昨日は、家内に内緒でお糸さんに逢いに行って来た。
お糸さんは16歳。 隣町の服部大池に住んでいる。
(服部大池)
実は、このお糸さんの事、残念ながら浮いた話ではない。
今から365年前に、かんがい用に服部川を堰き止めて服部大池を造る際、土手の
決壊を恐れた人々のせいで人柱にされ、土手の奥底に眠っている。
恋人も後を追って自殺したと言い、それを哀れんだ人々が二人の霊を慰める為に、
池の傍の丘の上に水天宮を祀りその下に松と槙を植えたと言うが、木は昭和50年
代に2本とも落雷で枯れ、今はその木をご神体に「お糸大明神」として祀られている。
お堂の脇には、“お糸嬢碑”が建てられていて、
碑文には「松と槙 しかとむすびて とこしえに みどりいろこく 天をつくまで」
と書かれているが、切り株だけとあってはいかにも虚しい思いがする!
土手には、昔は無かった“人柱 お糸の像”なるものが建てられ、毎年11月3日には
お糸を偲んで慰霊祭が開かれているらしい。
像には、手に千搗棒(石垣の間へ入れた小石を搗き固める棒)を持ったお糸、天空
霊界からやって来た天女と天童達、蛇円山八大龍王の使神(龍)などが彫られてい
て、いかにもこれから天界に迎えられると言う趣だ。
現代人でもそのように考えたい気持ちは分かるが、私などは、本当のところは病気
の母親を持った貧乏人の娘に因果を含めて人柱になる事を引き受けさせたのでない
かと考えてしまい、綺麗ごとに仕立てるのはあまり感心しない。
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土手の下流は都市化が進み、今では田畑が少なくなってしまい灌漑用水の必要性は
余り無くなってしまった。
しかし、下流には細い水路しか無い為に、これから先も少なくとも治水ダムとして
の役目は大いに果たしてくれる事は間違いない。
お糸さんのお陰でこれからも安心して暮らせると考えたい!
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服部大池
春日池、瀬戸池などと共に、江戸時代にかんがい用に造られ「備後三大池」と呼ば
れている。
服部大池は、福山初代藩主・水野勝成の命により、領内240ヶ所の農民を動員し
て2年の歳月をかけ、服部川を堰き止めて造られた周囲約4kmの灌漑用の貯水池
で、嘗ては20ヶ村の田畑を潤した。
堤高 15m、堤頂長 190m、堤体積17000㎥、総貯水容量 65万トン。
お糸伝説
貯め池の築造は大変な難工事で、当時の習しで水神様に「人柱」を捧げて末代まで
の土手の安全を祈願する事になった。
ところが、当然人選が非常に難しく、「着物に横継ぎが当たっていて、未婚の娘」
を人柱にする事に決まり、病気の母親に代わって夫役に出ていた16歳のお糸さん
がその条件に当てはまり、人柱にされる事が決まった。
やがて、お糸さんは土手の底深くに生き埋めにされ、これを嘆いたお糸さんの恋人
も後を追って池に身を投げて死んだと言う。
それを哀れんだ人々は、お糸さんと恋人の霊を慰める為に、池のほとりの丘の上に
弁財天を祀り、丘の下には松と槙を植えたところ、2本の木は根と根が絡み合い、
枝と枝がもつれ合って大きくなり、“比翼の松”或いは“お糸の松”と呼ばれ、
「人柱お糸」の話と共に語り伝えられている。
お糸さんは16歳。 隣町の服部大池に住んでいる。
(服部大池)
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土手の外側 | 土手の内側 |
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池の上流に見える蛇円山 | 平成時代に改修された取水塔 |
実は、このお糸さんの事、残念ながら浮いた話ではない。
今から365年前に、かんがい用に服部川を堰き止めて服部大池を造る際、土手の
決壊を恐れた人々のせいで人柱にされ、土手の奥底に眠っている。
恋人も後を追って自殺したと言い、それを哀れんだ人々が二人の霊を慰める為に、
池の傍の丘の上に水天宮を祀りその下に松と槙を植えたと言うが、木は昭和50年
代に2本とも落雷で枯れ、今はその木をご神体に「お糸大明神」として祀られている。
お堂の脇には、“お糸嬢碑”が建てられていて、
碑文には「松と槙 しかとむすびて とこしえに みどりいろこく 天をつくまで」
と書かれているが、切り株だけとあってはいかにも虚しい思いがする!
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松と槙が生えていた場所に建てられた祠 | |
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傍の丘に祀られている水天宮 | 傍の丘に祀られているお月大師 |
土手には、昔は無かった“人柱 お糸の像”なるものが建てられ、毎年11月3日には
お糸を偲んで慰霊祭が開かれているらしい。
像には、手に千搗棒(石垣の間へ入れた小石を搗き固める棒)を持ったお糸、天空
霊界からやって来た天女と天童達、蛇円山八大龍王の使神(龍)などが彫られてい
て、いかにもこれから天界に迎えられると言う趣だ。
現代人でもそのように考えたい気持ちは分かるが、私などは、本当のところは病気
の母親を持った貧乏人の娘に因果を含めて人柱になる事を引き受けさせたのでない
かと考えてしまい、綺麗ごとに仕立てるのはあまり感心しない。

土手の下流は都市化が進み、今では田畑が少なくなってしまい灌漑用水の必要性は
余り無くなってしまった。
しかし、下流には細い水路しか無い為に、これから先も少なくとも治水ダムとして
の役目は大いに果たしてくれる事は間違いない。
お糸さんのお陰でこれからも安心して暮らせると考えたい!
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服部大池
春日池、瀬戸池などと共に、江戸時代にかんがい用に造られ「備後三大池」と呼ば
れている。
服部大池は、福山初代藩主・水野勝成の命により、領内240ヶ所の農民を動員し
て2年の歳月をかけ、服部川を堰き止めて造られた周囲約4kmの灌漑用の貯水池
で、嘗ては20ヶ村の田畑を潤した。
堤高 15m、堤頂長 190m、堤体積17000㎥、総貯水容量 65万トン。
お糸伝説
貯め池の築造は大変な難工事で、当時の習しで水神様に「人柱」を捧げて末代まで
の土手の安全を祈願する事になった。
ところが、当然人選が非常に難しく、「着物に横継ぎが当たっていて、未婚の娘」
を人柱にする事に決まり、病気の母親に代わって夫役に出ていた16歳のお糸さん
がその条件に当てはまり、人柱にされる事が決まった。
やがて、お糸さんは土手の底深くに生き埋めにされ、これを嘆いたお糸さんの恋人
も後を追って池に身を投げて死んだと言う。
それを哀れんだ人々は、お糸さんと恋人の霊を慰める為に、池のほとりの丘の上に
弁財天を祀り、丘の下には松と槙を植えたところ、2本の木は根と根が絡み合い、
枝と枝がもつれ合って大きくなり、“比翼の松”或いは“お糸の松”と呼ばれ、
「人柱お糸」の話と共に語り伝えられている。
橋や池などどうして人間だったのでしょう。
神様が人を捧げられて気を静めて下さるというのは
どういうところから考えられたのでしょうね。
よく若い娘という話が出てきます。何人の娘さんが
犠牲になった事やら・・・・
祠は子供のころにはよく眼にしていましたが意味は
知らずお地蔵様などと同じように思っていました。
今の世相、荒神さまもあきれておいででしょう。
それに対し、最も価値の高い人身をお供えとして捧げる、人身御供と言う風習が出来たのだそうです。
人柱は、霊や神に事前に人身御供として差し出し、自然が暴れるのを防ごうとしたのでしょう。
現代でも形を変えた人身御供が多いようです。
政治家の秘書、お役所や企業の中堅幹部などは、上から強制されたり、或いは自分の意思で(嫌々ながらでも)死んで行きます。
現代人から見ると、大昔の人柱などは理解できないし、自分が人柱にされる事を承諾する人はまず居ないでしょう。
でも、現代型の人身御供は残念ながらこれから先も続くと思います。 後の世が、このような死を何故選んだのか? と不思議に思われるような時代であれば良いのですが…?