大学で中国文学を専攻した。中国留学もした。
いまでも中国語を話す。仕事でも中国と関係がある。
ついでに、ついこの前まで3年間中国で暮らしていた。
と言うと、たいていの人は私のことを「中国が好きな人」と思うのだが、
最近はきっぱりと「私は中国が嫌いです」と言うようにした。中国人にも。
正確に言うと、中国から漢民族がいなくなったら、きっと中国が好きになるだろう、という感じなのだが、
なかなかうまく表現できないので、中国が嫌いと、シンプルに表現している。
私が大学で中国語をやりたいと言ったとき、母は高校生の私にこう言った。
「たぶん、あなたが思うような中国人は、いまの中国にはもういないし、
あなたの興味がある中国は、もう中国に残ってないわよ」と。
母は、もちろん中国には行ったことがなかったわけだが、この的中率、すごい。
それでも勉強したいという私のために、母は身を粉にして働いた結果、倒れたわけなので、
私はずっと中国が嫌いとは言えず、なんとか好きになろうと思っていたのだが、
1992年に初めて中国に行って以来、そして今日まで一貫して、やっぱり中国を好きではなかった。
先日、母の位牌の前で、「ごめんなさい。お母さんの言った通りでした」と報告し、
非常に肩の荷が軽くなったところだ。
嫌いなものは嫌いでしょうがない。
まあ、何と言っても、母が最終的に彼女自身を納得させた理由は、
「中国語ができれば、これから先、仕事には困らないんじゃない?」だったから、
仕事で使っているので、許してくれ。
母は、サルトルやマルクスを読んだ上で、阿呆らしいから毛沢東語録は読まないと言い、
その後、万葉集に戻った。
中国の思想家では、韓非子を「かんぴー」と黄色い声で呼び、漢文を白文で読めて、
東大寺でばったり会ったアメリカのバックパッカー女子に、
奈良時代の歴史と天皇を中心とした日本の歴史について、英語で説明できちゃう人だった。
これで高卒だったんだから、いったいどんだけすごいんだよ。
母と一緒に小学生の頃に見たドキュメンタリー映画「東京裁判」。
あの証言台に立った愛新覚羅溥儀の姿を見て、嘘をついてる。この人の言葉を学ばなければ、
とさえ私も思わなければ、
私も中国語をやることはなかったわけなので、責任の一端は母にもあるし、
私も30年かけて一巡して戻ってきたから、まあいいか。
今日は、中国からの帰国後、はじめて靖國神社に参詣した。

ここの境内に入ると、いつでも背筋が伸びる。

ピシッと美しく二礼、二拍手、一礼ができると、気持ちがいい。
そして約15年ぶりに、遊就館へ。
そう。私たちの国は、大東亜戦争と呼んだ。

零式艦上戦闘機。

リニューアルしてから初めて訪れたけど、訪れている人には、若い人も結構多かった。
高校生くらいの子供と両親、または若い女性一人、あとが白人が今日は多くて、
最近増えているという、中国人民と朝鮮人は少なかったと思う。
もともと明治維新の際の烈士を祀ることから始まり、
国に殉じた人を英霊として祀る神社となった靖國神社。
おかげさまで、かろうじて、いま日本は平和です、と報告するとともに、
改めて中国大陸の動乱に翻弄されているのが日本なんだと思った。
植民地時代、赤い時代、そしていまの拝金主義時代。
この百年の中国大陸の地図を見ると、ここ2年くらいで訪れた中国の風景が思い出される。
日露戦争時代の旅順や奉天。上海事変の際のクリーク。
敵も味方も、多くの人が亡くなった。
そして、太平洋の海。絶対国防線。
A級戦犯の写真が、他の英霊と分けて展示されるようになって初めて行ったけど、
東京裁判史観を脱する意志を感じるといえば、感じられた。
パール判事も祀られていたし。

そして、靖國神社には、軍犬と軍馬の像もあり、
その前でも手を合わせる日本人がたくさんいた。

いまもむかしも、人間を消耗品として扱う上司というのはいる。
別に昔の日本人が悪かったわけでもなければ、
アメリカナイズされたいまのカタカナ言葉多用のサラリーマンが先進的なわけでもない。
私たちは、何も変わっていないし、変わりたくても、変われないのだ。
いまでも中国語を話す。仕事でも中国と関係がある。
ついでに、ついこの前まで3年間中国で暮らしていた。
と言うと、たいていの人は私のことを「中国が好きな人」と思うのだが、
最近はきっぱりと「私は中国が嫌いです」と言うようにした。中国人にも。
正確に言うと、中国から漢民族がいなくなったら、きっと中国が好きになるだろう、という感じなのだが、
なかなかうまく表現できないので、中国が嫌いと、シンプルに表現している。
私が大学で中国語をやりたいと言ったとき、母は高校生の私にこう言った。
「たぶん、あなたが思うような中国人は、いまの中国にはもういないし、
あなたの興味がある中国は、もう中国に残ってないわよ」と。
母は、もちろん中国には行ったことがなかったわけだが、この的中率、すごい。
それでも勉強したいという私のために、母は身を粉にして働いた結果、倒れたわけなので、
私はずっと中国が嫌いとは言えず、なんとか好きになろうと思っていたのだが、
1992年に初めて中国に行って以来、そして今日まで一貫して、やっぱり中国を好きではなかった。
先日、母の位牌の前で、「ごめんなさい。お母さんの言った通りでした」と報告し、
非常に肩の荷が軽くなったところだ。
嫌いなものは嫌いでしょうがない。
まあ、何と言っても、母が最終的に彼女自身を納得させた理由は、
「中国語ができれば、これから先、仕事には困らないんじゃない?」だったから、
仕事で使っているので、許してくれ。
母は、サルトルやマルクスを読んだ上で、阿呆らしいから毛沢東語録は読まないと言い、
その後、万葉集に戻った。
中国の思想家では、韓非子を「かんぴー」と黄色い声で呼び、漢文を白文で読めて、
東大寺でばったり会ったアメリカのバックパッカー女子に、
奈良時代の歴史と天皇を中心とした日本の歴史について、英語で説明できちゃう人だった。
これで高卒だったんだから、いったいどんだけすごいんだよ。
母と一緒に小学生の頃に見たドキュメンタリー映画「東京裁判」。
あの証言台に立った愛新覚羅溥儀の姿を見て、嘘をついてる。この人の言葉を学ばなければ、
とさえ私も思わなければ、
私も中国語をやることはなかったわけなので、責任の一端は母にもあるし、
私も30年かけて一巡して戻ってきたから、まあいいか。
今日は、中国からの帰国後、はじめて靖國神社に参詣した。

ここの境内に入ると、いつでも背筋が伸びる。

ピシッと美しく二礼、二拍手、一礼ができると、気持ちがいい。
そして約15年ぶりに、遊就館へ。
そう。私たちの国は、大東亜戦争と呼んだ。

零式艦上戦闘機。


リニューアルしてから初めて訪れたけど、訪れている人には、若い人も結構多かった。
高校生くらいの子供と両親、または若い女性一人、あとが白人が今日は多くて、
最近増えているという、中国人民と朝鮮人は少なかったと思う。
もともと明治維新の際の烈士を祀ることから始まり、
国に殉じた人を英霊として祀る神社となった靖國神社。
おかげさまで、かろうじて、いま日本は平和です、と報告するとともに、
改めて中国大陸の動乱に翻弄されているのが日本なんだと思った。
植民地時代、赤い時代、そしていまの拝金主義時代。
この百年の中国大陸の地図を見ると、ここ2年くらいで訪れた中国の風景が思い出される。
日露戦争時代の旅順や奉天。上海事変の際のクリーク。
敵も味方も、多くの人が亡くなった。
そして、太平洋の海。絶対国防線。
A級戦犯の写真が、他の英霊と分けて展示されるようになって初めて行ったけど、
東京裁判史観を脱する意志を感じるといえば、感じられた。
パール判事も祀られていたし。

そして、靖國神社には、軍犬と軍馬の像もあり、
その前でも手を合わせる日本人がたくさんいた。

いまもむかしも、人間を消耗品として扱う上司というのはいる。
別に昔の日本人が悪かったわけでもなければ、
アメリカナイズされたいまのカタカナ言葉多用のサラリーマンが先進的なわけでもない。
私たちは、何も変わっていないし、変わりたくても、変われないのだ。