里山の山野草

里山と山野草の復活日記。

帰り道の仏様

2009年06月17日 | 神 仏
帰りは猫山東山麓の、あの悪名高き緑資源機構の林道を南下した。


すると、道路標識の直ぐ南の道路沿いに“魔除観音”の石像が立っていた。
由来(→)を読むと、
「今から約200年前の寛政年代(1789~1800年)に猫山山麓一帯に大飢饉が起き、
 これを憂慮した3人の有志がこの観音像を建立して悪魔退散を祈願した所、見事
 天災から難を免れた」
のだそうで、大規模林道開設に伴いこの場所へ移されたという。

この寛政年代の前、天明年代(1781~1788年)の1782~1788年には、天明飢饉と呼
ばれる江戸時代最大級の大飢饉が全国的に起きており、寛政年代に入っても未だお
さまっていなかったらしい?
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更に南下すると、“愚痴聞き地蔵”を祀っているお堂があった。 こちらは最近建
てられたものらしい。
お堂の中を覗くとお地蔵様(→)が「耳が大きくなっちゃった!」のポーズで、こ
ちらを穏やかな顔で見返していた。
私も色々愚痴を聞いて貰いたかったけれど、周辺の限界集落のお年寄り達から散々
愚痴を聞かされているらしいので遠慮した。

世の中には様々な仏達が庶民の願いを聞いてくれているらしいが、これからさき世
の中がもっと行き詰って来ると、如何な仏様でも面倒見切れなくなるのではないか
と心配だ!
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三原のダルマ寺?

2009年02月10日 | 神 仏
神明市の開かれている通りの東の端にある極楽寺、これが実に面白かった。

一つはその山門。
元は小早川家の居城があった高山城の裏門だったそうだが、
その後、三原城築城の際に移築されて城下の町奉行所の門として使われたり、幕末
には三原小学校の前身である亦楽舎の門として使用されたりした後、明治11年に
極楽寺に移されたらしい。
高山城といえば先月山野草講座で訪ねた新高山城跡の対岸にあった山城で、今から
400年以上も前の門にこんな場所でお目にかかれるとは意外だった!

もう一つは、この山門の隣にある“青山コレクション達磨記念堂”。
極楽寺の住職が蒐集した1000個のダルマに加え、ダルマ蒐集家の青山昭美さんの
コレクション6,000個の寄贈を受けて開設した日本一の“ダルマ展示館”だそうだ。

普段は研究者などを対象に予約制で公開されているが、“神明市”と“浮城まつり”
の時には一般にも公開されていて、お寺の本堂にもその一部が展示してあった。
蒐集品は全国から集められていて珍しい物が多く、研究家や蒐集家にとっては垂涎
の的なのだそうだ!

(達磨記念堂と本堂)


(本堂に展示してあった蒐集品の一部)

最後は、本堂の隣に建てられている坂村真民という詩人の詩碑。
心にしみる詩だった!



不思議な“お稲荷さん”、最上高松稲荷

2009年01月22日 | 神 仏
今回の里山講座は備中龍王山で、標高(286.8m)は実に低い。 
しかし、麓にある最上高松稲荷は、伏見稲荷・豊川稲荷などと共に日本の三大稲荷
とも呼ばれるほど有名なので参拝を兼ねて参加した。

(登山ルート)

(大鳥居)

180号線を北上し、JR吉備線の備中高松駅の手前を右に折れて北上すると、直ぐに大鳥居が見えてくる。
(最上高松稲荷と背後の備中龍王山)

暫く進むと、最上高松稲荷と背後の備中龍王山が見えてくる。
予想していたとはいえ、随分低い山だ。
(参道入り口)

参道の両側に掘っ立て小屋のような貧相な土産物を売っている店が続く中を進む。
それでも商店の数はかなり多い。
(案内図)

仁王門をくぐると、右側には大客殿・根本大堂・日蓮上人像があり、
正面の石段を上がると正面に本殿、左手に寺務所があり、右手に少し登ると旧本殿がある。
裏山の中腹には最上位経王大菩薩が降臨したとされる八畳岩があるそうだ。
(仁王門右手の大客殿と根本大堂)
日蓮宗のお寺だそうで、元は752年に報恩大師が八畳岩でご本尊の最上位経王大菩薩を感得した事に始まり、爾来「龍王山神宮寺」として隆盛を極めたが、中世の戦乱で秀吉の備中高松城攻略の際堂宇は消失。
その後新たに領主となった花房公が1601年に復興し、寺名を最上稲荷山・妙教寺と改めて現在に至ったという。
(本殿)
本殿には裏山に降臨したとされる最上位経王大菩薩(女神)のほか、八大龍王、三面大黒尊天の二神も祀られている。
最上高松稲荷は、明治の神仏分離令に際しても「神仏習合」の形態が許されたお寺で、正式名称を「最上稲荷教本山妙教寺」と言い、他の稲荷神社のように宇迦之御魂神は祀っていないらしい?
(祈祷受付所、寺務所)

最上位経王大菩薩は五穀豊穣・商売繁盛・開運のご利益があり、
八大龍王は水を司る神、三面大黒尊天は魔障を払う神として信仰されているという。
参拝客や寄進をする人が多いせいか本殿や寺務所の建物は立派だ。
>(登山開始→幾つもある鳥居)

いよいよ頂上の奥の院を目指して登山開始。

途中には、幾つもの鳥居と「南無妙法蓮華教」のお題目が彫られた石碑が立っている。
(山頂の奥の院)
山頂には「一乗院」という日蓮宗のお寺があった。 てっきり麓の本殿に祀られている神様の奥の院と思ったがどうやら違うらしい。 最上高松稲荷に全く関係のないお寺だそうだ。

最上高松稲荷が神仏習合のお寺だというだけでもややこしいのに、同一宗派の別のお寺があるとは何たる事か?
(龍泉寺の案内図)

下山途中に西側山麓の龍泉寺に寄った。
ここも最上高松稲荷ほど規模は大きくないが、それでも多くの堂宇があった。
(龍泉寺の由緒)

驚いた事に、このお寺も日蓮宗で最上高松稲荷と同様な神仏を祀ってあるらしい。

しかも、ここも独立した宗教団体だというから全くもって不思議だ。
>(拝殿→最上の滝)

境内には修行の為の滝もあって西日本最勝だそうだ。

まぁ、それにしてもこの龍王山、不思議な山だった!



賀茂神社の神紋

2009年01月05日 | 神 仏
今日は、遅ればせながら近くの賀茂神社へ初詣に行って来た。
と言えば幾らか殊勝に聞こえるかもしれないが、喉元までつかえてしまったお雑煮
の腹減らしが目的の、実に不敬な参拝だ!

賀茂神社は、貞観6年(864年)に
京都の上賀茂神社から別雷命の分霊を
この“岩船”に招き、この地にお祀りした
のが始まりと言われているそうだ。






面白いのは神殿で、拝殿の後ろに八幡社と賀茂別雷神社の2棟が並んだ珍しい形
をしている!
八幡社賀茂別雷神社

そういえば、昨年金刀比羅宮を参拝した際、至る所へ円の中に妙な字を書いた紋が
掲げられていたので尋ねてみたところ、
「古い時代の書体で“金”と書いてあり、“マルコン”と呼ぶ神紋です」
と教わった。

(書院の提灯→神紋)
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そこで、賀茂神社は如何に?と眺めると、社務所の紋幕に二つの紋が描かれていた。
一つは賀茂別雷神社の“双葉葵紋”で、もう一つは八幡社の“巴紋”だ。

“双葉葵紋”はフタバアオイを図案化したもので、徳川家の家紋の三つ葉葵紋も
フタバアオイを図案化したものだそうだ。

調べて見ると、
「元々、平安時代に公家が衣服や道具などに紋章を用いたのが始まりで、 それが
 後に家紋や神紋として使われるようになった」
のだそうだ。 
神紋の事など全く知らなかったし、そもそも最近方々の神社を訪ねたが全く気が
つかなかった。 それにしても神様が公家の真似をしたとは驚いた!

賀茂神社の由緒
「貞観6年(864年)、本殿に京都の賀茂別雷神社(上賀茂神社)から別雷命の分霊
 を、相殿に賀茂御祖神社(下鴨神社)から玉依姫命(別雷命の母)の分霊を奉祀」
「爾来、この郷は上賀茂神社の荘園として地名を“賀茂庄”などと呼び、鎮座の山
 を賀茂山、前を流れる川を加茂川と称し、その流域には京都を模して北山・芹生・
 高雄・岩倉・貴船・糺などの地名をつけた」
「その後、天喜2年(1054年)に日向の高千穂から天忍穂耳命・天津彦瓊々杵命を
 迎えて本殿に合祀し、
 保安3年(1137年)に宇佐八幡宮から八幡大神(応神天皇)・神功皇后を迎えて
 相殿に配祀」


“森の石松”の早とちり?

2008年12月21日 | 神 仏

次郎長親分の代参で金刀比羅宮に参拝した“森の石松”。
帰りに江州草津の見請山鎌太郎を訪ねた際、先年死んだ次郎長親分の奥さんへ
の香典として25両を託されたが、清水港近くまで帰って遠州中郡の都鳥吉兵衛を
訪ねたばかりに、そのお金を盗られた上に殺されてしまったのだそうだ。

金刀比羅宮の主祭神・大物主神といえば、航海の神・国や人々の平安を守ってくれ
る神の筈だが、その参拝の帰りに殺されてしまったとは合点がいかない!

何でも、途中の旭社が余りにも荘厳なので本宮と感ちがいし、親分から託された刀
を奉納してすっかり役目を果たしたと勘違いをしたらしい?
或いは、本宮に祀られている大物主神がそれを見て、自分が“しかと”されたと思
って怒り、お仕置きをしたのであろうか?

もしそうなら、もう93段石段を上って本宮を参拝していれば命を落とす事も無か
ったかもしれない?
いずれにしても、せっかちは身を滅ぼす元だ。 精々ゆっくり生きて行くとしよう!



神様は二重人格?

2008年12月20日 | 神 仏

「金刀比羅宮の主祭神は、大物主神(おおものぬしのかみ)で大国主命(おおくに
 ぬしのみこと)の和魂神(にぎみたまのかみ)である」
と書かれていたが、何の事か分からないので尋ねてみた。

すると、神道において神の霊魂には、人間の性格と同じように、
 ・荒玉(あらみたま)という荒々しい面と、
 ・和魂(にぎみたま)という優しく平和的な面の二つの側面があり、
和魂は更に、
 ・幸魂(さきみたま)という、運によって人に幸いを与え収穫をもたらす働きと、
 ・奇魂(くしみたま)という、奇跡によって直接に人に幸いを与える働きに分け
                られるという。

つまり、大国主命は荒々しい側面の出た神で、大物主神は優しい側面の出た神で
本来は同一の神なのだそうだ。
何だか分かったような分からないような話で、まるで神様は二重人格のような感じ
がしなくもないが、どうやら大国主神が不安定な日本の国を安定させて国造りをし、
平定した国を大物主神の持つ五穀豊穣や平安を祈る力で治めたという事らしい。

又、人々は神の怒りを鎮め荒玉を和魂に変える為に、供物を捧げ儀式や祭りを行う
のだともいうそうだ。
こちらは私にもよく理解できる。
うちの山の神などは荒玉しか持ち合わせていないほどの悪妻だが、供物を捧げると
俄かにご機嫌が麗しくなる。 何だか神様も人間と同じようで親しみを感じてしまう!


金刀比羅宮参拝

2008年12月19日 | 神 仏
登山の後はお決まりの温泉だ。
今回は“こんぴらさん”の麓の温泉に決まっていたが、ここまで来て温泉になど
浸かっては居られない。
何しろ、次郎長親分の代参で森の石松が金刀比羅宮に参拝した帰路に殺され
てしまったという話もあるし、私にとっても三十数年ぶりで実はこちらの方を楽し
みにしていたくらいだ!

という訳で、1368段の石段の先にある奥社を目指す事にした。


先ずは、駐車場の大センダンの木。 
大きさもさる事ながら、万葉の昔にはこの木の下で恋人同士がデートしたとか?
凡そ似つかわしくない話(→)が残っているそうだ。
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表参道に入ると、参道脇には客を乗せて運ぶ駕籠もあったが、ウィークデーなので
随分参拝客が少なく乗る人は居ない。 いよいよ石段に差し掛かる。

暫く行くと、“金刀比羅本教総本部”というのがあった。
「主神である“大物主大神(おおものぬしのおおかみ)”の恵みを多くの人々に受
 けて戴き、教祖の“厳魂彦命(いずたまひこのみこと)”の教えを後世に伝える
 為に昭和44年に宗教法人を設立した」
のだそうで、戦国時代に神社の復興と布教に努めた“金毘羅大権現別当金光院”
院主だった金剛坊宥盛を、明治維新後の神仏分離令により“厳魂彦命”なる神名
に改めて、飽くまで神道として活動しているらしい。

それを過ぎると大門だ。 ここまで365段ある。
1650年に初代高松藩主・松平頼重公(水戸光圀の兄)から寄贈され、楼上の額の
“琴平山”の文字は有栖川宮熾仁親王の筆によるそうだ。

更に長い参道を進むと厩に神馬が居た。
神様が乗る為の馬で、生馬を奉納できない時には木や土や鋳物で馬形を造り献納し、
更には額に馬の絵を描いて献納したが、これが後に絵馬へと変遷したのだそうだ。

次は書院。 
社務所門を潜ると300年以上前に建てられた書院や御守所(→)があり、書院では
円山応挙の襖絵が公開されているが見る間なし。 
それにしてもこの他にも至る所に建屋がある。 宏大だ!
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更に参道が続き、629段で旭社に到着。
祭神は、天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神・伊邪那岐神・伊邪那美神・天照大
御神・天津神・国津神・八百万神などで、 
社殿には至る所へ天保美術の粋を集めた彫刻が施され、約40年の歳月を費やした
といわれているそうだが、時間がないのでゆっくり鑑賞できなかった。 残念!

鳥居の先の賢木門を潜るとようやく本宮に到着。 ここまで785段で海抜251m。
祭神は大物主神と崇徳天皇で、農業・殖産・医薬・海上守護の神として古くから
信仰されている。

(賢木門、本宮→向かって右の神饌殿)
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本宮前には神木のクスノキがあり、幹の周りは約4.7m、高さは約25mあるそうだ。
本宮の北東側を望むと、さっき登った飯野山が見える。
飯野山を造ったといわれる“おじょも”という大男が、出来上がった飯野山とこの
金刀比羅宮の鎮座する琴平山(象頭山)に足をかけて用を足したところ、その間に
大きな土器川が出来たという伝説があるそうだが、二つの山は約10kmも離れて
いる。 どうも讃岐の人はほら吹きのようだ!

更に進むと、951段で白峰神社だ。
今から約820年前に建てられたもので、崇徳天皇と天皇の母親の待賢門院が祀られ
ているそうだ。

奥社はこれからさき石段を417段登らなくてはならず、未だ15~20分かかるそ
うで、時間がない為に今回は残念ながら参拝できなかった。
奥社は正式には“厳魂神社”といわれ、金刀比羅本教教祖の“厳魂彦命”が祀られ
ているそうだ。 又三十数年後に参拝するとしよう!


備後国分寺

2008年12月06日 | 神 仏
神辺城跡からの帰りに備後国分寺に立ち寄った。

この国分寺、創建当時は東西180mの広大な寺域の、現在より南の位置に古代山
陽道に面して建てられていたが、その後、山名氏と大内氏の合戦で焼失したり、上
流の池の決壊で廃滅するなどの災難に遭ったらしい。

(配置図)

現在は、創建当時よりずっと北側へ、江戸時代水野氏により再建されている。

という訳で、長い参道の両脇に植えられた松並木の間を進むと、ようやく仁王門と
中門に到着する。

門前には、菅茶山(本名:菅波晋帥、ときのり)と兄弟子の西山拙斎が、和歌や花
を愛でた当時の住職如實上人に贈った連句が刻まれた碑や、菅茶山の詩碑が建て
られていたが、浅学な私にはチンプンカンプンだった。

(連句、詩碑)

門を潜ると本堂があり、“醫王閣”の扁額が掲げられていた。
ご本尊は薬師如来、東方浄瑠璃世界の教主で衆生の病気を治してくれる仏だそうだ。
最近、家内に「貴方、最近少しボケてきたね!」といわれ始めたので、痴呆症になら
ないようによくお願いをしておいた。

ご住職からは、色々な説明を親切にして頂いた上に、富有柿まで頂戴した。感謝!

国分寺
聖武天皇の在位中災害や疫病(天然痘)が多発して社会不安が起き、それを仏教
の力で鎮める為、天平13年(741年)各国(66)に国分尼寺と共に一つずつ国府のそ
ばに建立されたお寺。

律令体制が弛緩すると共に国分寺や国分尼寺の多くは廃れたが、その後も宗派をか
えて存続したり、或いは再興されたりして現在でも存続しているお寺も多い。

備後国分寺概歴
・天平13年( 741年)、聖武天皇の詔により全国66ヶ寺の一寺として建立されたが、
            以後800年間の興廃については不明。
・天文7年(1538年)、大内氏と山名氏による神辺の合戦により兵火を受け焼失。
・天文19年(1550年)、舜洪上人により再建し、本尊薬師如来の供養が行われた。
・天文20年(1551年)、毛利元就が参拝し香華料を献上。
・永禄4年(1561年)、神辺城主杉原盛重が二十貫の土地を寄進して香華料とし、
            七間四方の草葺きの本堂を建立。
・慶長5年(1600年)、福島正則が芸備二国を領すると荘園を悉く没収。
・延宝元年(1673年)、大雨による大原池の決壊により伽藍廃滅。
・           その後、快範上人が晋山して現在の地に伽藍を移す。
・元禄7年(1694年)、福山城主水野勝種候より金穀役夫並びに用材が給付され、
            本堂を再建。
・元禄10年(1697年)、客殿庫裏、
・宝永4年(1707年)、梵鐘、
・元文5年(1740年)、仁王門が建立され、今日ある伽藍がほぼ整った。


日本一の石燈籠 

2008年12月02日 | 神 仏
“恋しき”の直ぐ隣の金刀比羅神社には“日本一の石燈籠”があるというので訪ねてみた。

鳥居を潜ると右手に石碑があり、正面にそのでかい石灯籠があった。
石碑の碑文を読むと、
「福山城主阿部伊勢守の家老代理を務めていた当所林新五郎が発起して金刀比羅宮
 を建立」
「次いで日本一の大石燈籠を思い立ち、近郷二十ヶ町村の人夫2万余人の寄進と銀
 5貫匁の浄財により、8年の年月を費やして天保12年(1841年)に高さ8.9m、笠石
 の面積4畳半余の大石燈籠がようやく完成」 と書かれていた。

拝殿の後ろにはこじんまりとした本殿があった。

この時代、全国的に気候不順で、平年の3~4分作の凶作が何年も続いた天保飢饉
(江戸三大飢饉の一つ、天保4~10年、1833~1839年)の真っ最中で、天保8年に
はあの有名な大塩平八郎の乱も起きている。
福山藩も同様に凶作だったわけで、碑文に書かれているような“人夫の寄進”や
“浄財”などが集まったとはとても信じられない!



式内社・高諸神社の摂末社

2008年11月29日 | 神 仏

高諸神社の境内にも、田盛神社、水神、弁財天(闇龗)、加佐守神社(大己貴命)、
王子神社、荒神社、稲荷神社などの小さな神社があった。 これらは摂末社と呼ば
れるそうだ。

それ以外にも、面白いものがあった。
大三嶋大明神・大宰府天満宮・金毘羅大権現・明治神宮などの拝礼所・遥拝所だ。
石柱に神社名を刻んであるだけの安上がり末社(?)で、現代風インスタント参拝
が出来ると言うわけだ!

極め付きは、本殿の裏手にひっそりと鎮座するこの神様だ!
備え付けの容器に入っている砂を疣に塗ると神の神威で治り、疣が取れた人は頂い
た砂の3倍くらいを容器に返す事になっているらしい。

神様が鎮座する場所が場所だけに、ひょっとして疣痔に効くのかと不敬な事を考え
ながら容器を覗いて見ると、砂はほんの僅かしか入っていない。 
利用する人がいないのか、或いは効果が無いのかつい気になってしまった!

摂末社(せつまつしゃ)(又は、枝宮・枝社)
神社本社以外に、その神社が管理している小規模な神社を併せて摂末社と呼ぶ。
一般的には、その神社の祭神と縁故の深い神を祀った神社を摂社と呼び、それ
以外の神を祀った神社を末社と呼ぶ。

式内社
延長5年(927年)にまとめられた“延喜式”に、当時官社とされていた全国の神社
名が載せられていて、これを延喜式神名帳と呼んだ。
この延喜式神名帳に記載されている神社を延喜式内社(又は式内社)と呼び、記載
されていない神社を式外社(しきげしゃ)と呼んだ。
延喜式神名帳に記載されている式内社は、官幣大社(198社)・国幣大社(155社)・
官幣小社(375社)・国幣小社(2133社)をあわせると全国で2861社ある。