいのか――。
「悲しいのではなく、もう話せないことが寂しい」
2016年10月2日午前1時すぎ、がんを患っていた柿谷厚子さんは自宅で亡くなった。穏やかな死に顔だった。
亡くなってすぐ、次男の徹治さんが訪問看護師の小畑雅子さんに電話で知らせると、小畑さんは30分程度で柿谷家まで駆けつけてくれた。
訪問看護は24時間態勢であるのが通常で、看取り以外でも深夜に“呼び出し”がかかることが少なくない。きつくないのだろうか。
「もちろんきついこともあります」と、小畑さん。
「でも、お看取りの場合は患者さんの様子をみながら、だいたい今日あたりかなと察知しているので、体も心もスタンバイOKで。車に乗って走り出すと、仕事スイッチがオンになっています。ご遺体と直面した時? 寂しいです。悲しいのではなく、もう話せないことが寂しいですね。ご家族ほどではないですが、病になってからの時間を共有していますから。それが思い出されて涙がこぼれます」
体はやせ細っていたが、「床ずれ」は皆無だった
小畑さんは厚子さんの体をきれいに拭き、事前に本人と決めていた着物をきせていく。徹治さんも手伝うと、母親のやせ細った体が目に入った。
「母親といえども女性ですから、裸になるようなことは兄嫁に任せていたんですね。ですから亡くなって母の裸を見て、こんなに痩せていたんだと改めて悲しくなりました」(徹治さん)
その時、小畑さんは、厚子さんの体に褥瘡が一つもできていないことに気づいた。褥瘡とは、寝たきりなどによって体重で圧迫されている場所の血流が滞り、皮膚の一部が赤味をおびたり、ただれたりすることで、「床ずれ」ともいわれる。小畑さんは徹治さんに向かってこう言った。
「2カ月間寝たきりだったのに、褥瘡がない。これはご家族がしっかりケアしたという結果ですよ」
家族は日常的な世話をし、精神的なサポートはできる。でも治療はできず、具体的に何かをしてあげられているわけではない、という思いがあった徹治さんは、この一言で“救われた気持ち”になったそうだ。
「家で看取れてよかった。父親がいて、休職した僕がいて、兄夫婦も子供もよそに家がありましたが、亡くなる直前は実家に寝泊まりして……母は寂しくなかったと思うんです」
「見なくていいものまで見える」というつらさがある
夫の嘉規さんも「女房は『満足した』と言っていましたよ」と明かす。
「僕の母親、女房にとっての義母の7回忌ができた、それに孫の入学式も見られた。息子二人と嫁にも介護してもらって、幸せやったと思います」
葬式で号泣した徹治さんだが、6年経った今も当時を思い出すと涙が出るという。この取材にも時折声を詰まらせながら、言葉を選んで話してくれた。
「振り返ると、母が死に向かうのを受け入れられない自分がいつもいました。信じられない、信じたくない。でも在宅では四六時中、見ているので弱っていく姿が見える。見なくていいものまで見えてしまうというつらさがありました」
2カ月という“短期間”だからこそ、疲弊せずにできた面もあったかもしれない。
「母が在宅を希望し、それをやりきった感はあります。また家族だけではこうはいかなかったと思います。訪問看護師の小畑さんの存在は母だけでなく、家族にとっても重要でした」
「母が生きていたら喜んでくれただろうなって思う」
余談だが、徹治さんは母親の死後、看護師の小畑さんが引き合わせてくれた女性と2018年、結婚した。現在は実家を出て、二人で結婚生活を送る。
「私が訪問看護に通う時に厚子さんに『心残りはありますか?』とたずねると、『てっちゃん(徹治さん)の結婚』と言っていて。知り合いの医療事務をしていた方を紹介しました。そうしたらその方は、偶然にも徹治さんの同級生で。厚子さんもご存じの人だったみたいで、私が紹介すると言った時、厚子さんは目を輝かせてニコニコだったんです」(小畑さん)
柿谷徹治さん夫妻。厚子さんのことを振り返ると自然に笑顔となる。
「だから母が生きていたら喜んでくれただろうなって思う」と、徹治さんは言う。その顔に悲しみはあるが後悔や寂しさはなさそうだ。
柿谷さんの新居にあるコンパクトな仏壇。(筆者撮影)
実は、柿谷家には厚子さんが亡くなった翌年にも取材したが、この記事を書くにあたって4年ぶりに話をうかがった。最初の取材では厚子さんが亡くなったご実家を訪ねたのだが、まだ一周忌を迎えておらず、家全体が重苦しい雰囲気に包まれていたと思う。4年後の今は、結婚後の新居にお邪魔した。「こんなコンパクトな母の仏壇を買ったんですよ」と私に見せてくれた。遺影を見つめる徹治さんの表情は柔らかい。
柿谷家の在宅看取りは、本人の希望で病院から自宅へスムーズに移り、心ある訪問看護師と出会って、安らかな最期を迎えられた成功例だと思う。
誰もがこんなに良いサポート者に出会えるわけでもなく、また看護する時間とパワーのない家族もいるだろう。それでも母親が大好きで、最期は涙が止まらなかった徹治さんの今の笑顔を見るたび、家で死ぬのも悪くない、と思えるのだった。
「もう一週間ももたないと思うから」と緊急入院
終末期を病院で過ごそうとしたのに追い出され、サポート者に恵まれず、“通い”で母親を家で看取った人もいる。
都内在住の小平知賀子さんの母、鈴子さん(享年84)は2016年10月に白血病を患っていることが発覚した。
鈴子さんの白血病が判明しての緊急入院。このときは医師から「帰宅できない」と言われた。
「手がしびれるというか、母は自分で『脳梗塞』を疑い、かかりつけの病院に行ったんですね。そこから近所の大きな病院にまわされて一週間入院しました。退院後、脳梗塞というより脊髄に問題がありそうだとなり、今度は大学病院の受診を勧められたのです。
そして11月の初めに白血病と診断され、医師から『もう一週間ももたないと思うから』と、緊急入院。この時、家族はもしかするともう自宅に戻れないかも、と思いました」
2週間の入院を経ると、いったん容体が落ち着いたため、退院が可能になった。だが、その直後から下痢がひどくなり、12月中旬に再入院になってしまう。
担当医からは「早く退院して家で看取ってほしい」
「再入院の際、抗がん剤の副作用を母が訴えていたこともあり、担当医から『早く退院して家で看取ってほしい』というニュアンスのことを言われたんです」
知賀子さんは担当医に詰め寄った。
「体制が整っていません。いきなりそんなことを言われて、家で看取れると思いますか」
医師は黙って顔を背けた。
その後、表立って「退院」を求められることはなかったものの、病院側と意思疎通がとれなくなったという。退院を求めた医師はあとから病院の副院長であることがわかり、知賀子さんが病院に行った際に挨拶をしても無視されてしまった。
「私が病室をたずねると、完全看護なのに母の分の料理だけ出されていないことがありました。指摘すると、『あら一つ残っていておかしいと思ったのよ~』という具合で。母は耳は遠かったですがボケているわけではない。次第に『この病院はいやだ』と言うようになりました」(知賀子さん、以下同)
病院選びや病名告知については、長男に主導権
母には白血病とは言わず「血液の病気」とだけ告げていた。“余命わずか”であることも知らせない。
知賀子さんの弟の強い希望だったという。
母(鈴子さん)には、長女、そして次女の知賀子さん、弟(長男)の3人の子供がいる。夫はおよそ30年前に心疾患で亡くなっている。
「朝食の時間になっても起きてこなかったので、母が様子を見にいくと、父が亡くなっていたのです。突然死ですね。私はすでに実家を出て一人暮らしをしていたのですが、母から『すぐ戻ってきて。お父さんが息していない』と電話がかかってきました」
夫の生前、実家は二世帯住宅に建て替えられ、やがてそこに長男夫婦が住むようになる。1階が母、2階が長男夫婦の住まいとして、この20年間は暮らしてきた。
そのため、母の病院選びや病名告知については、長男が主導権を握っていた。その長男が「(母に)病名を伝えない」と言ったら、知賀子さんは黙って従うしかない。
問題は「訪問医探し」と「看護の割り振り」
片親がすでに亡くなっていて、もう片方の親の看取りをする時、子供が複数人いると、誰が物事の決定権をもつのかが難しい。
「年末年始は家で過ごしたい」という母の希望もあり、2016年12月下旬に退院した。無事年越しはできたものの、年明けにインフルエンザを発症して緊急入院。しばらくして退院するものの、今度はふとしたきっかけから鼻血が止まらなくなった。病院を受診させようとすると、母は「あの病院はいやだ」と言い、病院側も「来るな」という態度。しかし症状が進んだ白血病の患者を診てくれる病院がほかにない。
「もう家で診るしかないだろう」
2017年1月末、長男がそう決断したため、次女の知賀子さんも、長女もそれに従った。
問題は「訪問医探し」と「看護の割り振り」だった。
その頃、長男の同級生の身内が、実家から近くの場所で訪問医をしていることを知ったという。「白血病患者でもOKか?」と問い合わせると訪問医から了承を得られたため、何度か入院していた病院からの引き継ぎをお願いする。
「記憶が飛んでいる」というほど大変な日々
母(鈴子さん)のお葬式。祭壇は母が好きだった紫色の花で飾った。
続いて看護の分担は、3人でシフトを組んだ。仕事が多忙な長男夫婦は週末、自営業の知賀子さんが週3~4日、パート勤務や子供の世話がある長女が残りの担当。しかし知賀子さんは、母の不安を感じとったことと、また長男嫁の負担を軽減したいという思いから、シフト以外の日もしばしば母のもとを訪れたという。
そのため、ここから3月10日に母が亡くなるまでのおよそ1か月半、知賀子さんは「記憶が飛んでいる」というほど大変な日々だった。
「24時間いつでもお電話ください、いつでも来ます」と言っていた訪問医が夜間に来ることは一度もなく、訪問医と一緒にやってきた看護師も医師のそばに立って見ているだけ。母もそれをひどく嫌がる。
「別に契約をしていた訪問看護師の方が一番寄り添ってくれた」と知賀子さんは言う。
緩和ケアを家族に丸投げされ、母も苦しんでいた
長男や長女の看護に対する考えに違いがあり、身内の気持ちがうまく一つにまとまらない。加えて母本人に病名、病状は知らされない。もちろん本人も嫌がる病院に戻ることはできないし、いつ亡くなるかわからない白血病患者を受け入れてくれる病院もない。
「訪問医と看護師の言うことも違っていたりして、もう誰を信じていいのかもわかりませんでした。緩和ケアを家族に丸投げされ、母は苦しんで、体も心も変わっていく。何もできない自分が情けなく、途方にくれる日々でした」
手探りの中で、知賀子さんはこれまで育ててくれた母に対する「恩返し」のつもりで、母の“在宅ケア“をがんばった。最後の1カ月は驚くほど母とふれあったという——。

笹井 恵里子(ささい・えりこ)
ジャーナリスト
1978年生まれ。「サンデー毎日」記者を経て、2018年よりフリーランスに。


玉袋筋太郎「親父を死に追いやった姉夫婦を、今も許せないまま」

2021-11-27 13:30:00 | 日記

婦人公論.jp様のホームページより下記の記事をお借りして紹介します。(コピー)です。

昨年出した著書で、玉袋筋太郎さんは父が自殺していたことをはじめて明かした。当時、自身は35歳。その死を受け止めるには若く、また、人に語ることでもないと胸にしまってきたのだ。なぜ父を突然失わなければならなかったのか。そして、その後芽生えた家族観とは。(構成=福永妙子 撮影=川上尚見)
メモに「ごめん」とだけ書き残して
オレには3歳上の姉がいるけど、この17年間、まったく会っていません。オレから絶縁を言い渡して以来、今どこで何をしているのか、生きているか死んでいるかも知らない。

うちの実家は雀荘をやったりスナックをやったりしていたので、両親は共働き。いつも一緒に留守番をしているような姉弟だった。親父やお袋といるより、姉と過ごす時間のほうがずっと長かったし、たくさん遊んで、世話もしてもらって、仲よかったんだよ、あの頃は……。

それなのに、姉と縁を切ろうと決めたきっかけは親父の自殺です。遊園地の観覧車に子どものオレだけ乗っけて、自分は下から見ている――。そんな高所恐怖症の親父が、65歳の時、ビルの6階から飛び降りちゃった。きったねぇメモに「ごめん」とだけ書き残してね。

親父は体調を崩し、メンタルも弱って入院していた。元気づけたくて、オレ言ったんだよ。「今まで大変だったけど、お楽しみはこれからだよ、お父さん」って。芸人の仕事が順調になってきて、商売しながらオレを育ててくれた両親にようやく恩返しできると思ったから。

その2日後に自ら命を絶つなんて、考えもしなかった。「ごめん」のメモ以外に遺書はなかったけど、親父を苦しめ、自殺の原因をつくったのは姉とそのダンナだとオレは確信しています。

姉は子どもの頃から太っていることがコンプレックスで、学校でいじめにもあってた。そのうえ、精神的に不安定になると自傷行為をして親を慌てさせることがたびたびだった。自分の存在をアピールする方法を、ほかに思いつかなかったんだろうな。

だけどさ、両親にとってはかわいくてしょうがないわけよ。何かあったら娘を助けたいし、守りたい。ともかく親父たちは、姉が問題を起こしても無条件にすべてを受け入れ、面倒を見ちゃう。そうした関係がずーっと続いてきたわけです。

オレは高校卒業後、師匠である北野武に弟子入りして家を出ていたから、両親と姉の関係を客観的に見ていました。そして、たまたま読んでいた本に出てきた「共依存」という言葉に、「これだ!」と思った。両親と姉は、このまま共依存の袋小路に入っていくんだな、と不安を抱いたことを覚えている。
結婚して姉は落ち着くかと思いきや、そのダンナというのがロクでもない奴だった。仕事は不安定で常にその日暮らし。金がないから、平気でカードでキャッシングする。切羽詰まった事情で金が必要ならともかく、使い途はすべて遊興費よ。キャバクラなんかに通って、女につぎこんでんだから。そのたびに姉は自傷行為をして、娘かわいさから親父が借金を肩代わりするわけです。

 切なる思いは伝わらなかった
オレの実家は西新宿一丁目にあって、じいさんが建てた赤江ビルに、オレたち一家や親父の姉弟たちが住んでいました。じいさんの死後、親父はその土地を手放したんだけど、もう商売はやめていたから、土地を売った金が老後の頼りだった。

姉夫婦はしたたかなもので、孫をチラつかせて親父に泣きつく。親父にすれば娘が不憫だし、孫もかわいい。それで結局、言いなりになる。新宿の土地を売ったあと、両親は茨城で暮らしていたんだけど、何を思ったか、姉一家を呼び寄せちゃってさ。自分が住むマンションの別の部屋を買い与えたんだから、甘いにもほどがあるよね。オレはずっと自活してるのに。

そんなある日、親父が「Y子が金で大変な思いをしてるから、助けてやってくれ」とオレに言ってきた。親父もひとりでは借金を抱えきれなくなったんだろうね。さすがにオレも厳しい判断を迫られて、最後はわが家の山の神に相談しましたよ。

でも、それまでの事情を知っているカミさんは、「共倒れになっちゃうよ」と言った。本当にその通りだと思った。姉夫婦のところでメラメラ燃えている炎が引火すれば、オレんちまで丸焼けになる。それに、ここで助け船を出せば、向こうはますます自活する努力をしなくなるだろう。

オレは親父に手紙を書きました。あの状況で視野が狭くなってしまっている親父に何を言っても、聞く耳なんて持たない。ここは冷静に、文章にしたほうがわかってもらえると思った。

それで、「今回の件は協力できません。お父さんもいい加減、あちらと距離をとってください」といった内容を、丁寧な言葉で一生懸命書いた。親だし傷つけたくないから、ズケズケじゃなく。でも、姉夫婦にいかに問題があるか気づいてもらえるようなヒントを何ヵ所も盛り込んだ。珍しく、何度も推敲してさ。

ところが、手紙を読んだ親父の返答は、「お前はお姉ちゃんを殺すのか!」だった。もう、ありゃりゃですよ。オレの切なる思いはまったく伝わらなかったってわけ。ここまで洗脳されているならもはやオレには説得できない、と諦めて手を引いた。
そうして1年半が経って、親父は死んだ。あの時のオレの判断は正しかったのか今も考える。もしオレがヒーローで、いくらでも借金を肩代わりできてたら親父は死を選ばなかったんじゃないか、とも思う。

でも、あの当時は自分の家族だけで精一杯だった。それに一時、姉に金を貸したとしても、あの泥沼状態はエンドレスで続いただろう、と思うよね。

葬儀のあと、親父の部屋を片づけていたら、金の出し入れを書いたメモがたくさん出てきた。親父は若い頃、証券会社に勤めていたこともあって、帳簿をかなりマメにつけるタイプだった。見て驚いたよ。姉夫婦が親父に借金の尻拭いをさせていたのは知っていたけれど、それはもう信じられない額だった。

姉のダンナがカードで限度額いっぱいまでキャッシングする。親父がそれを返済する。繰り返し返済すれば、借りられる限度額はどんどん上がる。そしてまた借りて……。そんなふうにして姉のダンナが焦げつかせた多額の借金を、親父が全部返し続けていたんです。

今度はお袋に取り入り出した
両親が茨城で老後を何十年も過ごせるだけのお金は十分にあったはずなのに、貸借対照表の最後を見ると蓄えはすっかり底をつき、それどころかマイナス120万円になっていた。親父はこれを気に病んで、衝動的に飛び降りたのではないか……。

なのにさ、張本人たちはとぼけてんだよ。「お父さん、なんで……」って泣いて悲しんじゃってる。オレは姉のダンナを呼んで、帳簿を突きつけた。「これを見ろ! おまえが親父を殺したんだ!」って。相手は土下座をしたけれど、まあ、それだけよ。そんなダンナから姉は離れられない。つまり、こっちはこっちで夫婦で共依存っていうわけさ。

相談に乗ってくれたのは、母の弟にあたる叔父さんだった。ガンで闘病中の身にもかかわらず、「盗人に追い銭じゃないけど、あいつらはもういい。俺たちで処理しよう」と、120万円の清算を一緒にしてくれた。それを機に、オレは姉ときっぱり縁を切ることにしました。宣言もした。死を選ぶまで親父を追い詰めた姉たちを、断固として許せなかったから。

 

ところがさ、今度はお袋に取り入り出したんだよ。その頃、お袋は以前に買っていた新宿のマンションでひとり暮らしをしていた。そこに姉夫婦が金の無心に来る。孫の教育費だとか、アトピーになったとか言われると、親父の生命保険を出しちゃうんだよね。「一緒に住もう」とも言ったらしいけど、それはお袋のことを思ってじゃない、金ヅルだもん。

「金を出すことは、お姉ちゃんのためにならない」といくら言っても、洗脳されているから怪訝な顔をしているわけよ。「お母さん、頼む。このままじゃ、親父と同じことになる。つらいと思うが、向こうを切ってくれ」と土下座して、涙ながらに訴え続ける息子を見て、少しずつわかってくれたようだった。

オレは40歳にしてようやく自分の家を買えたので、お袋を引き取った。姉たちには「お袋に絶対に近づくな」と伝えたし、新居の住所も連絡先も一切教えなかった。さながらカルト教団からの救出劇ですよ。


あれから10年以上が経ってお袋に認知症の症状が出てきたので、昨年から施設に預かってもらうことにした。お袋は気持ちのさっぱりした人で、オレたちと一緒に暮らし始める時に「お姉ちゃんのことは忘れた」と言ってくれたけど、本当は心の中で無理していたかもしれないよな。

だけど今は、自分のお腹を痛めて産んだ娘のことも、孫のこともすっかり忘れている。もともとの性格と、認知症によるボケがミックスされたのか、よく笑うんだ。その笑顔にオレはすごく救われてるね。もう、娘のことを無理して忘れようとしなくていい。つらい現実と向き合わなくていい。そう考えれば、認知症もまんざら悪くないのかもしれない。

 

絶縁しても、思い出は消せない
「きょうだいは他人の始まり」と、先人はよく言ったものだよね。実はその昔も、オレは身内がバラバラになるのを経験しています。うちは親父が長男で、ほかに姉と弟がいた。じいさんが建てたビルで叔父さんや伯母さんの家族と一緒に、何不自由なく暮らしてたんですよ。両親も親戚も商売をやっていてみんなで飯を食ったり、大人たちは酒を飲んだり。

ところが、じいさんが死ぬと状況が変わった。ビルは新宿の一等地にあって、相続は揉めに揉めた。結果、一家離散ですよ。親父はそれで傷ついて、住み慣れた新宿を離れた。理想の家族なんていっても、いつ壊れるかわからないと、この時学んだ。

だからさ、ほんと家族って何だろうと思うよ。オレには、今年27歳になる息子がいるけど、彼とは血はつながっていない。25歳で所帯をもった時の、カミさんの連れ子だから。

だけど縁あってオレのところに来てくれて、こんなダメな父親なのに息子は横道に逸れることなく、まっすぐに育ってくれました。オレは、自分があいつに育ててもらったと思っているしね。その息子も結婚して、オレには息子夫婦という新たな家族が増えたわけです。

血のつながりがあるのに切り捨てた家族があり、一方には、血はつながらないけど愛おしみながら築き上げてきた家族がある。血縁なんかどうでもいい。そう思いながら、姉夫婦の借金を一緒に肩代わりしてくれた叔父さんがつぶやいた言葉が忘れられないんだよ。

「でもなぁ。お前は最後は血がつながっているんだからな」

その言葉は矢尻のように、ざっくりオレの胸に刺さった。今も刺さったまま、オレはこの先も生きていくんだろうと思う。
姉のこと、本当に許せなかった。だけどさ、ちっちゃい頃、一緒に風呂に入ったことだとか、そんなのを思い出してポロリと涙してしまう自分もいる。絶縁しても、思い出は消せないんだ。あっちにいる甥っ子や姪っ子だって、オレにとってはかわいいんだよ。そのことまでは否定できないのさ。

まさか自分が、家族の恥ずかしいエピソードを売ってメシを食うことになるなんて思ってなかったよ。第一、こんなふざけた芸人やってて親父が自殺したとか、やっぱりキツかった。

でも、ずっと隠しておきたかった“ワケあり話”を話す気になったのは、現在の身の回りのことやらでモヤモヤしているものを抱えているからだろう。オレにとってこの仕事は疑似家族みたいなものだったから。30年も一緒に過ごしてきたけど、師匠が会社を去り、オレのもう一つの家族も崩壊したってわけさ。


そんな身辺のゴタゴタに加え、プライベートでは親父や姉に対する整理のつかない思いがいまだにくすぶっている。心にいくつも荷物を抱えていることが、だんだんキツくなってきた。だからガス抜きじゃないけど、こうして話すことでちょっと身軽になりたかったのかもしれない。

西新宿で、みんな仲よく暮らしていた頃を、懐かしく思う。オレの黄金時代ですよ。今は跡形もなく消え、焼け野原が残っているだけ。それはそれでしょうがない。大事なのはそこからどう復興して、街をつくっていくか。それは、新しい家族というインフラをしっかり整備することだと思う。カミさんや息子のことをちゃんとケアしてさ。

オレは昭和の雰囲気が残るスナックが大好きなんだけど、スナックっていいもんだよ。隣り合った80代のおじさんと話してると、親父から聞けなかった話を聞いたような気持ちになる。姉くらいの年回りのおばちゃんと飲めば、「今頃、こんなふうになってるのかな」……って、感傷的になってるオレ、まだ青いね。(笑)

構成: 福永妙子
撮影: 川上尚見
出典=『婦人公論』2019年6月25日号
玉袋筋太郎
芸人
1967年東京都生まれ。ビートたけしに弟子入りし、お笑いコンビ「浅草キッド」を結成。芸能活動のかたわら、一般社団法人「全日本スナック連盟」の会長を務め、自身の店「スナック玉ちゃん」も経営している。


相次ぐ電車内の無差別殺傷事件…AIでの「犯罪予測システム」を使って危険を回避

2021-11-27 12:00:00 | 日記

日刊ゲンダイデジタル様のホームページより下記の記事をお借りして紹介します。(コピー)です。

小田急線や京王線で起きた乗客刺傷事件を受け、JRや私鉄各社は最新技術を活用した車内犯罪防止の対策を進めている。具体的にはAI(人工知能)が不審者を特定し、警備員などに知らせて犯罪を未然に防ぐというものだ。AIは犯罪予備軍をどのようにして特定しているのか。周囲を警戒する個人の参考にもなる。
  ◇  ◇  ◇
 放火につながる不審行動もAIが監視する。AI搭載カメラ開発の「アースアイズ」が、その前段階として公共の場や人のいない場所で発生する火災を発見し、通知するシステムを発表した。

「2年前に起きた沖縄の首里城火災のように、火災は初期段階で発見しなければ被害を防ぐことは難しいといえます。そこでまず火の大きさや方向、煙などから火災を初期段階から発見できるシステムを開発し、いずれは万引を発見する技術を応用して放火につながる不審行動を検出するAIカメラも開発する予定です」(アースアイズの広報担当者)

 同社のAIが市販の防犯カメラや遠隔操作のPTZカメラの映像を見て火災の有無を判断。早期消火に役立てるというもの。いずれ放火魔のような不審者の特定も可能になるという。

■万引き犯に見られる特定の行動パターン

 電車や大型商業施設などで活用されているAI監視カメラも、この万引対策のシステムと基本は同じ。かつての監視カメラは犯罪の証拠を残すことが主な目的だったが、現在は不審者の行動パターンをAIが学習し、監視員などに知らせることで、犯罪を未然に防ぐことに主眼が置かれている。

 例えば、NECのAIシステムは顔認証技術を活用し、監視リストに登録済みの人物が現れたら即座に知らせてくれる方式。監視対象は必ずしも犯罪歴のあるような者ばかりでなく、何度も現場を訪れたり、長時間にわたってうろつくといった不審者も対象だ。

 また、NTTドコモと富士通が共同開発したシステムは、人の行動や動作を数値化。不審な行動を起こす可能性がある人物を検知する。

 さらに海外では映像から人の振動などを分析し、ストレスや恐怖といった人の「精神状態」にまで迫るシステムもある。

「万引を行う不審行動には、『うろうろする』『座り込む』『物を置き去る』といった特定の行動パターンが存在します。当社システムは、3D空間把握技術(特許取得)とAIがそのパターンを処理し、危険事象があれば店員のスマホに通知します。ある化粧品チェーンでは、このシステム導入後に万引によるロスが61%も減ったという実績があります」(前出のアースアイズ広報担当者)

 店員に声をかけられたという人は、不審と見られる行動があったのかもしれない。ただ、うろうろしている客は商品を探していたり、座り込んでいる人は体調不良の可能性もある。スマホで連絡を受けた店員が「どうされました?」と声をかけることでサービスの向上にもつながるという。

「うろつき」「通り抜け」「立ち止まり」は注意
写真はイメージ(C)PIXTA
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 ところで、こうしたAIによる犯罪予測システムは、相次ぐ電車内の無差別殺傷事件の防犯対策にも活用できそう。

 AIが監視している不審な行動パターンをいくつか覚えておけば、自分の手で犯罪から身を守る可能性が高まるという理屈だ。

 電車内などでの要注意人物の行動パターンには、「うろつき」「通り抜け」「立ち止まり」などがある。

 まず、うろつきの把握だが、周囲とあまりに極端に行動が違えば、うろつきより「道迷い」の可能性の方が高まる。うろつきは、一定の割合で周囲を行き来したりすること。「あれ? この人、さっきも見たよな」という感覚があれば、注意しておきたい。

 通り抜けは、犯行の下見などで使われる。犯人は時間帯や場所を入念に決めて行動に移る傾向がある。2年前の「京都アニメーション放火殺人事件」の犯人もそうで、3日前から現場を下見していたことがわかっている。要するに、用もないのに車両と車両を行き来しているような人は要注意だ。

 立ち止まりは、何かを物色している可能性もあるため、長時間ほど要注意となる。

■不審者の外見的な3つの特徴

 さらに、凶悪犯罪を犯すような人間には外見上の特徴もある。無差別で事件を犯すような人物は素手で犯行に及ぶことはあまりない。刃物やオイルなどを持ち運ぶためリュックやバッグを持参している確率が高い。

 また、「マスク」や「帽子」をかぶっているのも犯人の特徴。コロナ禍では見分けが難しいが、車内や屋内でサングラスというのは明らかに違和感がある。さらに、犯人は逃走のためスニーカーや運動靴を履いているケースが高いという。サンダル履きは確かに動きにくい。

 いずれにせよ、AIはこのような「特定の行動パターン」と「特徴的な外見」をしている人を重点的に監視しているということになる。

犯人に背中を見せて逃げてはならない

 一方、法務省の「無差別殺傷事犯に関する研究」によると、無差別殺傷事件の認知件数は週末が終わった後の火曜から木曜にかけてが多かった。犯行時間帯にも特徴があり、最も多いのは夕方18~23時台。これに対して一般殺人は曜日による特徴は少なく(月曜がやや多い)、犯行時間も極端な差はない。これらはAIではなく統計分析(ビッグデータ)になるが、ひとつの参考にはなるだろう。

 他に、ALSOKが「通り魔に遭遇したときの対応」を公表しているので、覚えておいて損はない。それによると、危険を察知したり、目の前で異常が発生したら、とにかくその場から離れること。ただし、犯人に背中を見せて逃げてはならないという。犯人は逃げる人ほど追いかける傾向があり、後ずさりしながら距離をとるのがベスト。山中で「クマに遭遇」した時と対処の仕方は一緒なのだ。

「不審な人を見分けるために日頃から実践したいことは、歩きながらスマホを操作したり、電車で寝てしまったり、イヤホンで耳をふさぐといった行動を慎むこと。京王線刺傷事件でも逃げ遅れてしまっているような人も見かけました」(ジャーナリスト・中森勇人氏)

 縁もゆかりもない人を襲う無差別通り魔が起こるたびに、「鉄道にも手荷物検査を設けるべき」「車内巡回の警察官を配置すべき」といった声が高まるが、かかる人員や満員状態での巡回は物理的にも難しい。

 AIに見張られているのは不気味だが、結局のところ、そのAIをうまく真似してわが身を守るしかない。


紀子さま「佳子の結婚相手は慎重に」小室圭さん騒動で方針転換、お手本にする先輩皇族

2021-11-27 11:00:00 | 日記

週間女性プライム様のホームページより下記の記事をお借りして紹介します。(コピー)です。

11月18日、小室圭さんの代理人弁護士から、圭さんの母親・佳代さんの元婚約者の銀行口座に、金銭トラブルとされていた金額が一括で振り込まれたことが確認された。その額は409万3000円。

 小室家における最大の懸念点が解消され、小室夫妻は胸を張りながらNYでの新婚生活を迎えたのだが、秋篠宮家を支える皇嗣妃は複雑なお気持ちで……。

結婚相手を徹底的に調べ上げる
「紆余曲折あった眞子さんと圭さんがNYで新生活を始めたことで、日本のメディアも2人の近況を報じづらくなり、結婚に批判的だった国民もトーンダウンしている印象です。一方、この結婚騒動で皇室全体に問題が飛び火してしまったことに関して、最も責任を感じておられるのが紀子さまだといいます。

 眞子さんがNYで圭さんと暮らすと決めたころ、紀子さまは宮邸の中の一室に閉じここもり、涙されたこともあったそうです。圭さんとの結婚を認めるのも、苦渋のご判断だったことでしょう」(秋篠宮家関係者)
 
 しかし、眞子さんの結婚騒動が落ち着いてきたのも束の間、すぐに次の懸念事項が紀子さまの頭を悩ませているという。

「次女の佳子さまのご結婚問題は、目下取り組まねばならない非常に大切な問題です。来月27歳になられる佳子さまは、いつ結婚されてもおかしくありません。以前から何度か恋人の存在が報じられており、“眞子さまの結婚待ち”とも言われていました。ただ、紀子さまとしては、佳子さまの結婚相手をかなり慎重に見定められていくと思いますよ」(皇室ジャーナリスト)

 小室圭さんのケースが念頭にあることは間違いない。

「秋篠宮ご夫妻が『学習院大学』のキャンパスで出会い、自由恋愛を経て結婚されたこともあり、“自分で結婚相手を見つける”という風潮が以前の秋篠宮家にはありました。実際、秋篠宮さまは“娘が選んだ相手なのだから”と当時、圭さんの身辺調査を行わなかったと聞いています。

 だからこそ、眞子さんは同じ大学で圭さんと交際して婚約内定まで話が進みましたが、一般の結納にあたる『納采の儀』を前にして小室家の金銭トラブルが発覚。その後も、佳代さんが夫の遺族年金と勤務先の洋菓子店を休職していた時期に得ていた傷病手当の不正受給の疑惑も報じられ、国民からの不信感が強まりました。

 紀子さまは“国民から非難されるような相手ではいけない”ことが大切とのお考えです。佳子さまの結婚相手の家柄はもちろんのこと、過去や現在にわたって問題を抱えていないかなどを徹底的に調べ上げ、候補の相手と何度も面会して人柄を把握し、周囲の意見も考慮しながら慎重に選ばれると思います」(同・前)
皇位継承権を持つ皇族が2人もいらっしゃる秋篠宮家において、これ以上非難されるようなことは避けたい紀子さま。佳子さまの結婚相手に苦慮されている一方で「お手本になる皇族がいらっしゃる」と、ある宮内庁OBが語る。

3姉妹での話し合い
「高円宮家の久子さまです。'02年に夫の高円宮さまが急逝されてからは25以上の総裁職を務めながら、3人の姉妹を育ててこられました。かねてから“娘を無事にお嫁に出したい”と周囲に語っていたそうで、皇族として、そして1人の親としてという2つの重い責任を背負われてきたのです。

 結果、次女の典子さんは皇室とも縁のある『出雲大社』の宮司を代々務める家系の長男である千家国麿さんと結婚。三女の絢子さんは、通産省(当時)の元職員だった父親を持つ日本郵船に勤務する守谷慧さんと結婚しました。彼は'15年に亡くなった母親が専務理事を務めていた『国境なき子どもたち』というNPO法人で、日本郵船に勤務しながらも理事職も引き継いでいます」(同・宮内庁OB)

高円宮家の久子さまと承子さま
【写真多数】佳子さま、イギリス留学での1コマやダンス発表会での弾けるお姿など
 高円宮家の3姉妹がそれぞれ成年されてから、久子さまは娘たちのために奔走されたという。

「宮邸で催すパーティーなどに3人のお子さま方を積極的に参加させ、いわば“お見合い”の機会を増やしていたそうです。こういった会には、天皇家の遠戚にあたる旧華族や、代々政治家を輩出している名家の子どもを招いたり、その後も、自然と子どもたち同士で会う機会を設けられていました。

 長女の承子さまも含めた3人のお子さま方は久子さまのご意向も感じとられており、姉妹同士で“結婚相手をどう見極めるか”と話し合われたこともあったようです。その中では、結婚相手は“家同士できちんとした関係を築けること”も大切なポイントとして挙がっていたそうです」(高円宮家関係者)

 典子さんと絢子さんが結婚相手と出会ったのも、久子さまがきっかけとなった。
迫られる秋篠宮家の方針転換
「以前から千家家と高円宮家の交流はあったのですが、'07年に当時大学生だった典子さんを連れて、出雲大社に参拝した際に、国麿さんと初対面させたのが久子さまでした。その後は典子さんの公務を考慮しつつ、少しずつ結婚の話を進めたそうです。

 守谷さんとは『国境なき子どもたち』設立20周年の祝賀会で初めて会った際に、久子さまがピンときたそう。元々、守谷さんのご両親とも交流のあった久子さまは、守谷さんと守谷さんの父親との懇談中に“その話は娘が詳しいので、次回は娘も呼びますね”と、絢子さんと会うきっかけを作られたのです」(同・前)

千家国麿さんと典子さんの婚約内定の記者会見('14年5月)
【写真多数】佳子さま、イギリス留学での1コマやダンス発表会での弾けるお姿など
 実際、'18年7月に行われた婚約内定会見で絢子さんは、「母の思惑がどうであったのかはわかりませんが」と発言していたことからも、久子さまがおふたりのキューピッドだったのだ。

 高円宮家で唯一、まだ結婚されていない承子さまも一部週刊誌から直撃取材を受けた際に「結婚と恋愛は別」と発言されており、久子さまから教育されてきた結婚観がうかがえる。

守谷慧さんと絢子さんの婚約内定の記者会見('18年7月)
「女性皇族は結婚したら皇室を離れますが、皇室とのつながりが完全に切れるわけではない。だからこそ、皇室を離れる際に元皇族としての品位を保つため、最大で1億数千万円の一時金が支給されるのです。

 眞子さんは一時金を辞退し、結婚関連の儀式や行事もすべて行わずに結婚しましたが、秋篠宮家の一員であることは一生変わりません。ましてや、未来の天皇陛下である悠仁さまの実姉であり、民間人になってからも元皇族として一生特別な目で見られてしまうのは当然です。
 
 次女の佳子さまも同様で、これまで秋篠宮さまが重んじてきた“個人の意思を尊重する”という方針を変えるべきという声も上がっています。次代の天皇家として、国民からバッシングを受ける可能性のある相手と、佳子さまを結婚させるリスクを負うべきではないと思います」(宮内庁関係者)

 秋篠宮ご夫妻の悩みの種は、もうしばらく残りそうだ……。


眞子さん、小室圭さんと「5年ぶりデート」詳細 夫は渡米翌日から出勤

2021-11-27 08:45:41 | 日記

NEWSポストセブン様のホームページより下記の記事をお借りして紹介します。(コピー)です。


眞子さん、小室圭さんと「5年ぶりデート」詳細 夫は渡米翌日から出勤


タイル張りの上を歩く
ニューヨークでデートする眞子さんと小室さん

 11月14日に厳戒態勢の中でアメリカに渡った小室圭さん(30才)と眞子さん(30才)夫妻。迎えた初めての週末、ふたりは新生活を送る街の散策に出かけた──。ニューヨークの朝の風は冷たい。街中でクリスマスの装飾が始まっていた11月中旬の週末、最低気温は10℃近くまで下がり、厳しい冬が間近に迫っていることを予感させた。

 午前11時過ぎ、1組の日本人カップルがダウンタウンを歩いていた。陽の当たる場所からビルの陰に入ると、とたんに冷える。ふたりは身を寄せて風をさける。摩天楼が建ち並ぶ大都会の中で、そんなふたりの存在を気にかけるニューヨーカーはいない。ほんの1週間前、日本のあらゆるメディアを騒がせたカップルだとは、誰も思いもしない。

 ややオーバーサイズの眞子さんのアウターはフランスの人気ブランド『MACOBAR』のもの。ボトムは太めのデニムで裾を大きく折り返している。グレーのフリースを着込んだ小室さんの足元は、映画『スター・ウォーズ』の悪役キャラ「ダース・ベイダー」がプリントされたスリッポンだ。

 日本と異なり、ニューヨークではNOマスクが当たり前。渡米前は周囲をがっちりガードしていた大勢の警護もここにはいない。赤信号では立ち止まり、青になれば歩き出す。その動きにすら、どことなくうれしさが感じられた。ふたりは劇場通りを進む。この通りは、「サークルイン ザスクエア劇場」や「ウインターガーデン劇場」など、ブロードウェイの有名劇場がそろうミュージカルの聖地だ。

 まだ土地勘がつかめていないうえに、高層ビル群を目の当たりにするのも新鮮なのだろう、眞子さんは何度も頭上を見上げていた。いちいち小室さんがそちらを指さし、何かを語りかける。普通に歩けば10分ほどの距離を、ゆっくり40分かけた。そして、雑貨やファストフードのワゴンが並ぶ緑豊かな公園へと消えていった。

 普通のカップルならば、ごく当たり前のデート風景だろう。しかしふたりにとっては、そんな“ごく普通のデート”は5年ぶりだった。2016年10月、『週刊女性』が電車内で寄り添うふたりの様子をスクープ。当時は「小室圭」という名前は取り沙汰されなかったが、交際相手の存在が露見したことで、それまでのように気ままにデートを楽しむことはできなくなった。この日、時折、日本では見せたことのないような満面の笑みを見せた。
渡米翌日からすぐ出勤
 ニューヨーク到着後、忙しなく動いた小室さん。長距離移動の疲れを癒す暇もなく、渡米翌日の15日には、勤務先の法律事務所へと出勤した。眞子さんとの結婚のために帰国し、1か月半ほど職場を離れていた小室さん。新入社員がこれほど長期にわたってプライベートを理由に休暇は取れるはずはなく、勤務先からは一刻も早く仕事に戻るようにと催促されていたという。

 翌16日、ダークスーツにブルーのシャツを合わせたメガネ姿の小室さんは、夜8時過ぎに職場から歩いて1ブロックの場所にあるパブに入った。店では先に到着していた同僚らが、小室さんを笑顔と歓声で迎えた。乾杯を終えると、周囲からはやし立てられた小室さんがスピーチに立った。

「メンバーにいろいろと質問されていたよ。彼(小室さん)が何か答えるたびに、周りから『イエス!』といった声が飛んでね。彼も応えるように『イエーイ!』と返していたね」(居合わせた客)

 しかしわずか20分ほどでこの夜はお開きになった。ニューヨークの法律事務所には、さまざまな案件が舞い込む。法務助手の小室さんも寸暇を惜しんで働かなくてはならない。今年7月のニューヨーク州の司法試験では、小室さんは不合格だった。弁護士になるためには、来年2月の試験に再挑戦し合格しなくてはならない。激務をこなしながらの試験勉強はハードルが高く、合格率が下がる傾向にある。生半可な努力では合格はできないが、眞子さんのサポートが大きな力となるはずだ。