矢掛町の東の端に「吉備大臣宮」と言う看板があり、かねてから気にかかっていた
ので今日初めて寄って見た。
すると、手が届くほど小さな鳥居にこじんまりとした社があり、その傍に不釣合い
な大きさの巨人の銅像が立っていた。
家にも入れず外でしょんぼり立っている6mを超す巨人は吉備真備で、社は彼を
祭っている神社だったのだ。
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碑文には、
この地で695年に下道国勝(しもつみちと読むらしい)の長男として生まれ、
唐へ最初は留学生として、次は遣唐使副使として2度にわたり渡航。
才能を買われ時の玄宗皇帝から引き止められたが、735年に帰国。
その後、新暦や律令を定めたり、カタカナの制定をするなど数々の業績により、
正2位右大臣まで昇進し、帝から備中国下道郡の領地と吉備姓を貰ったと書かれて
いた。
当時の中国は世界の最先端を走っており、日本としては学ぶ事が多く、それを持ち
帰っただけで出世したのではないかと下種の勘繰りをしたくなるが、やはり2度に
わたり選ばれたからには相当な才能があったのであろう。
それにしても40歳になる迄海外出張とは!
その間妻子はどうしていたのかは分からないが、現代なら即離婚ものだし、幾ら中
央のキャリアー官僚として出世できるとは言え、海路命がけで渡航するからには家
族の反対も相当大きかったと思われるが、真相はどうであったのだろう。
国家の命令で嫌々ながら仕方なく行ったのか、それとも国家建設の礎にと使命感に
燃えて行ったのか、彼に聞いて見たい気がする。
もう一つ意外な物があった。「囲碁発祥の地」と書かれた大きな石碑と石の碁盤で
ある。 囲碁を彼が中国から伝えたとは全く知らなかった。
先人達が苦労の末に残した多くの物のほんの一部を垣間見た気がした。
ので今日初めて寄って見た。
すると、手が届くほど小さな鳥居にこじんまりとした社があり、その傍に不釣合い
な大きさの巨人の銅像が立っていた。
家にも入れず外でしょんぼり立っている6mを超す巨人は吉備真備で、社は彼を
祭っている神社だったのだ。
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碑文には、
この地で695年に下道国勝(しもつみちと読むらしい)の長男として生まれ、
唐へ最初は留学生として、次は遣唐使副使として2度にわたり渡航。
才能を買われ時の玄宗皇帝から引き止められたが、735年に帰国。
その後、新暦や律令を定めたり、カタカナの制定をするなど数々の業績により、
正2位右大臣まで昇進し、帝から備中国下道郡の領地と吉備姓を貰ったと書かれて
いた。
当時の中国は世界の最先端を走っており、日本としては学ぶ事が多く、それを持ち
帰っただけで出世したのではないかと下種の勘繰りをしたくなるが、やはり2度に
わたり選ばれたからには相当な才能があったのであろう。
それにしても40歳になる迄海外出張とは!
その間妻子はどうしていたのかは分からないが、現代なら即離婚ものだし、幾ら中
央のキャリアー官僚として出世できるとは言え、海路命がけで渡航するからには家
族の反対も相当大きかったと思われるが、真相はどうであったのだろう。
国家の命令で嫌々ながら仕方なく行ったのか、それとも国家建設の礎にと使命感に
燃えて行ったのか、彼に聞いて見たい気がする。
もう一つ意外な物があった。「囲碁発祥の地」と書かれた大きな石碑と石の碁盤で
ある。 囲碁を彼が中国から伝えたとは全く知らなかった。
先人達が苦労の末に残した多くの物のほんの一部を垣間見た気がした。