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申し出なければ病院はやってくれない」死の間際の苦痛と無縁になる"緩和ケア"という選択肢

2021-11-11 15:30:00 | 日記

下記の記事はプレジデントオンラインからの借用(コピー)です。

医者は病気を治すのが仕事だ。それでは末期がんなど、治せない病気のときには仕事がないのだろうか。緩和医療医の大津秀一さんは「医療は『治す』だけではない。病気は治せなくても、苦痛を和らげることはできる。そうした『緩和ケア』の専門医はまだ少なく、知名度も十分ではない。緩和ケアという選択肢をより多くの人に知ってほしい」という――。
※本稿は、大津秀一『幸せに死ぬために 人生を豊かにする「早期緩和ケア」』(講談社現代新書)の一部を再編集したものです。
「緩和ケア」の歴史はまだ50年ほど
「緩和ケア」という言葉は一般的にはまだなじみがないかもしれません。医療というと「病気を治すもの」と誰もがイメージしているかと思います。しかし現代の医療は、完治しない慢性病や、そもそも完全に以前の状態に戻すことは難しい老いの問題と向き合っています。その過程で、「治す」とはまた別のもう一つの重要な考え方である「苦痛を和らげ、心身をより良く保ち、元気に生活できる」ことを支える医療が育ってきたとも言えましょう。それが緩和ケアなのです。
歴史をさかのぼると、まず1950年代に、亡くなってゆく方が人らしく過ごせるようにするための「ターミナルケア」が米・英で生まれました。1960年代に入ると全人的な、つまり身体だけではなく精神的・社会的な側面も重んじるホスピスケアに発展していきます。
近代ホスピスの代表的施設であるセントクリストファー・ホスピスが設立され、1969年にはエリザベス・キューブラー・ロスが、それまではあまり注目されていなかった「亡くなってゆく人の心理」に焦点を当てた著書『死ぬ瞬間』を発表し、話題となりました。今から50年以上前の出来事となります。
その後、苦痛を和らげる分野として発展し、薬物療法なども進化しました。1970年代になると積極的に薬などを用いて症状緩和を行う「緩和ケア」がカナダで提唱されました。つまり近代の緩和ケアはかれこれ50年ほど前に生まれたということになります。
2012年から「早期からの緩和ケア」が国の施策に
日本においても、1970年代から淀川キリスト教病院で末期がんの患者さんへのチームアプローチが開始され、1981年には聖隷三方原病院に日本初のホスピスが開設されています。1990年に診療報酬として緩和ケア病棟入院料が新設され、ホスピス・緩和ケア病棟が日本に少しずつ増えることにつながりました。
このように主として終末期がんから始まった緩和ケアですが、2002年には緩和ケア診療加算が新設され、治療病院においても緩和ケアチームが活動することで診療報酬を得られるようになるなど、終末期の施設ばかりではなくがん治療病院においても緩和ケアの専門部署が設けられる礎となりました。そして2012年、第二期がん対策推進基本計画において「がんと診断された時からの緩和ケアの推進」が明記され、「早期からの緩和ケア」はいわば国の施策になったのです。
現在日本ではがんと末期心不全、AIDS(後天性免疫不全症候群)のみの保険適用ですが、今後ますますの拡大が望まれるような途上にあると言えるでしょう。
いずれにせよ、誰もが自分の望む人生を送りたい、と願う現代において、より良き生を支え、また特に医療・介護分野の意思決定も支える緩和ケアは、ますます求められている要素・分野であると考えられます。また老いによる不可避の機能低下を前に、どこまで治療やケアを行うのかという観点からも、その選択や決断を支える緩和ケアは重要でありけると予測されます。
「病気を治せば苦痛も緩和される」が従来の考えだった
私が医師になった2000年代初頭は、まだまだがんの患者さんの痛みや苦しみに対して、今のようにあの手この手で緩和策を講じるというのが一般的ではない時代でした。
医療用麻薬などの鎮痛薬の使い方も、今に比べれば、洗練度はまだまだというのが一般的な臨床現場であったのではないでしょうか。
それは偶然の出会いでした。
たまたまナースステーションに『最新緩和医療学』という緩和ケアの教科書が置いてあり、それを読んでみると目から鱗でした。
病気を治せば症状も緩和される――これが旧来の考えでした。しかしそれだと、治らない病気の人の苦痛はどうすればよいのか? という話になります。実際、2000年代初頭の末期がんの患者さんは苦しんでいました。しかし苦痛はなかなか取り除けませんでした。
『最新緩和医療学』は、症状の緩和ケアに特化した本でした。
今の常識からすると考えられませんが、私は緩和ケアという名前を知らずに医師になりました。医学部時代の麻酔科の講義で痛みについては習いました。しかし緩和ケアという苦痛全般を、体だけではなく心も、治療・ケアする専門科があるということを知らずに医師になったのです。
そのため、その本の記載は大変インパクトのあるものでした。すぐさま、それに記してある通りに緩和ケアを開始してみました。
臥せりがちだったがん患者が歩けるようになった
結果は驚くべきものでした。60代女性の、非常に重い肺がんだったIさん。少し動くだけで息が上がりました。胸水という胸の水が肺を広く覆っていたからです。私はステロイドや医療用麻薬などの症状緩和薬を調節しました。
するとどうでしょうか?
病棟の廊下で、他の患者さんの車椅子を押す彼女の姿を見かけるようになったのです。昨日まではベッドで臥せりがちだった人がそれほど元気になったわけですから驚きも大きかったです。実は、薬の使い方次第で患者さんの苦痛のレベルは激変するのです。
さらにそれにとどまりません。緩和ケアは患者さん本人だけではなく、ご家族にも提供することがうたわれています。Iさんは深刻な家庭不和のまま末期の状態を迎えていました。試行錯誤ではありましたが、看護師とも協働しながら、家族が何とかIさんと一緒に過ごせる時間を確保するように努めました。不和を残したまま最期まで過ごすことは、Iさんにとってはもちろん、家族にも必ずや悔いが残る結果になると思ったからです。
家族の方との対話を重ねた結果、残り少ない時間に、せめてものことをしてあげたいと思ってくれたご主人、息子さんや娘さんの力で、Iさんは一時ご自宅に帰ることもできました。
そして当時は大変苦しい症状となりがちであった末期肺がんの患者さんであったにもかかわらず、最後は鎮静下で穏やかに生を全うされました。
生活の質を保って生きる術はあった
通例、それまでの同じ病態の患者さんがこのように穏やかに逝かれることは少なかったのです。それが緩和ケアを行ったことで激変したわけですから、大変驚きました。
Iさんの例は、私が診てきたがんの方の経過とはまったく異なっていました。苦痛をこれほど和らげられる、ということが最大の驚きでしたし、何が本人にとって最良なのかという視点で何度も皆で話し合いを重ねたことも強く印象に残りました。結果として、本人も苦痛が緩和され、そして本人の意思に沿う形で医療を上手に使えたこともそうでした。
つまり、より苦痛が少なく、生活の質を保って生きる術はあったのです。それが知られていないために、治らない病気にはなす術がない、という従前の状態と理解であったということです。以後も、緩和ケアを提供するたびに、それまでより患者さんの状態が良い方向に変わることがほとんどでした。当時の常識で、それは驚くべきことでした。
どのような重篤な病気でも、できることは必ずある
私は消化器内科医の道を進んでいましたが、この医療をもっと広げる必要がある、そしてそれにより、多くの方を助けられればと思い、緩和ケア医として歩むことを決意しました。その後は、専門病院で研修し、在宅や大学病院、様々な場で緩和ケアを提供してきました。直に関わったがんの患者さんは3700人以上で、末期の患者さんも2000人以上拝見しています。
その中でより痛感したこと。
それは、どのような重篤な病気であろうと、本人が納得した人生の終わり方を迎えるために「できることは必ずある」ということです。
「もう手がありません」そのように医療者から告げられたという嘆きや悲しみを聞くことは今でもしばしばあります。確かに病気を治すための治療がもう難しい場合だってあるでしょう。しかし、人生の与えられた最後の一分一秒まで、それをより良くするために支える手段は何かしらあるのです。そのような意味で「できることは必ずある」のです。
ある人にとってそれは会いたい人に会うことだったり、行きたいところに行くことだったり、やり残したことをやることだったりするでしょう。それを支える方法は何かしらあるものです。そして実際にそれがもし叶わなかったとしても、悔いが残らないように、相談し一緒に悩むということが大切なのです。生活の質を上げるため、症状を緩和するため、その方策というのは、どんな状況においても存在するのです。
大切なことは、それを緩和ケア医と患者さん、そしてご家族の方々と一緒に考えることです。
しかしながら、緩和ケアは看取りだけの医療と捉えられていたり、死ぬことと同義に思われていたりなど、まだまだ誤解も絶えません。
緩和ケア医は全体のたった0.3%程度
早期から緩和ケアが受けられないことは決して珍しいことではありません。
実際に名前を挙げることは避けますが、非常に有名ながんの専門病院であっても、早期から緩和ケアを受けられるかどうかは担当医の裁量に委ねられています。
全国に医師は30万人以上いますが、緩和ケアを専門で行っている医師は大変少ないのです。
2021年4月1日現在で、日本緩和医療学会が認定している専門医は270人、認定医は731人、暫定指導医は125人です。合計して1126人です。
つまり、緩和ケア医は全体の0.3%程度しかいません。これだけでも少ないのが伝わると思いますが、この数字にはあるからくり(?)があります。
それは、緩和ケアの資格を持っていても、専従として緩和ケアに取り組んでいる人は必ずしも多くない、ということです。
特に地方部などは医師不足であり、緩和ケアだけをしていては病院の診療が回らないため、資格はあってもそれだけを行っているのではない、という場合は少なからずあります。
そのため、緩和ケア一本で仕事をしている医師の数というのは1000より少なくなります。
緩和ケア病棟は主として高度進行期や末期の患者さんを入院診療する場で、医師は非常に密なケアを要求されます。もちろん緩和ケア医の在籍が必要です。
緩和ケアを受けたくても受けられないことが多かった
高い熱意をもって早期からの緩和ケアを積極的に受け入れている病院もありますが、主として終末期のケアに全国で数百人の医師が従事していることになります。
また最近でこそ少し事情が変わってきましたが、大病院は自院に通院中の患者さんを診療することで手一杯(緩和ケアの従事者も少ないです)であり、他院通院中の患者さんへの緩和ケア外来が提供できない、という病院も少なからずありました。
そのため、自分が思う水準の緩和ケアを受けたいと思っても、断られてしまったり、自分が治療を受けている病院に部門がなかったりして、受けられないということは枚挙にいとまがなかったのです。
大津秀一『幸せに死ぬために 人生を豊かにする「早期緩和ケア」』(講談社現代新書)
そこで、緩和ケアだけ、それも早期からの緩和ケアに完全対応したクリニックを私が先駆けて設立しました。
オンライン方式での相談も行うなどして、緩和ケアの地域偏在をカバーするための試みも行っています。
ただそれでも早期からの緩和ケアに対する周知の不足から、緩和ケアが十分に広く全国的に提供できているかというとまだまだ……というのが正直なところです。
今現在では、知っている人は早期から利用して恩恵を受けられ、そうではない人はいよいよ末期やかなり進行した病状になってようやく利用できることを知る、という格差が存在する状況です。
皆さんには、現状では知っている人だけがメリットを享受できる早期緩和ケアをうまく活用してほしいと思います。
緩和医療医
1976年、茨城県生まれ。岐阜大学医学部卒業。2010年より東邦大学医療センター大森病院緩和ケアセンターに勤務。同センター長を経て、日本初の早期からの緩和ケア外来に特化した診療所「早期緩和ケア大津秀一クリニック」院長。


【追悼】瀬戸内寂聴さんが3年前に語っていた理想の“最期”

2021-11-11 14:52:20 | 日記

下記の記事はNEWSポストセブンからの借用(コピー)です。

作家の瀬戸内寂聴さんが亡くなった。99歳だった。瀬戸内さんは1922年、大正11年生まれ。『花心』『夏の終り』など多数の代表作があり、数々の文芸賞を受賞してきた。1997年には文化功労者に、2006年には文化勲章を受章。近年は体調不良と戦う日々ではあったが、つい最近まで筆を執り、意欲的に創作活動を続けていた。

 女性セブンでは3年前、元外交官の小池政行さんが瀬戸内さんにインタビューした模様を掲載(2018年4月19日号)。そこで瀬戸内さんは「理想の最期」を語っていた。瀬戸内さんの元気なご生前のお姿を偲び、当時のインタビューを再掲載する。

 * * *
 瀬戸内寂聴さんは、1956年に処女作『痛い靴』を発表した。それから60年を超える小説家生活の間には、女性の性愛を赤裸々に描いたことで「子宮作家」と揶揄され文壇から消されかけた期間も存在する。出家したのは51才のときだ。そんな瀬戸内さんに、元外交官の小池政行さんが、瀬戸内さんが今の世の中に抱く思いに迫った。

「お坊さんには、守らなければいけないことがたくさんあるんです。“嘘をついてはいけない”とか、“人の悪口を言うな”とかね。でもね、小説家というのは嘘を書くのが職業ですよ。悪口言いながら食べるご飯は、本当においしいの。そんなのやめられないじゃない(笑い)。

 だから、“人がいちばん守れないものを守ろう”と思って、それでセックスを絶ったんですよ。51才のときから、そういったことは1回もありません。誰も信じてくれませんけどね(笑い)。でも、仏さまはちゃんと見てくださっているからそれでいいんです」(瀬戸内さん・以下「」内同)

──恋愛感情を抑え込んだわけですか。

「いいえ、今でも恋愛はしています。長生きをするエネルギーの源は、やっぱり恋愛をすること。あの人素敵だな、お話ししたいなって思う気持ちは、生きる糧になります。恋愛すれば心がみずみずしくいられる。心がみずみずしいと、体もシワシワにならないのよ」

──人生の終わりをどう迎えるかは、寿命が延びた現代人の大きなテーマです。私の身内にも、介護が必要で施設に入っている人間がいます。

「私もね、きっと介護度4くらいじゃないかと思ってるんですよ。自分で」
──またご冗談を。頭は?

「はっきり」

──耳は?

「聞こえます」

──足は?

「歩けます」

──どこにも問題ないじゃないですか!(笑い)

「あらそう? 今はまだ、お風呂に入るのも、着物を着るのも全部自分でできます。もちろん、おトイレなんかも誰の世話にもならなくて済んでいます。でもね、もし仮に認知症になったり、介護が必要になったりするんだとしたら、その前に死んでしまいたいと思っているんです。

 私の昔からの知り合いに、奥さんに先立たれてから、少しずつ弱ってしまった人がいました。気位が高くて、とても洒落た人だったのですが、それこそ下の世話まで誰かにやってもらわないといけなくなってしまって。

 その後その人が亡くなったとき、ちょっとホッとした自分がいたんです。“これで、やっとあの人のプライドが守られる”って。特に女性は、最後まで美意識を保っていたいと思うでしょう?

 だから私は、最後の最後まで意識がはっきりしてて、“みんな、本当にお世話になったね。さようなら”って言って、パタッと“その時”を迎えたいと願っています」

 * * *
 長く「青空説法」として法話の会を続け、多くの人を笑顔にしてきた瀬戸内さんの在りし日の姿が目に浮かぶようなインタビューだ。ご冥福をお祈りいたします。


加藤登紀子「乳がんと不調を乗り越えて76歳、今日も私は健康優良児!」

2021-11-11 13:30:00 | 日記

下記の記事は婦人公論.jpからの借用(コピー)です。

加藤登紀子「乳がんと不調を乗り越えて76歳、今日も私は健康優良児!」
すべては歌い続けるために

がん 病気 健康寿命 血流「《病は気から》とよく言うけれど、あれは本当。あのままでは心が免疫力低下に引っ張られて、体調まで崩してしまっていたでしょう。」(撮影:藤澤靖子)
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〈本日の『徹子の部屋』に登場!〉今年で歌手生活55周年を迎えた加藤登紀子さんは、「今が一番体調がいい」と笑います。その健康的な生活ぶりは医師から太鼓判を押されるほどですが、そこに至るまでには紆余曲折がありました(構成=丸山あかね 撮影=藤澤靖子)
母に学んだ老いの心構え
この12月で77歳になります。3人の娘たちがそれぞれに家庭を持ち、気づけば私は7人の孫を持つお祖母ちゃん(笑)。時が経つのは本当に早いですね。母は101歳まで生きたので、私の人生も先が長そうです。でも、「生きる」というのは覚悟のいることなのですよ。生きている限り、日々いろいろ起こることを解決していかなくちゃいけない。実は、ちょうどひと山越えたところなの。少し前まで、猛烈な切なさと無力感と闘っていました。
私は、他人や家族のために何かをしてあげたくて仕方がないタイプなのね。娘たちから「子どもを預かってほしい」と言われれば、用事がない限り、二つ返事で引き受けてきました。みんなすくすく育って、一番下の孫がもう6歳。成長するのはもちろん嬉しいことなのだけれど、近頃、誰もわが家へ来なくなってしまったのは寂しいと思っていたのです。
そんなある日、娘に電話をして「たまにはわが家で集まれないの?」と言ったら、「みんな忙しいの。勘弁してよ」という何ともつれない言葉が返ってきて、ショックを受けました。「私はもう必要とされていないのだな」と感じて。
かといって、「私は必死であなたたちを育ててきたのよ」と言ってもしょうがない。その言葉はグッと留めたものの、心の免疫力はガタ落ち。これまで元気印できたのに、気を抜くと鬱々としてしまう……由々しき事態だったのですよ。
そんな時、思い出したのが3年前に他界した母のことでした。母が91歳の時、「おばあさんになってしまったと考えると落ち込むけど、『長く生きた人』と思えば誇らしい」と言っていたな、と。そこから母は俄然前向きになって自分史を書き始め、『ハルビンの詩がきこえる』という本を出版しました。つまり母は、現実は変えられなくても、考え方を変えることで心を前向きに、強くすることに成功したのです。
そこで私も、「家族という大きな重荷から解放されて自由になったのだ」と気持ちを切り替えました。「必要とされていないのなら、私も勝手にやらせてもらうわ」って。18年前に夫も見送りましたし、今は気楽な一人暮らし。自分のことだけを考えていればいい、なんて夢みたいに幸せなことでしょう。最初こそ強がりだったのだけれど、今は、家族のなかで自分のポジションを変えるのは大切なことなんだ、と実感しています。
もう私は「心配されるほう」の人なのだから、なによりもまずは健康であること。自立して暮らし続けるのが、子どもたちにしてあげられる最大のことなのだと悟りました。「病は気から」とよく言うけれど、あれは本当。あのままでは心が免疫力低下に引っ張られて、体調まで崩してしまっていたでしょう。心と体が直結していることをまざまざと思い知らされた出来事でした。

手術の跡は見えないように
今でこそ風邪もめったにひかない「健康優良児」で通っていますけれど、ここに至るまでは山も谷もありました。私にとって大きかったのは、48歳の11月に乳がんが発覚したこと。検査の結果を聞いた時は、まさに青天の霹靂で、それは落ち込みましたよ。でも、50の大台が近づいて急に冷え性になったり、疲れやすくなったりして「なんだか調子が悪いな」と感じていたので、納得するところもあったんです。
ともあれ年明けすぐにコンサートが控えていたので、ぐずぐずしちゃいられない。手術を受ける決断をし、ピンポン玉くらいの大きさの腫瘍とともに左の乳頭を一部摘出しました。術後2日目からの厳しいリハビリを経て、退院した翌日にはステージに立っていたの。コンサートの予定と、夫や娘たちの全面的なサポートがなかったら、あそこまで頑張れなかったでしょう。
主治医の先生も協力的で、コンサートでは胸の開いたドレスを着ると言ったら、「ドレスのラインがどこまでくるか、肌に油性ペンでしるしをつけてください。手術跡が見えないようにうまく切りますから」って。おかげさまで、完璧でした。「左胸がティーンエイジャーみたいに可愛くなったから、右胸も垂れた部分を取り除いてもらおうかしら」なんて言って、笑う余裕もあったのよ。
あの時、病気を経験してよかったと今は思える。そうでなければ、私は健康管理に無頓着なままだったでしょう。
その頃の私を悩ませていた不調のひとつは、低体温です。体が冷えて冷えて、なかなか体温が上がらない。そこで当時は画期的だった赤外線サウナをわが家に設置しました。低温なので、中で歌を作ったり、原稿を書いたり。家のことから離れて一人になれるという意味でも、サウナタイムは大切な時間でした。
湯船でじっくりと体を温めたら水シャワーを浴びるという、免疫力アップに効果的な温冷交代浴は、50代から始めた習慣。冷え性に効くと聞いて始めた当初は水シャワーに体がしびれてビックリしたけれど、今は浴びないと気持ちが悪いくらい。顔が火照るほど温まり、ポカポカが持続するので病みつきになること請け合いです。
「歳を重ねるにつれて体がしんどくなっていく」というのが定説ですけど、私、今が一番調子いいの。年を重ねた事実は受け入れるけど、「この歳じゃできない」「もうムリ」と諦めない。自分の体を甘やかしすぎず、力を信じてあげることで、ポテンシャルも引き出せるし、病気を遠ざけることにも繋がるのではないかしら。

今も夫に守られているよう
がん以来大病知らずになった私ですが、98年、今度は夫の藤本敏夫に肝臓がんが見つかり、4年の闘病の末に亡くなりました。彼は千葉で有機農業を行う「鴨川自然王国」を設立して、私たち夫婦は千葉と東京の二元生活を送っており、晩年は東京で二人暮らしをしていました。思い出はたくさんあるけれど、どんなに忙しい日でも必ず共にしていた朝食の時間が心に刻まれています。それだけに彼の死後、一人で朝食を食べるのがつらかった。
ところが鴨川へ行った折に、夫が生前に仕込んだという味噌を発見したのです。それで東京へ持ち帰り、毎朝、お味噌汁にしていただくのが習慣になりました。一緒にいるような気がして、ものすごくリラックスできるの。今もお味噌汁を飲むたびに、夫に守られているのを感じます。
先日、お仕事でお医者様にお会いしたのですが、「加藤さんの朝ご飯は理想的です」と褒めていただきました。大好きな納豆入りのお味噌汁や、フルーツゼリーを入れたヨーグルトなどの発酵食品が、腸内環境を整えてくれるとのこと。さらにゼリーのゼラチンには、コラーゲンが含まれていて、美肌や老化防止に効果があるの。
トーストにスライスした玉ねぎを挟んで食べていることもいい、とも言われました。パンの小麦粉に含まれるグルテンは分解されにくいタンパク質の一種ですが、玉ねぎと一緒に食べることでグルテンフリーの効果が期待できるのだとか。知らず知らずのうちに、体にいい食事をしていたのね。
それで調子に乗って、「先生、私、交感神経と副交感神経をコントロールするのも得意なんです」と言っちゃった(笑)。でも、あながち嘘でもないのよ。自律神経には心身の活動を活発にする交感神経とリラックスさせる副交感神経があって、両者がいいバランスで働くことによって血流が良くなる。それには深く呼吸するのがいいと。つまり、私がいつもしている「歌う」という行為は、お腹を使って呼吸をしますから、最適。
おトイレで歌うと、お通じも良くなるんです。副交感神経が優位になって腸の動きも活発化するのか、力まなくてもスルッと。一度お試しください。リラックスしなくちゃ、出る物も出ないのよ。(笑)

老化の段差にご用心!
50代半ばの頃、目がかすむようになったので病院へ行ったら、医師が「老眼です。加齢ですからどうしようもない」と。こちらはなんとかしてほしくて行ったのに、もう、しょんぼり。
ところが、知人で「見えるようになると思えばそうなる」と力説する人がいて、「目の周りの筋肉を鍛えればいい」と言うのです。実践してみたら、前よりよく見えるようになりました。老化や不調が「マイナス」の状態だとしたら、私はこれまでよくも悪くもない「ゼロ」にすることを目標にしてきた。でも、鍛えれば「プラス1」になるし、さらに積み上げていくことだってできるとわかり、やる気が出ました。
私は一人暮らしですから、何でも自分でやらなければいけません。でも、「自分しかいない」という危機感があるからこそ、気持ちに張りがあるのかなと思ったりして。ただし、老いはある日を境にガクンとくるもので、昨日できたことが今日はできなくなってしまう。私たちの世代は、「老化(廊下)の段差にご用心」なんです。(笑)いつかは一人で暮らせなくなるかもしれない。でも、ただ怯えていても仕方ないから、体や病気のことは自分で調べて、あらかじめ知識を得ておく。あと、自分の内面と対話して、「私はどうしたいか」というものさしを作り、物事を判断すること。それから好奇心と責任感を大切にしています。
私はツイッターをやっていますので、間違った情報を流してはいけないという思いから、新聞記事を切り抜いて、環境問題と文化と政治に分けてスクラップするのを日課にしているの。実はそんなに深くは読んでいなくて、切り抜くのが喜びだったりするのだけれど(笑)。
でも、ニュースを見聞きしながら想像力を駆使して、報じられている人たちの気持ちになるということが大事だと思う。楽しいことだけでなく、怒りや悲しみも人が生きるうえでのエネルギーになるというのが持論です。
私なりの健康法や免疫を保つための方法についてお話ししてきましたが、すべては「歌い続けたい」という思いでやっていることです。年内にも「ほろ酔いコンサート」が控えていて、今はその準備中。コロナ禍のさなかで作った歌「この手に抱きしめたい」は、大切な人を見送った方、今苦しんでいる方に救いが訪れますようにと祈りを込めました。
自分の体が動く限りはステージに立ち続けたい。歌を通じてたくさんの人と出会い、繋がり、エネルギーのキャッチボールをする……。歌は私の原動力であるとともに、免疫力を上げてくれる一番の薬でもあるんです。
構成: 丸山あかね
撮影: 藤澤靖子
出典=『婦人公論』2020年12月8日号
加藤登紀子
歌手
1943年旧満洲・ハルビン生まれ。65年、東京大学在学中に歌手デビュー。「知床旅情」「百万本のバラ」などのヒット曲を世に送り出す。    


一時金を辞退すれば誰とでも結婚できる」眞子さんの"先例"が佳子さまにもたらす深刻な影響

2021-11-11 11:00:00 | 日記

下記の記事はプレジデントオンラインからの借用(コピー)です。

秋篠宮家の長女眞子さんと小室圭さんが10月26日、結婚した。この結婚で眞子さんは皇籍を離れ、民間人となった。武蔵大学社会学部教授の千田有紀さんは眞子さんの結婚について、「皇室の今後を考えるうえで、非常に大きな意味がある」という――。
心の病に苦しんだ皇室の女性たち
眞子さまが結婚されて、小室眞子さんになった。おめでたいことだ。眞子さんの願いがかなって、よかったと思う。
一連の騒動を振り返れば、自分の意思、恋愛で結婚相手を選んだ眞子さんのこの結婚は、皇室のあり方に大きな一石を投じたと言えるだろう。皇室という制度のあり方に、ここまで根本的な疑問が投げかけられたことは、これまでなかったのではないか。
もちろんこれまでも、お世継ぎが問題になったことなどはあった。しかし、天皇皇后陛下に男のお子さんができなかったことは、いわば仕方のない事態であって、個人の意思でどうこうできるものではない。それに対して、眞子さんが自らの意思で結婚一時金を辞退し、降嫁したことがもたらす影響は、皇室の今後を考える際に、非常に大きな意味をもつ。
そのことを象徴しているのが、眞子さんが患ったとされる複雑性PTSDだ。眞子さんは、「中学生のころから、身近な方々やご自身に対する誹謗中傷と感じられる情報を日常的に目になさり、精神的な負担を感じておられた」のだという。その頃から、結婚一時金を辞退することを考えていたというのだ。衝撃だった。
なぜなら、上皇陛下と結婚された美智子さま、皇后の雅子さまが非常な苦労をなさって、それぞれ失語症や適応障害を患われたことは皆が知っている。女性が「民間から皇室に嫁ぐ」、しかも皇位継承者と結婚するのは、並大抵なことではないのだと思われてきた。
「長男の嫁」と「次男の嫁」
以前、「眞子さま駆け落ち婚で“母の評価”が逆転、紀子さまと雅子さまの『子育て』シーソーゲーム」でも書いたように、雅子さまがバッシングされている間、次男である秋篠宮家は相対的にうまくやっているように見えた。
当時の皇太子妃殿下が長期の静養を続けており、いわゆる「人格否定発言」についてどう思われるのかという記者の問いかけに対して、秋篠宮は「少なくとも記者会見という場所において発言する前に、せめて陛下とその内容について話をして、その上での話であるべきではなかったかと思っております」と苦言を呈した。そのうえで、「東宮御所での生活の成り立ちに伴う苦労ですね、これは私はどういう意味なのか理解できない」と発言されている。
つぎに「主に私というよりも家内に関係するのかなと思います」と水を向けられた紀子さまは、「結婚してからの生活は、新しく出会う務めや初めて経験する慣習などが多くございました。どのように務めを果たしたらよいか、至らない点をどのように改めたらよいかなど、不安や戸惑いなどもございましたが、その都度人々に支えられ、試行錯誤をしながら経験を積み、一つ一つを務めてまいりました」と述べたあと、上皇夫妻と秋篠宮に感謝を述べたが、雅子さまに対する同情や理解の言葉はまったくなかった。皇位継承の可能性が少ない宮家は、それ相応の苦労はおありでも、「長男の嫁」のようなプレッシャーは少ないのだろうなと推察した次第である。
雅子さまに浴びせられた罵声
一方、病気で御静養中だった雅子さまには、心無い言葉が投げつけられていた。お出ましのときに、「税金泥棒」という罵声が浴びせられたという報道には、さすがに胸が痛んだ。適応障害という心の病であるのに、「公務をしない」「ワガママ」といった批判が上がるのは、一線を越えて行き過ぎではないかとも思われた。
察するに、中学生だった眞子さんは、こうした事態を目にして心を痛め、トラウマになったということなのだろう。一時金を辞退することを考えていたというのは、雅子さまに向けて発せられた「税金泥棒」という誹謗中傷が、心に刺さったのかもしれない。皇室と日本からの脱出
皇族に嫁いだ女性たちのみならず、皇室に生まれて、何不自由なく暮らしているようにみえる女性皇族でさえも、複雑性PTSDになるほど辛い思いをしているという事実は、私にとっては大きな衝撃であった。眞子さんはもちろん小室圭さんを愛しているのだと思うが、それと同時に、なんとしても皇室を出たいという強い意志も感じた。これは、あながち間違いではないだろう。
つまり、眞子さんの結婚をめぐる一連の動きは、皇太子妃時代の雅子さまバッシングにまでさかのぼることができる出来事だといえる。そう考えれば、眞子さんが、きらびやかな家柄や財力のある人ではなく、小室圭さんを結婚相手として選んだことは腑に落ちる。格式のある相手では、辛い現状は何も解決されない。普通の男性、しかし英語が堪能で、海外で暮らすことのできる能力のある相手と一緒に、眞子さんは日本から脱出したかったのだ。
先例を作った眞子さんの結婚
私たちが敬愛する皇室が、そこにいる女性たちが傷ついているという状況によって成り立っているとしたら、と考えてしまう。そして、ミーハーに皇室報道を楽しんでいること自体を非常に申し訳なく思う。
今では、皇位継承者を育てている秋篠宮家も、大変な状態にある。皇族の方々には幸せに暮らしていただきたいのだが、現状の制度ではそれは難しいのだろうか。
このような現状を踏まえれば、眞子さんが結婚一時金を辞退したことは、非常に大きな意味を持つ。今後、女性宮家を創設するにしろ、旧宮家の男性を復帰させるにしろ(民間人として暮らしていた方々が、いきなり皇族になれるのか、また国民が敬愛できるのかと問われれば、非常に非現実的な選択肢であるようにも思われるが)、これから結婚する女性皇族は、結婚一時金を受け取るのか辞退するのか、問われることになる。別の見方をすれば、眞子さんの結婚は、結婚一時金さえ受け取らなければ、(もし女性宮家が設立されるとしても)好きな相手と結婚し、そこから離脱することも可能になるという先例になるのではないか。
女性皇族は、皇室のルールにのっとって結婚するか、しないか、それとも自由に離脱するのかを、結婚のときに選んでもいいのだという先例を、眞子さんのケースは作ったとも言えそうだ。
現在26歳の眞子さんの妹、佳子さまを含め、今後の女性皇族は、どのような選択をなさるのだろうか。
 * 千田 有紀(せんだ・ゆき)
武蔵大学社会学部教授
1968年生まれ。東京大学文学部社会学科卒業。東京外国語大学外国語学部准教授、コロンビア大学の客員研究員などを経て、武蔵大学社会学部教授。専門は現代社会学。家族、ジェンダー、セクシュアリティ、格差、サブカルチャーなど対象は多岐にわたる。


小室圭さん、眞子さん祖父の「家族葬」に参列も「父の墓参り」はせずに近く渡米へ

2021-11-11 10:30:00 | 日記

週間女性プライム様のホームページより下記の記事をお借りして紹介します。(コピー)です。

「小室眞子さんと圭さん夫婦は今週末の午前、おふたり一緒に渡米する予定だそうです。当初は、圭さんの就職先であるNY州の法律事務所から“早く戻ってきてほしい”との要請があり、彼だけ先に出国すると言われていましたが、最終的にはご一緒に渡米されることになったといいます」(宮内庁関係者)

 NYで仕事がある小室さんはともかくとして、眞子さんが出国を急ぐ理由は2つあるという。

秋篠宮さまの「総括」
「11月23日に行われる、皇室にとって最も重要な祭儀である『新嘗祭』までに、おふたりには渡米していただきたいのです……。これは天皇陛下がその年に収穫された新穀を神に供え、翌年の豊穣を祈願する儀式なのですが、会場には天皇家の親族や、総理大臣をはじめとする三権の長などが参列します。

 例えば'18年の『新嘗祭』には、高円宮家の三女である絢子さんと、結婚した守谷慧さんが出席しており、元皇族の配偶者も参列する権利があります。つまり、眞子さんはもちろんのこと“天皇家の親族”となった小室圭さんも『新嘗祭』に参列することが可能なのです」(秋篠宮家関係者)

 もう1つの理由は、眞子さんの父親、秋篠宮さまのお誕生日が迫っていること。

「11月30日、56歳の誕生日をお迎えになる秋篠宮さまのお誕生会見が公になります。

 今回は婚約延期から3年9か月にわたった眞子さんの結婚騒動に対するお考えを述べられる見込み。結婚当日の10月26日に出された“皇室への影響も少なからずありました”“皇室としては類例を見ない結婚となりました”といったコメントを出されたお気持ちについても、記者から問われるでしょう。

 この会見内容が公になった際に夫婦が在国していた場合、国民の目は再びふたりに集まって批判が巻き起こる……、まさに負の連鎖です。宮内庁としては皇室への影響を危惧していますし“なるべく早く渡米してほしい”というのが本音でしょう」(皇室ジャーナリスト)
皇室側にとっても、小室さん夫妻にとっても「一刻も早い渡米」という点では、利害が一致していると言えるだろう。

 圭さんの出国時期が「当初より遅れが生じた」とも報じられているが、11月4日に眞子さんの祖父・川嶋辰彦教授が『中皮腫』のために他界されたことが影響したとの見方がある。

「声すら覚えていない」
「10月19日に緊急入院した川嶋さんを見舞うため、29日に小室さん夫婦は病院を訪問しました。11月6日の川嶋さんの自宅で執り行われた家族葬には、秋篠宮ご一家と小室さん夫婦も参列。

 この翌日に最後のお別れのため、紀子さまと佳子さま、そして小室さん夫婦も東京都新宿区の『落合斎場』へ。妻の祖父が亡くなったのですから、圭さんも葬儀に出席するのは当然ですし、そのために出国日を遅らせた可能性は十分あるでしょう」(同・前)

 一方で、小室家とゆかりのある人物は、圭さんにある疑問を感じていた。

「川嶋家の葬儀に参列するのはわかるのですが、なぜご自分のお父さまのお墓参りには行かないのでしょうか……。マスコミの目が気になるのでしょうが、3年ぶりに帰国してすぐにNYに戻るのであれば、眞子さんとの結婚を敏勝さんに報告しに行ってほしかったです。もうしばらくは日本に帰ってくることはないのでしょうから……」

 圭さんがまだ10歳だった'02年、父親の敏勝さんは自ら命を断ち、そのことで精神的に参ってしまった敏勝さんの両親もあとを追って自死した、と報じられている。


11月6日、川嶋辰彦さんの自宅で行われた家族葬を終えて帰路につかれる秋篠宮さま、紀子さま、佳子さま、悠仁さま
【激レア写真】眞子さんの義母、小室佳代さん(25歳ごろ)のウェディングドレス姿
「3人が眠るお墓があるのは、神奈川県藤沢市内にある鎌倉時代に建立された由緒ある寺院です。横浜市役所に勤務していた敏勝さんはとても温厚で、いつもにこにこしているような方でした。

 家族で外食に行っても、圭さんの母親である佳代さんが全員分のメニューを勝手に決めることが多かったのですが、敏勝さんが文句を言う姿は見たことがありません、というか彼の声を聞いた記憶すらないほど謙虚な方でしたよ」(同・前)
 しかし、佳代さんと敏勝さんの親族間で起こった“金銭問題”で、敏勝さんは精神的に疲弊していった。

父親が眠るお墓の現状
「一級建築士の資格を持っていた敏勝さんはマイホームを建てる計画を立てていました。そこで、敏勝さんの両親に金銭的な援助を頼んでいたところ、佳代さんが内装などのデザインへのこだわりが強く予算を大きくオーバーし、嫁姑の間で大揉め。間に入って仲裁していた敏勝さんは、仕事のストレスも相まって心を病んでしまったそうです。

 その後、敏勝さんの父親が亡くなったことによる遺産相続でも、佳代さんが“圭にも相続する権利がある”と主張し、さらに揉めて……。それから、敏勝さんの親戚と佳代さんの関係は完全に断絶。ずっと疎遠の状態ですよ」(小室家の親戚筋)

 敏勝さんが亡くなった後、まだ幼い圭さんは毎日のように泣いていたという。

「“夕方になると圭が泣くのよ”って、佳代さんはよく話していました。慕っていたお父さまが亡くなられて寂しかったのでしょうね。10歳の子どもなら当然のことだと思います」(佳代さんの知人)

 3年ぶりに帰国した圭さんが、慕っていた父親のお墓参りに行かないことなどあり得るのだろうか?


’98年冬、長野県にある菅平高原でスキーを楽しむ小室圭さん親子3人。4年後、敏勝さんは自死を選んだ
【激レア写真】眞子さんの義母、小室佳代さん(25歳ごろ)のウェディングドレス姿
 敏勝さんとその両親が眠るお墓を記者が訪ねてみると、最近手入れされた様子はなく、献花もない。花器には水がたまっているだけだった。

「少なくとも圭さんは、帰国してからお墓参りには来ていませんよ。たまに親戚の方がいらっしゃって、お線香をあげていかれるくらいだと思います」(寺院関係者)

 紆余曲折を経て眞子さんとの結婚を果たしたことを、敏勝さんは直接息子から報告してほしかったに違いない……。