11月15日(月)に母が逝去しました。
行年九十七歳でした。
母が「サ高住・ルピナス館」に入居以来、ほぼ毎週日曜日には日用品や好物の果物を持って母を訪ねており、14日もいつもの通り施設を訪ねました。
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新型コロナ感染の危険性が高いため、会えなかったり、ドアのガラス越しにマイク・スピーカーを経由して話をする日が続いていましたが、この日は「15分間だけ会えるから通用口から入館して下さい。」と係の方から云われ部屋に母を訪ねることが出来ました。
前日から母は呼吸が荒く、意識も無いような状態で会話は出来ませんでしたが、耳元で呼びかけると聞こえているような反応が僅かにしました。
あっという間の15分間でしたが、脳裏には母に死期が迫っていることを確信して部屋を後にしました。
翌日は午後に入浴の予定でしたが、朝方は心拍数も落ち着いて居たとのことで特別に午前中に「入浴」をしてくれたそうですが、昼には昏睡状態に陥り、連絡を受けて駆けつけたときには既に心臓や呼吸も止まり、瞳孔も開いているおり主治医から「死亡」が告げられました。
令和3年11月15日、午後1時9分のことでした。
大正13年6月18日、新潟県三島郡出雲崎町で生を受け、昭和23年3月31日に北海道浦河郡浦河町の父の元に嫁ぎ、呉服商を興し苦労努力して軌道に乗せ、2男1女をもうけました。
辛抱と努力の人だったと思います。
葬儀は自宅で家族葬を以て執り行いました。
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みなさまには本当にお世話になり、有り難う御座いました。
行年九十七歳でした。
母が「サ高住・ルピナス館」に入居以来、ほぼ毎週日曜日には日用品や好物の果物を持って母を訪ねており、14日もいつもの通り施設を訪ねました。
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新型コロナ感染の危険性が高いため、会えなかったり、ドアのガラス越しにマイク・スピーカーを経由して話をする日が続いていましたが、この日は「15分間だけ会えるから通用口から入館して下さい。」と係の方から云われ部屋に母を訪ねることが出来ました。
前日から母は呼吸が荒く、意識も無いような状態で会話は出来ませんでしたが、耳元で呼びかけると聞こえているような反応が僅かにしました。
あっという間の15分間でしたが、脳裏には母に死期が迫っていることを確信して部屋を後にしました。
翌日は午後に入浴の予定でしたが、朝方は心拍数も落ち着いて居たとのことで特別に午前中に「入浴」をしてくれたそうですが、昼には昏睡状態に陥り、連絡を受けて駆けつけたときには既に心臓や呼吸も止まり、瞳孔も開いているおり主治医から「死亡」が告げられました。
令和3年11月15日、午後1時9分のことでした。
大正13年6月18日、新潟県三島郡出雲崎町で生を受け、昭和23年3月31日に北海道浦河郡浦河町の父の元に嫁ぎ、呉服商を興し苦労努力して軌道に乗せ、2男1女をもうけました。
辛抱と努力の人だったと思います。
葬儀は自宅で家族葬を以て執り行いました。
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みなさまには本当にお世話になり、有り難う御座いました。
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