“あじさい寺”の神宮寺は、面白い寺だった。
裏山にある南宮神社の別当寺だったそうで、その境内にお寺の鐘楼があるのだ!
本来なら、明治新政府の施策で神仏を分離させられる筈だったのだが、何故か鐘楼
だけ神社の境内に取り残されたらしい。
説明文を読むと、
初代の梵鐘は、広島藩主・福島正則が広島へ持ち帰ろうとして尾道沖で沈没し、
2代目は、1855年のペリー来朝の際、外国船に備えて大砲に改鋳する為に徴発さ
れ、それ以来平成16年に至るまで梵鐘が無かったと言う。
流石に明治新政府も、空っぽになった鐘楼を「境内から移動しろ!」とはいい難か
ったのだろうか? 今となっては定かではないが、いずれにしても150年も梵鐘の
無い鐘楼はさぞや寂しかったであろうと同情する!
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お寺の遠景 | お寺の近景 |
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南宮神社にある鐘楼 |
孝霊天皇を祀った南宮神社の近くには孝霊塚という古墳もあった。
古墳には宝筐印塔(供養塔)が立っていて、孝霊天皇の御陵(天皇のお墓)と言い
伝えられているそうだ。
息子は四道将軍として山陽道を制圧した吉備津彦命で、備前・備中・備後にある
吉備津神社の祭神として祀られている。
父子共に神話の世界の人達で、実在したかどうかについてははっきりしないらしい
のだが、こうして神社に祀られていると嘗て実在した人物と感じてしまう。
宗教とは不思議なものだ!
![]() | (南宮神社) 主祭神は第7代孝霊天皇などで創建は 807年。昔は新市の吉備津神社と肩を並べる 備後三大社のひとつであった。 神社に鐘楼があるのは神仏習合時代の名残 りで、広島県内には二社、全国でも二百余 社しかなくて珍しい。 |
![]() | (孝霊塚) 孝霊天皇の御陵と伝えられる古墳で、 ・孝霊天皇が退位後、仙洞(退位した天皇の 御所)として住んでいたが、死後そこに御 陵が築かれた と言う説や、 ・息子の吉備津彦命が四道将軍として吉備国 に滞在中、孝霊天皇を偲んで分霊を祀る御 陵を築いた、と言う説がある。 |
神仏習合
一般的には、新しく入って来た仏教への信仰と、それまでにあった神祇信仰、つま
り天津神(高天原に居る神々)や国津神(地に現れた神々)への信仰とが合わさっ
て、一つの信仰体系として信仰された事を指す。
奈良時代(710~794年)から平安時代(794~1185年)にかけて、
仏教が広まるに連れて神にも人間と同じように、迷いや苦しみがあると考えられる
ようになり、神社にお寺を建立して仏の救済を求めるようになった。
このような神社で、祭祀を仏式で執り行う者を“別当”や“社僧”と呼び、別当の
居る寺を“別当寺”、“神宮寺”、“神護寺”、“宮寺”と呼んだ。
又、一方では、逆にその寺院に関係のある神を守護神とする動きも現れた。
お 寺 | 神 社 |
---|---|
延暦寺 | 日吉大社 |
興福寺 | 春日大社 |
金剛峰寺 | 丹生神社 |
東 寺 | 伏見稲荷 |
東大寺 | 宇佐八幡 |
更に平安時代(794~1185年)には、
神々は仏の化身であるとする“本地垂迹説”が広まり、それまで異質のものと考え
られていた神仏が、全く同質の仏そのものであると考えられるようになった。
明治時代(1868~1912年)になると新政府は、
1868年には、“神仏分離令”により、神仏習合を禁止し、
1870年には、“大教宣布”により、天皇に神格を与え神道を国教と定めて、日本を
祭政一致の国家とする方針を定めた。
その為に、神社から仏教的な要素を全て払拭する“廃仏毀釈”運動を
引き起こして日本中が大混乱に陥り、
1871年に至り、ようやく混乱が収まったものの、回復には長期間を要した。
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