1946年9月11日生まれ、メキシコ・プエブラ州シウダ・セルダン出身。165㎝、75kg (得意技)ゴリー・スペシャル
イルマ・ゴンザレスがルチャドーラの大御所ならば、ロメロはルーダのトップとして活躍し、そのライバルとして一時代を築いたのだ。超一流のルーダだったロメロは、大流血戦を得意とし、文字通り体を張ったファイトが売り物だった。
初来日は76年8月の「第2回ワールド・リーグ戦」で、この時はライバルのイルマも一緒だった。メキシコでは絶対にタッグを組むことは無いが、当時のWWWA世界タッグ王者ビューティー・ペアに何と二人で挑戦。これには二人とも戸惑ったが、さすがに歴戦の勇女同士。意地と意地がぶつかり合って、ビューティー・ペアは苦戦を余儀なくされたのだった。私はこの初来日の時にロメロと知り合ったが、いつもにこやかな柔和な表情を浮かべていたから、とても流血戦も辞さない選手には見えなかった。
30歳で初来日を果たしたが、松永会長は当時、「かねてから招聘したくて、やっと来日してくれたのがロメロなんだ。まさに10年越しだった…」と語ってくれたものだ。ロメロといえば、第2代オール・パシフィック王座に君臨していることが特筆できる。オルパは新設された時、ハワイで王座決定戦が行われたことから、ハワイアン・パシフィックの名称が付けられた。当初は初代王者の池下ユミに挑戦する話が、池下がTV番組の収録中に怪我をしてしまい王座を返上。マキ上田を破って新王者になったのだ。同王座は78年8月の日本武道館大会で、マキのリマッチを受けたが、これまた大流血戦の末に大敗した。
帰国後のロメロは、80年12月21日にエル・トレオでビッキー・ウイリアムスを下し、第6代UWA世界女子王座を奪取。敵対視するアメリカ人のウイリアムスを相手に地元の大声援を背に受け勝ち名乗りを上げたのだった。
ロメロはビール好きの酒豪で知られたが、日本でも毎晩のように飲むことが日課のようだった。私がメキシコに頻繁に行くようになってから、ロメロとは一回も会ってはいない。なぜなら、ロメロは89年に病死してしまったからだ。
イルマ・ゴンザレスがルチャドーラの大御所ならば、ロメロはルーダのトップとして活躍し、そのライバルとして一時代を築いたのだ。超一流のルーダだったロメロは、大流血戦を得意とし、文字通り体を張ったファイトが売り物だった。
初来日は76年8月の「第2回ワールド・リーグ戦」で、この時はライバルのイルマも一緒だった。メキシコでは絶対にタッグを組むことは無いが、当時のWWWA世界タッグ王者ビューティー・ペアに何と二人で挑戦。これには二人とも戸惑ったが、さすがに歴戦の勇女同士。意地と意地がぶつかり合って、ビューティー・ペアは苦戦を余儀なくされたのだった。私はこの初来日の時にロメロと知り合ったが、いつもにこやかな柔和な表情を浮かべていたから、とても流血戦も辞さない選手には見えなかった。
30歳で初来日を果たしたが、松永会長は当時、「かねてから招聘したくて、やっと来日してくれたのがロメロなんだ。まさに10年越しだった…」と語ってくれたものだ。ロメロといえば、第2代オール・パシフィック王座に君臨していることが特筆できる。オルパは新設された時、ハワイで王座決定戦が行われたことから、ハワイアン・パシフィックの名称が付けられた。当初は初代王者の池下ユミに挑戦する話が、池下がTV番組の収録中に怪我をしてしまい王座を返上。マキ上田を破って新王者になったのだ。同王座は78年8月の日本武道館大会で、マキのリマッチを受けたが、これまた大流血戦の末に大敗した。
帰国後のロメロは、80年12月21日にエル・トレオでビッキー・ウイリアムスを下し、第6代UWA世界女子王座を奪取。敵対視するアメリカ人のウイリアムスを相手に地元の大声援を背に受け勝ち名乗りを上げたのだった。
ロメロはビール好きの酒豪で知られたが、日本でも毎晩のように飲むことが日課のようだった。私がメキシコに頻繁に行くようになってから、ロメロとは一回も会ってはいない。なぜなら、ロメロは89年に病死してしまったからだ。