里山の山野草

里山と山野草の復活日記。

高諸神社の伝承

2008年11月28日 | 神 仏
家内が友人の車を譲って貰ったので、名義変更手続きに行って来た。
何と、車検証・住民票・印鑑を持参し、申請用紙代35円を支払うだけでいとも簡
単に済んでしまった! 業者に依頼すると2万円くらいかかるらしい?
「行って来てあげる」とすすんで引き受けたのだが、その実は予てから松永・今津
町の“高諸神社の伝承”が気にかかっていたので、行って見たかったからだ。

この神社、古山陽道の南に建てられ、その直ぐ南には国道2号線が走っている。

嘗ては松永湾の出島だった場所に建てられているそうで、拝殿と本殿は一段と高い
所にある。  石段の両脇には、大正14年に建てられた高さ6mの二つの大きな
標柱があり、「赫矣威靈傳寶劔」、「巍然廟宇帯郷雲」と刻まれている。
「霊力のこもっている御神体の劔は光のように輝いている」
「高い所に建っている社には平和の印である雲がかかっている」の意味だそうだ。

石段を上ると立派な拝殿があり、その奥にはこじんまりとした本殿(→)があった。
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由緒を読むとこれが面白い。
「新羅の王子が、676年に戦乱を避けて日本に向かう途中に遭難し、当地で助けら
 れたが1年後に死亡した」と書かれている。

当時の朝鮮半島は、唐の援軍を得た新羅が、
・660年に百済を滅ぼし、
・663年に白村江の戦いで百済・倭国連合軍を破り、
・668年に高句麗を滅ぼし、
・670~676年にかけて、旧百済領を占領していた唐を追い出し朝鮮半島をほぼ統一
 した時代だ。
この最後の唐を追い出す大事な局面で王子たるものが戦乱を避けて逃げ出すとは妙
な話だ。しかも暫く前に戦った相手の倭国を目指すとはますます解せない!
ひょっとしてかの王子、唐の側についていたので亡命せざるを得なかったのだろうか?

由緒のもっと面白いくだりはその次だ。 助けた田盛の夢枕に立ち、
「我は須佐之男命なり、新羅の国王に降誕し、日本を慕ってやって来た」
と告げたそうだ。

須佐之男命といえば、
姉の天照大神に高天原を追放され、出雲の鳥髪山(現在の船通山)に降り立って
八岐大蛇を退治し、大蛇に喰われる事になっていた櫛名田比賣を娶って大国主命
などを産ませたという神だ。
この神があろう事か、新羅の国王に生まれ変わって日本へやって来たというのだ。
ここまで来るともうハチャメチャの神話の世界で、私のコンピューターでは処理不
能だ!

伝承では、須佐之男命の佩劔が本殿地下に埋められているそうだが、未だ見た人は
居ないそうだ。 本殿から地下に通ずる穴が開いているというし、一寸ファイバー
スコープで覗いて、ハチャメチャ君の話が本当かどうか確かめてみたい気がする!

境内には、柏の神木があったが枯れてしまい、神社南側には目通り周囲3.7m、地
上2mで分岐した樹高約10mの巨木(→)が残っていて、福山市の天然記念物に
指定されている。 柏はイブキビャクシンともいい、海岸地方に多く自生する樹木
でこれだけの巨木は県下でも有数という。 いずれにしても歴史の古い神社である
事は間違いない!
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諸神社(お劔さん)の由緒
祭神:須佐之男命、劔比古神
由緒:旧沼隈郡内で三座の一つに挙げられ、全国でも数少ない格式の高い延喜式
   式内社。 中古には大劔明神と称された。
   「水野記」によると、神辺城主  忠興が古志豊清を攻めた際に炎上した為
   天文14年(1545年)に古志豊清が再興した。
   承応 3年(1654年)福山城主水野美作守が社殿を再建。
   明治に至り、社名を旧称の諸神社に復す。
   現在の社殿は大正2年に再建されたもの。
伝承:天武天皇白鳳5年(676年)に新羅王子が戦乱を避けて日本へ向かう途中に
   遭難し、今津の海岸に漂着した。
   今津の庄司(当時の庄屋のような職)田盛が王子を助け、西の山上に御殿を
   建て手厚く看病したが翌年に没す。
   次の年、田盛の夢枕に新羅王子が現れ、
   「我は須佐之男命なり、新羅の国王に降誕し日本を慕ってやって来た。
    祠を構え、我が佩劔を祀れ」
   と告げたという。
   田盛は早速この地にお宮を建て、佩劔をご神体とし“大劔明神”として祀っ
   たが、今でも“お劔さん”と呼ばれ1330年余連綿として信仰されている。


備前一宮、吉備津彦神社

2008年11月07日 | 神 仏
先日岡山からの帰りに、備前一宮の吉備津彦神社に立ち寄った。
 
一宮というのは、奈良時代に中央から派遣された国司が一番最初に参拝した神社の
事で、その国の中では最も社格が高いとされている由緒ある神社だ。

大きな鳥居をくぐると左右に池がありいずれも広大だ。
夏至の日の出には鳥居の真正面から日が射し、神殿の鏡に映る事から「朝日の宮」
ともいわれ、古代の太陽信仰を原点に吉備津彦神社が創建されたことを象徴してい
るのだそうだ。

更に進むと、左右に一対の大きな石燈籠があり随神門に続く。
この一対の石燈籠、高さが11m・笠石は8畳敷きの広さがあり日本一と言われて
いる。 
地元有志の発起により、備前一円、浅口郡を中心に広く寄進を募り、天下泰平・国
家安全・万民豊楽・五穀成就などを念願して奉納されたもので、寄付者は1670名、
浄財は実に5676両(約1億3千万円)にのぼったそうだ。

完成したのは日米修好通商条約が結ばれた1858年だというから、或いは「外国が攻
めて来る」という恐怖も手伝ったのであろうか?

その奥には、拝殿に続き祭文殿・渡殿・本殿があり、いずれも荘厳な造りだった。

背後の吉備の中山には、巨大な磐座(=いわくら、神が鎮座する岩)などがあり、古
くから神の山として敬われて来たそうで、吉備津彦命もこの山に祈って吉備国を平
定したという。 
毎年5月の第2日曜日には、神社の案内の下に磐座を登拝巡拝する「磐座祭」が行
われ、一般の参加者も多いそうだ。

嘗て、吉備国を支配していた勢力と大和王権が戦ったこの吉備中山の一帯、東には
同じく吉備津彦命を祀った吉備津神社があり、南には御陵墓(吉備津彦命の墓)も
ある。 興味は尽きない!

吉備津彦命
第7代霊天皇の皇子で本来の名前は五十狭芹彦(いさせりひこ)といい、
第10代崇神天皇の命により北陸・東海・西道・丹波の各地を平定する為に派遣
された4将軍(四道将軍と呼ぶ)の一人で、腹違いの弟である稚武彦命と共に西
道(山陽道)を制した功績により吉備津彦命と名乗る事になった。
 
吉備津彦命というのは、本来”吉備の男”や”吉備の支配者”を表す呼び名で、何
代にも亘って用いられていて分かり難い為に、吉備を平定した吉備津彦命は大吉備
津彦命と呼ばれている。

吉備津彦命は元々吉備国一宮の祭神として祀られたが、律令制の成立に伴い吉備国
が備前・備中・備後に分割された際、各国の一宮の祭神として分祀された。


舅の村の祭り

2008年11月04日 | 神 仏
昨日は、舅の村の八幡神社のお祭りがあった。
お祭りの日には昔から客を呼ぶのが習慣の村だけに行かないと寂しがるので、
出来るだけ行くようにしているが、何しろスッカリ人口が減ってしまい祭りも盛り
上がらない!

お祭りは、
午前中は集落内を猿田彦を先頭に鉦や太鼓で練り歩き、午後は神社の境内に
集まった各集落の鉦や太鼓の競演をする。 

その後、幟と槍を先頭に神社がある丘の周りを回ってお終いとなる。

今年は私の息子も行ったので、舅もスッカリご機嫌だった。
年寄りだらけのこの限界集落、何時までお祭りをやって行けるのか気にかかる!


ミニ、八十八ヵ所霊場巡り

2008年10月31日 | 神 仏
亀山の北に向かう途中、民家の庭先にはフジバカマとコンギクが綺麗に咲いており、
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道路脇の辻堂の前には番号とお寺の名前が彫られた石仏が立っていた。

(辻堂→フランスギク)
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暫く行くと真言宗のお寺があり、その裏山にも番号とお寺の名前が彫ってある石仏
が点々と立っていた。 四国八十八ヵ所霊場巡りのミニ版だ。

嘗ては全国にこういった霊場が数多くあり、私の地方でも村の道路脇やお寺の周
辺などにこのようなミニ版が数多くあったが、今は信仰する人が殆どいなくなりス
ッカリ寂れてしまっている。 

(真言宗のお寺、尾根道の石仏→34番種間寺の石仏)
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この裏山のミニ版は、今もって巡拝する人が居るせいか良く整備されていた。
しかも、標高103mのこのミニ霊場、見晴らしも良い。

例え私のような無信心者でも運動不足の人間には格好の場所で、満更捨てたもので
はない!

(三角点→眺望)
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四国八十八ヵ所霊場巡り
承和2年(835年)に弘法大師が高野山の金剛峰寺において62歳で入定した後、
弘法大師に対する信仰が起こった。

平安末期から鎌倉時代には、
大師ゆかりの地(若い時に修行した四国の各地に、815年の42才の時に建立したお
寺やお堂)を、真言宗の僧が修行を兼ねて巡歴したが、

やがて室町末期から江戸初期にかけて、
一般庶民も参加するようになって八十八ヵ所の霊場が固定し、その後全国各地に大
小様々な巡礼地が作られ、広く信仰されるようになった。


金屋子神

2008年10月14日 | 神 仏
“おっぱら越え”から公園センターの近くまで帰った所で、鉄穴(かんな)流しの
洗場跡があった。 昔、鉄をつくる為に砂鉄を集めた所らしい。

その隣には、金屋子神(かなやごかみ、かなやこかみ)を祀る神社もあった。
金屋子神は、一般には女神であるとされ、鍛冶屋に信仰される神だそうだ。

島根県・広島県・岡山県にまたがる中国山地では昔から製鉄業が盛んで、製鉄に必
要な木炭を作る為に多くの山林に落葉樹を育てては伐採したという。

製鉄法が近代化された後に木炭は必要でなくなり、伐採された跡地もその後牧場と
なったもののやがてそれも廃れ、今はその跡地の残り少ない“禿山=毛無山”で山
野草を見る事が出来る。 
今日も、残り少ない秋を一生懸命咲いている花達を楽しませて貰った!
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大鬼谷の雌滝・雄滝

2008年09月21日 | 神 仏

大鬼谷オートキャンプ場を上流へ遡って行くと二つの滝があった。

下流の雌滝は落差15mで、昔この滝から“謄視正衣冠尊”の6文字が書かれた鏡が
見つかり、鶴岡八幡神社の社宝とされているという。
鶴岡八幡神社といえば源氏の氏神とされているそうだ。 或いは嘗てこの地を源氏
の領主が支配していた(?)事から奉納されたのであろうか?

上流の雄滝は落差21mで、滝壺には龍が棲んでいるというが、水量が少ない為に
滝壺といわれるほどの深みは無かった?

その上には高龗神社の小さな祠(→)があった。
祭神は、高龗神(たかおかみのかみ)で、伊邪那岐神が迦具土神を斬り殺した際
に生まれた神とされている。“高”は山の上を意味し、“龗”は龍を意味しており、
山にあって龍(神)が水や雨を司り、穀物を豊かに稔らせてくれるとして信仰され
ているという。
雨の少ない瀬戸内海地方では、神頼みしなければならないほど旱魃で苦しんだとい
う名残りであろう。
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引き返す途中で、赤褐色の小さな蛇が死んでいた。
まさか雄滝に住む龍でもあるまいが、“ヒバカリ”で猛毒という声も聞かれた。

帰って調べて見ると、
赤褐色の蛇はシマヘビの幼蛇で、成蛇には黒化型もいて“カラスヘビ”と呼ぶらしい。
どちらも初めて知った!

(左:シマヘビの幼蛇、右:シマヘビの成蛇)



備後国、総社神社

2008年07月12日 | 神 仏
予てから気にかかっていた、備後国の総社神社を訪ねてみた。

場所は、JR府中駅の少し北の、小高い丘の上にある小野神社境内だ。
神社のある丘一の鳥居
二の鳥居

石段を登ると、正面に立派な拝殿と本殿があった。

ところが、これが総社神社かと思いきや実は小野神社で、総社神社は向かって右側
の極めて慎ましい社で、備中国総社宮(下段)とは大違いだった! 

小野神社の由緒を見ると、嘗て総社神社の社地だった場所へ、江戸時代初期に建て
られたらしい。
どんな事情があったのかは分からないが、まるで落ちぶれた大家が掘っ立て小屋に
住み、大家の土地に羽振りの良い店子が居座った感じがしなくもない!

奈良時代には、国司が中央から赴任した時には、国内の全ての神社へ参拝するのが
習わしになっていたといい、
平安時代になると政務多忙を理由に、国府(国の首都)の近くに国内の全ての神々
を祀る総社を設け、巡回して参拝する事を省くようになったという。

嘗てこの丘の上には総社として似つかわしい神社が建てられており、丘の下に広が
る国府を見下ろしていたのであろうが、今はそのどちらも見る影は無い!

(丘の上から見下ろした府中の町)

小野神社の由緒
社地は、元総社神社の社地であったが、貞享5年(1688年)にここへ奉祀した。
社殿は昭和9年に再建された。 元町の産土神で、祭神は押媛神と吉備武彦神。
(押媛神)
孝安天皇(在位:前392~291年)の妃。

(吉備武彦命)
父の稚武彦命は、
孝霊天皇(在位:前290~215年)の子で
吉備津彦命の異母弟。 吉備氏の祖。



石鎚信仰

2008年07月05日 | 神 仏
我が家の周辺には、石鎚の名前がついた山や神社が多い。

先ず、東西の丘の上に3箇所ある。
東の石鎚山西北の丘の石碑西の丘の石鎚神社

南に目を転じると、今まで行った三つの山にも夫々石鎚神社があった。
蔵王山の石鎚神社正戸山の石鎚神社上山守、石鎚山の石鎚神社

言うまでも無く嘗てあった石鎚信仰の名残りで、身近な山に石碑や神社を建てて盛
んに参拝していたらしい。 恐らくもっとたくさん至る所にあるのだろう。

しかし、石鎚信仰も今や見る影も無いほど廃れてしまい、余程熱心な人が居る地域
でなければこれらの施設の維持や、本家の石鎚神社への参拝も出来なくなっている。

実は、この石鎚山のご本家へ登る事にした。 今晩発ち明朝から登る予定だ。
何も、
「神の助けを借りて頂上に立ち、神と一体になった清々しい気持ちを体得する」
といった、殊勝な気持ちからではない。
どんな山か見たい事と、珍しい山野草を見たい一心の不純な動機からだ!

家内を誘っていたら、中高を四国の寮で過ごした息子が、
「本当に登るの?」 「マジできついヨ!」 と宣うた。
不信心者が登ると鎖が切れるとも聞く。 身に覚えがあるだけに少し心配だ!

石鎚神社と石鎚信仰石鎚神社のHPから引用)
石鎚神社は、麓にある本社、中腹にある成就社・土小屋遥拝殿、山頂にある頂上社
の4社を総称して“石鎚神社”と呼ぶ。
祭神は、伊邪那岐命と伊邪那美命の2番目の子の石鎚毘古神(イシヅチヒコノカミ、
別名:石土毘古命、石鎚大神)の一神だが、三つの神徳(仁・智・勇)を表す為に
三体の神像をお祀りしてあり、家内安全・病気平癒、農業・工業・商業・漁業の繁
栄と学業の成就、勇気・忍耐をすすめ、悪事を除き、危機を守護するなどのご利益
がある。

石鎚信仰は、
役の行者の開山以来、山そのものを神として仰ぎ登拝する中で、次の三つの教えを
体得する事にある。
・先ず、海や川、滝に入り心身を清める。 これが人間浄化の第一歩となる。
・次に、試しの鎖、第一、第二、第三の鎖(合計距離、約230メートル)を登る。
 これにより、邪心を捨て鎖にすがる事で無我の境地を体験する。
・この命がけの行を終え頂上に達すると人間は自然と一体になり、神の心に触れ神
 と一体になった清々しい境地になって心が鎮まる。


南宮神社の別当寺

2008年07月01日 | 神 仏

“あじさい寺”の神宮寺は、面白い寺だった。
裏山にある南宮神社の別当寺だったそうで、その境内にお寺の鐘楼があるのだ!
本来なら、明治新政府の施策で神仏を分離させられる筈だったのだが、何故か鐘楼
だけ神社の境内に取り残されたらしい。

説明文を読むと、
初代の梵鐘は、広島藩主・福島正則が広島へ持ち帰ろうとして尾道沖で沈没し、
2代目は、1855年のペリー来朝の際、外国船に備えて大砲に改鋳する為に徴発さ
れ、それ以来平成16年に至るまで梵鐘が無かったと言う。

流石に明治新政府も、空っぽになった鐘楼を「境内から移動しろ!」とはいい難か
ったのだろうか? 今となっては定かではないが、いずれにしても150年も梵鐘の
無い鐘楼はさぞや寂しかったであろうと同情する!
お寺の遠景お寺の近景
南宮神社にある鐘楼


孝霊天皇を祀った南宮神社の近くには孝霊塚という古墳もあった。
古墳には宝筐印塔(供養塔)が立っていて、孝霊天皇の御陵(天皇のお墓)と言い
伝えられているそうだ。
息子は四道将軍として山陽道を制圧した吉備津彦命で、備前・備中・備後にある
吉備津神社の祭神として祀られている。 
父子共に神話の世界の人達で、実在したかどうかについてははっきりしないらしい
のだが、こうして神社に祀られていると嘗て実在した人物と感じてしまう。
宗教とは不思議なものだ!
(南宮神社)
主祭神は第7代孝霊天皇などで創建は
807年。昔は新市の吉備津神社と肩を並べる
備後三大社のひとつであった。
神社に鐘楼があるのは神仏習合時代の名残
りで、広島県内には二社、全国でも二百余
社しかなくて珍しい。
(孝霊塚)
孝霊天皇の御陵と伝えられる古墳で、
・孝霊天皇が退位後、仙洞(退位した天皇の
御所)として住んでいたが、死後そこに御
陵が築かれた と言う説や、
・息子の吉備津彦命が四道将軍として吉備国
に滞在中、孝霊天皇を偲んで分霊を祀る御
陵を築いた、と言う説がある。

神仏習合
一般的には、新しく入って来た仏教への信仰と、それまでにあった神祇信仰、つま
り天津神(高天原に居る神々)や国津神(地に現れた神々)への信仰とが合わさっ
て、一つの信仰体系として信仰された事を指す。

奈良時代(710~794年)から平安時代(794~1185年)にかけて、
仏教が広まるに連れて神にも人間と同じように、迷いや苦しみがあると考えられる
ようになり、神社にお寺を建立して仏の救済を求めるようになった。
このような神社で、祭祀を仏式で執り行う者を“別当”や“社僧”と呼び、別当の
居る寺を“別当寺”、“神宮寺”、“神護寺”、“宮寺”と呼んだ。
又、一方では、逆にその寺院に関係のある神を守護神とする動きも現れた。

お 寺神 社
延暦寺日吉大社
興福寺春日大社
金剛峰寺丹生神社
東 寺伏見稲荷
東大寺宇佐八幡

更に平安時代(794~1185年)には、
神々は仏の化身であるとする“本地垂迹説”が広まり、それまで異質のものと考え
られていた神仏が、全く同質の仏そのものであると考えられるようになった。

明治時代(1868~1912年)になると新政府は、
1868年には、“神仏分離令”により、神仏習合を禁止し、
1870年には、“大教宣布”により、天皇に神格を与え神道を国教と定めて、日本を
      祭政一致の国家とする方針を定めた。
      その為に、神社から仏教的な要素を全て払拭する“廃仏毀釈”運動を
      引き起こして日本中が大混乱に陥り、
1871年に至り、ようやく混乱が収まったものの、回復には長期間を要した。


遙照山の神仏と岡山県発祥の宗教

2008年06月21日 | 神 仏


遙照山の頂上には“両面薬師堂”があった。
唐から帰った慈覚大師が平安前期に開山したと伝えられ、本尊の石仏は南側が薬
師如来で北側が釈迦如来という珍しい一体の像である為に“両面薬師”と呼ばれ、
昔から信仰を集めているそうだ。

“如来”と言えば仏の最高の位だし、しかも薬師如来は人々の病気や障害を治して
くれる仏で、釈迦如来はお釈迦さんそのものだ。 
庶民にしてみれば、お堂をぐるっと回ってこの2仏を拝みさえすれば何でも願いを
叶えて貰えそうだと考えても不思議は無い。 信仰する人が多い理由は分からなく
もないが、それにしても横着な事を考えたものだ!


山頂から遙照山ホテルへ向かって少し下った所には“日月水火神社”という新しい
神社があった。 “ヒツキキビ神社”と読み、宗教法人“三穂の家(やかた)”が、
 ・大元皇大神 (だいげんすめおおみかみ)
 ・国常立大神 (くにとこたちのおおかみ)
 ・神素盞嗚大神(かむすさのおのおおかみ)
を祀っているのだそうだが、拝殿などの撮影は禁止されていた。

この宗教の他にも、何故か岡山県から生まれた宗教団体は多いそうだ。

そう言えば最近TVで“釈尊会”の代表の急逝が伝えられたが、この人の奥さんは
女優の若村麻由美さんだったし、
何年か前にTVで人を霊視して人生のアドバイスをしていた、三穂希祐月さんが代
表を務めている宗教団体が“三穂の家”で、伯備線豪渓駅から東方の“三穂の郷”
で農業や文化活動をしている会社もこの宗教団体の関連企業らしい。

時折TVなどで話題になるが、宗教団体が行っている活動や教義などについては意
外に知られていないものだ!

(岡山県発祥の宗教団体)
 ・“金光教”
 ・“黒住教”
 ・“ほんぶしん(天理教系)”
 ・“釈尊会”
 ・“三穂の家(さと)”