立野記代が現役引退を発表した。そういえばブル中野さんの店に顔を出した際、偶然に記代と顔合わせし「一生、プロレスをやっていくつもりだったけど、女性特有の病気で10月に引退することになったのよ…」と言っていた。病名は骨盤内腹膜炎とか。
昭和56年にデビューし、1度は全女で引退。1年の空白を経てLLPWの旗揚げで復帰。足掛け30年のプロレス生活にピリオドを打つことになったのだ。新人時代は「いつ辞めてもおかしくないな…」と思えるほど、大人し目の性格だったが、全女の荒波に揉まれ強くタフになってきた。
JBエンジェルスとしてアメリカ遠征を経験したことで、プロレスに対する考え方が変化。例えば、コスチュームやリングシューズ等の仕事道具は新人に任せることを辞めた。「大切な仕事道具を何で他人に預けなきゃならないの?」と言っていたことが印象に残っている。また記代のリングシューズのデザインを私が考えてあげたことがあったが、もう25年以上前の出来事だ。あのシューズはドス・カラスのマスクを真似ての物だったが…懐かしい話だ。いつもマイペースを貫いた記代の苦渋の選択。試合をすることで通常生活に支障があっては致し方ない。山崎五紀とのJBは日米を通じ80年代で、最も活躍した名タッグチームであった。あの畳み込むようなジャンピング・ニーパットとフライング・ニードロップは一時代を築いたスペシャリストだった。写真は新人時代の1枚。
昭和56年にデビューし、1度は全女で引退。1年の空白を経てLLPWの旗揚げで復帰。足掛け30年のプロレス生活にピリオドを打つことになったのだ。新人時代は「いつ辞めてもおかしくないな…」と思えるほど、大人し目の性格だったが、全女の荒波に揉まれ強くタフになってきた。
JBエンジェルスとしてアメリカ遠征を経験したことで、プロレスに対する考え方が変化。例えば、コスチュームやリングシューズ等の仕事道具は新人に任せることを辞めた。「大切な仕事道具を何で他人に預けなきゃならないの?」と言っていたことが印象に残っている。また記代のリングシューズのデザインを私が考えてあげたことがあったが、もう25年以上前の出来事だ。あのシューズはドス・カラスのマスクを真似ての物だったが…懐かしい話だ。いつもマイペースを貫いた記代の苦渋の選択。試合をすることで通常生活に支障があっては致し方ない。山崎五紀とのJBは日米を通じ80年代で、最も活躍した名タッグチームであった。あの畳み込むようなジャンピング・ニーパットとフライング・ニードロップは一時代を築いたスペシャリストだった。写真は新人時代の1枚。
僕は、記さんが全日本ジュニアチャンピオン(おしんチャンピオン)時代からのファンでした。
当時、小学生で地方在住でしたので、巡業で地元に来られる以外はテレビで応援していて、高校入学直後にバイトを始め、給与のほとんどを目的の交通費と憧れの後楽園チケットに使ってた頃が懐かしいです。
凱旋帰国後にJBがメインで写ってたポスターに感激した思い出もありますが…後にその件で小川さんが会長から怒られてしまった話等を知って驚いた記憶もあります。
機会がありましたら、また記さんの記事書いていただけますか?
相手の技を受け止める姿が好きでしたし
反則技をしても憎たらしくないとでも
言いましょうか素直な気持ちが技に表現
されていたと存じます。
残念ですが、またまた笑顔でお見送り
出来れば良いなぁ~と思っています。
失礼します。