今日は、なかなかよく動いた1日だった。すでに午前中の記憶がない。
最近、再認識しているのだけど、
私にとって、誰かと話すということは、とても重要なことだ。
言葉を覚え始めたころから、我が家には「主張の時間」というのがあった。
テレビの前に立たされて、
その日にあったこと、それについてどう思ったのかということを両親に向かって語る。
話がまとまらなくても、怒られたりはしない。
ただ、目をそらすと注意される。話している相手の目を見ろ、と言われる。
話し終わると、
そう感じた後に、なぜ行動としてその選択をしたのか、という点について語る。
言いたいことがうまく言えなくて、自分に混乱して、いつも泣いていた記憶があるし、
伝わらなくて癇癪を起こしたし、あまり楽しい時間ではなかった。
何度もイヤだと言った記憶もある。
ただ、人と話すことと、伝えようと努力すること、これは身に染み付いたと思う。
その後、中国に留学して、
言語と文化の違いからくる、どうしてもわかり合えないことについて、
かなり、立ち止まった。
でもいまは、日本語よりも中国語のほうが、感覚的にぴったりと表現できる時もある。
いまは日常的に中国語を使っているわけではないけど、それでもたまに夢を中国語で見る。
でもやっぱり、中国人の感覚はわからないと思う。
そして、わからないことを、そのまま「よし」として受け止めることも、
少しずつできるようになってきた。
昔は、なるべくその距離を埋めるために、
とことんまで語り合わなければならない、という感覚があったんだけど、
「とりあえず保留」ができるようになった。
明日は久しぶりに、中国語三昧の夕食会だ。
最近どうしてるの?と聞かれた後、私はどのように中国語で自分を表現するだろう。
相手の目を見たときに自然と出て来る言葉。
これは、ひたすら感覚的なものなので、話しながら自分の言葉に驚くことがよくある。
そうか、こんな表現があったか、と思う。
そしてこの感覚は、母語である日本語では味わえない種類のものだ。
そして、友人たちの語る近況。
その中に、たくさんの生きるための、考えるためのヒントがある。
そこには苦悩があって、喜びがある。
私は無から何かを生み出せる人間ではない。
自分のなかを掘って行っても、すぐに涸れてしまう。
でも、友人の中には、私が生きたかもしれない人生がある。
これがいいんだ。
最近、再認識しているのだけど、
私にとって、誰かと話すということは、とても重要なことだ。
言葉を覚え始めたころから、我が家には「主張の時間」というのがあった。
テレビの前に立たされて、
その日にあったこと、それについてどう思ったのかということを両親に向かって語る。
話がまとまらなくても、怒られたりはしない。
ただ、目をそらすと注意される。話している相手の目を見ろ、と言われる。
話し終わると、
そう感じた後に、なぜ行動としてその選択をしたのか、という点について語る。
言いたいことがうまく言えなくて、自分に混乱して、いつも泣いていた記憶があるし、
伝わらなくて癇癪を起こしたし、あまり楽しい時間ではなかった。
何度もイヤだと言った記憶もある。
ただ、人と話すことと、伝えようと努力すること、これは身に染み付いたと思う。
その後、中国に留学して、
言語と文化の違いからくる、どうしてもわかり合えないことについて、
かなり、立ち止まった。
でもいまは、日本語よりも中国語のほうが、感覚的にぴったりと表現できる時もある。
いまは日常的に中国語を使っているわけではないけど、それでもたまに夢を中国語で見る。
でもやっぱり、中国人の感覚はわからないと思う。
そして、わからないことを、そのまま「よし」として受け止めることも、
少しずつできるようになってきた。
昔は、なるべくその距離を埋めるために、
とことんまで語り合わなければならない、という感覚があったんだけど、
「とりあえず保留」ができるようになった。
明日は久しぶりに、中国語三昧の夕食会だ。
最近どうしてるの?と聞かれた後、私はどのように中国語で自分を表現するだろう。
相手の目を見たときに自然と出て来る言葉。
これは、ひたすら感覚的なものなので、話しながら自分の言葉に驚くことがよくある。
そうか、こんな表現があったか、と思う。
そしてこの感覚は、母語である日本語では味わえない種類のものだ。
そして、友人たちの語る近況。
その中に、たくさんの生きるための、考えるためのヒントがある。
そこには苦悩があって、喜びがある。
私は無から何かを生み出せる人間ではない。
自分のなかを掘って行っても、すぐに涸れてしまう。
でも、友人の中には、私が生きたかもしれない人生がある。
これがいいんだ。