津和野街道概説

2022年07月21日 | 旅行
 このところ雨天続きで野外活動が出来ませんので、長文になりますが、津和野街道に関することを整理してみました。
皆様に読んでいただきたいと願っています。
津和野街道概説
はじめに
 街道は、人と人、地域と地域の交流を促進し、文化や経済の発展に多大な貢献を果たしてきました。
  津和野街道の魅力は、往時を偲ばせる石畳に歴史、文化を感じることや、マイナスイオンいっぱいの木立、樹間を渡る鳥の声、きらめくせせらぎ、四季折々の山野草を楽しめることです。歩く者にとってこれ以上の癒しを与えてくれるところはありません。津和野街道は山間の道で、石見国「津和野」から安芸国「廿日市」まで行程77km、西国街道の脇街道です。
 亀井家の参勤交代の道のほか、和紙や穀物などの運送用としての道、厳島神社(廿日市市)・小島神社(吉賀町)・太鼓谷稲荷神社(津和野町)への参拝の道として歩かれました。    
 現在でも、明治のキリシタン流配の道として、広島のカトリック教会の人達により、巡礼の旅が行われています。
  この街道筋は、文化財に指定された神楽や伝説・神話など歴史的にも貴重な遺産が伝承されています。また歴史的な遺産に加えて、現在も新しい文化が芽生えつつあります。
 このような街道筋の風景だけでなく、今日まで伝承された遺産も含めて楽しむことが出来ます。
 各地の観光ポイントを示す前に、この津和野街道が成立したいきさつについて述べます。
1.なぜ、津和野街道ができたのか?
  津和野街道に関する歴史を調べると、津和野地区の支配者が津和野街道を必要とする根拠、街道成立の背景に、興味深い多くの要因が見えるのでご紹介します。

津和野の昔の道
  鎌倉時代の元寇の翌年、弘安五年(1282)、鎌倉幕府は蒙古再来に備えるため、能登の豪族、吉見頼行に命じて西辺の防備の任に当たらせた。頼行は、能登の国より下向して、津和野に居を構えて30年かけて大山城(三本松城)を完成した。その雄大な規模と天然の要害は西海防備の重鎮として盤石の威容を誇ったものである。吉見氏の治世は以後十四代219年にわたる。
 室町時代に入ると,大内氏が山口(現山口市)を拠点にして西日本一の大勢力に成長する。隣国津和野の吉見氏は大内氏の配下に入り、また、大内氏と姻戚関係を結び、大内氏の有力な武将になる。     (津和野町史・大内氏実録)
 津和野の吉見氏と山口の大内氏の関係が進むにつれ、兵の移動を含め津和野と山口
津和野の吉見氏と山口の大内氏の関係が進むにつれ、兵の移動を含め津和野と山口の間の往来はひんぱんになる。そして、山口から三田尻(防府市)に出れば瀬戸内海である。 したがって、津和野から山陽側、瀬戸内海側との行き来、通行は、[津和野→山口→防府] 約60km(15里)の道が鎌倉時代からの、定着した津和野から瀬戸内海沿岸部への通行経路であった。
 佐伯町史(現廿日市市佐伯地域)には、石州津和野からの往来の資料は江戸時代末期、文政二年(1819)の書き出し帳とそれを資料に編述された「芸藩通史」以外に見当たらない、とある。

* 以上の経緯から、「津和野街道」ができたのは{江戸時代(1603~1868)に入って以降であろうと考えられる。それも、津和野藩主として、{亀井政矩}が因幡(鳥取県)の鹿野城から、元和三年(1617)八月十三日に、津和野城に入封した以降と考えられる。

津和野街道成立の背景・そのⅠ
 1 亀井政距(1590~1619) 因幡(鳥取県)鹿野藩4万3千石亀井家第二代当主
 2 天正十八年 因幡鹿野城主 亀井茲矩(これのり)の長男として因幡鹿野でうまれた。山中鹿之助の孫にあたる。
 3 尊父  亀井茲矩は、出雲尼子氏家臣の子孫。
永禄九年(1566)出雲月山富田城が、安芸国の毛利軍に攻撃され落城したとき、山中鹿之介と行動を共にし、鹿之助の幼女を妻とし、尼子氏の重臣亀井氏の家督を相続して、{亀井 茲矩}となる。
  そして、鹿之助とともに、織田信長に仕え、羽柴秀吉に属し毛利軍と戦う。その功績抜群であったことで、秀吉は、亀井茲矩を大名に取り立て、因幡鹿野城主に任命し、1万3千5百石の地を与えた。
 このように、滅亡した尼子家臣団の浪人であった茲矩は、秀吉に大名にまで取り立ててもらったが、関ヶ原合戦の時には、徳川家康に加担し、忠節を尽くした。
 因伯(島根県)諸侯のうち、東軍(徳川方)に属したものは、茲矩ただひとりであった。
(鳥取県史)
* 関ヶ原合戦で、亀井茲矩が家康に加担したのは西軍(豊臣方)の総大将が、毛利輝元であったためである。毛利氏は、尼子氏を滅ぼし、義父山中鹿之助を殺害した最大の敵である。この経緯による亀井茲矩の心情を、家康は充分わかっていたようである。

4 亀井政矩は十三歳の時、慶長七年(1602)家康に初見、従五位下、右兵衛佐、
 翌年、豊前の守の称号を賜る。
 その後、二代将軍秀忠の近侍となり家康の内示によって、松平周防守康重(岸和田城主)の娘「時姫」休子との結婚が定められた。
* 徳川方と縁もゆかりもなかった山陰の小藩の嫡男が、家康公、二代将軍秀忠からこのような寵愛を受けたことは、異例なことである。
5 慶長十七年一月(1612)、父茲矩が病没したので、家督相続して第二代当主となる。
 大阪 冬・夏の陣では、将軍秀忠に従い、本田正信の陣に編入された。
 大阪城が落城したので、将軍秀忠は七月一日諸侯を二条城に招き、祝勝の宴が開催され、亀井政矩も招待された。
(鳥取県史)
◎ 元和元年(1615) 「一国一城令」、「武家諸法度」が制定された。
6 元和三年(1617)七月廿日に亀井政矩は石見国津和野に移封を命じられた。
  亀井氏家臣団が、津和野に着城したのは、八月十三日であった。
 しかし、亀井家荷物および家臣団すべての荷物類は船で高津(益田市)まで運ばれたが、完了するまで、実に、二十七年間の歳月を要した。
(津和野町史)
津和野街道成立の背景・そのⅡ
1. 以上のような経過を経て、亀井政矩一行が津和野に着任したばかりの時、安芸広島藩主の福島正則を改易し和歌山藩主浅野長晟 に交代をさせる転封が行われた。
2. 元和五年(1619)六月、広島藩主福島正則は四十九万八千石の領主から信州川中島四万五千石の領主に左遷になり、広島城の受け取りに幕府の高官、長井直勝・安藤重信の両名が立ち会うことになった。
(広島県史)
3   この城の明け渡しでは、大きなトラブルが予想され、幕府はその警護を中・四国一の小藩である津和野藩に命じた。
                        (津和野町史)
  広島城に立て籠もる、福島家臣団は総勢四千余人で、籠城に備えて幕府は、中、四国、九州の諸大名に対しても出陣の用意を指令した。
                        (広島県史)
3. 津和野藩家老の多胡主水が七百の軍勢を率いて広島に出動した。このとき、藩主亀井政矩は病を押して、京都から直行合流した。                   (津和野町史)
4. 広島城の引き渡しは無事に行はれ、福島家臣団は粛然と退去していったと伝えられ、その振る舞いは「作法厳重」、一糸乱れぬ見事さであったという。         (広島県史)
*津和野から広島に来た道順は不明であるが、広島城警護の期間中(約廿日間)連絡、所要などで多くの人が広島~津和野間を行き来したであろうと推察される。
 津和野街道のルート・道順ができたのはこの時期と考えられる。
福島正則は秀吉恩顧の武将であったが、関ヶ原合戦の前ごろから徳川家康に忠誠を尽くしてきたのに、水害で壊れた広島城の石垣を幕府に届けずに修理したとの理由で改易。現場は今も広島城跡の石垣に残されている。
 正則は1604年から12年間毎年幕府の命令により江戸城の修築、名古屋城、丹波篠山城の築城、京都御所の補修工事などの大工事を懸命に行った。
 しかし、正則は絶えず徳川氏から警戒の目でみられていた。そのきっかけは、1603年徳川幕府開府直後の七月千姫と秀頼の婚儀が成立したとき、正則が西国大名を語らって、豊臣秀頼に対し「奉公の誓紙」を差し出したことによる。
このとき以後、正則は要注意人物になる。正則は、その疑いを晴らそうと必死の努力をおこなうが、ついにその疑惑を晴らすことはできなかった。
                 参考・(千姫は将軍秀忠の長女)           (広島県史)
6 浅野長晟は、元和五年(1619)八月八日広島城に入城し、安芸備後四十二万六千石の広島藩の藩主になった。
                                           
                                            (広島県史)
7 その翌月亀井政矩は、広島城引っ越し警護の時、病気であったため津和野で静養ちゅう。幕命で京都に呼び出されて上京途中、乗馬が暴れて落馬してそれが原因で没す。
8 津和野藩主、「亀井大力矩政」になる。このとき、亀井家の嫡男矩政は、三歳であったが、将軍秀忠は、二代当主として認めた。当然、亀井家は断絶されても仕方なかったが、将軍秀忠の温情で救われた。
                                     (津和野町史)
◎ 実は、翌年の元和六年(1620)将軍秀忠の五女和子(まさこ)が後水尾天皇の皇后として、入内した。徳川家史上最高の慶事が執り行われた。
                  (2021年年NHK大河ドラマ  「江」 )    
◎ 和子(まさこ)様は十八歳の時、中宮になり興子内親王を出産した。
  興子内親王はのちに即位し、明正天皇となる。
奈良時代の考謙天皇以来、実に870年ぶりの女帝であった。
                            (大日本国史大辞典)
◎ 元和六年「徳川 和子」の入内は二条城より執行された。
◎ 元和三年(1617)「和子」の入内にあたって将軍秀忠は、二条城の修築、女御御殿、行幸御殿を新築した。
                                     (徳川実記)
9 亀井政矩は津和野藩主に改易の元和三年(1617)の時から、広島城警備命令の時まで、京都にいたのは二条城の普請奉行を務めていたためである。
                                    (徳川実記)
10 亀井政矩は徳川幕府最大の慶事の普請奉行にかかわっている最中に倒れたので、将軍秀忠は、三歳の「矩政」に例外的な温情を与えたものと思われる。
“以上の経緯の中”
11 広島城に入場した浅野長晟は翌年の元和六年(1620)津和野亀井藩に、廿日市の「船着きの蔵屋敷」を寄贈した。
                                  (廿日市町史Ⅲ)
12 十年後の寛永七年(1630)三月二十五日多胡主水家老が廿日市船屋敷地借用方折衝に広島城に行き、さらに、新たな 用船・船頭、お館、船入地の借用が許可された。
 その後、ここには殿舎、船倉、土蔵、・定詰長屋等 が建てられ、船頭・主水が常備されていた。
 元文元年(1736)の廿日市船倉係船数は、関船十艘・小早船十一艘・荷船二艘と伝えている。
                                    (廿日市町史 Ⅱ・Ⅲ)
◎ 上の11項、12項は、広島に着任直後の浅野藩が津和野藩に対して、大きな便宜供与をおこなったことの記録である。
◎ この件については、その便宜供与の根拠、理由が不明のため、「廿日市市町史最大のナゾ」と言われている。が この2項のおかげで、津和野街道が成立したと考えて間違いないでしょう。 この大きなナゾについて考えられる、根拠・理由・背景についての諸資料をご紹介します。

津和野街道成立の根拠・理由・その1
1 津和野は地理的に毛利氏長州藩の懐に入っているような位置づけである。
したがって津和野亀井藩は、今日、大阪、江戸方面への行き来には、どうしても、出雲尼子氏を滅ぼし、義父山中鹿之助を殺害した最大の敵である、毛利長州藩内を通行するようになる。この毛利藩内の通行経路を嫌って、探し求めたのが、津和野から浜田藩内を通り、毛利藩の東端をかすめて、安芸の国に入る「津和野街道」であった。
2 参勤交代制が始まる三年前(1632)に幕府の巡検使が津和野を訪れ、津和野藩の江戸への経路は、津和野~山口~三田尻の山陽道経由かと確認したところ、安芸の廿日市経由と回答したと。ある。
                                       (島根県史)
津和野街道成立の根拠・理由・そのⅡ
1 浅野長晟に正式の下命があったのは、元和五年(1619)七月十八日のことで
ある。
  その事情は長晟が浅野左衛門佐ら国元の重臣にあてた書状によると、次のように伝えられている。
 すなわち、「将軍秀忠はいつも寝所としている奥座敷に長晟を召し、五万石加増のうえ芸備を遣わす旨を親しく申し渡したあと、付言して、浅野家は長政以来将軍家に忠節をつくしして遺漏なく、その上振姫(家康の娘・元和元年の長晟の妻になった)との因縁で一度は縁続きとなった間柄でもあり、しかも広島は「中国の要」ともいうべき枢要の地であるだけに、めったなものに与えるわけに行かないが、その点お前なら安心して、まかすことができる。」といったというのである。浅野長晟が誇らかに述べているように、秀忠の上意は長晟を感激させ、一説にこの厚恩を決して忘却しないようにとの遺言したとも伝えられる。
                                      (広島県史)
◎  広島は「中国の要」とは、“広島は徳川幕府防御の重要な拠点”という意味であろう。
◎  浅野藩は藩内一の強い武将・上田重康家老に一万二千石を与え、国境の子方(大竹市)に配置した。
2 関ヶ原の戦後処理により、「坂崎直盛」津和野入城について、「毛利輝元」監視の役目を、それぞれ境を接している安芸・広島の福島正則とともに、西石見において「坂崎直盛」が負わされたことである。
                                      (島根県史)
*   以上の経緯のとおり、津和野藩と浅野藩は、徳川幕府から、隣国の「毛利輝元」監視の役目を命ぜられたことの、記録である。
*   浅野藩が津和野藩に、廿日市に関する大きな便宜供与を行った要因は、この監視体制の維持にあり、したがって、津和野街道成立の最大の根拠である。
*   もう一つの疑問点、津和野亀井藩は、廿日市での、借用使用許可願いがナゼ廿日市の“海沿いの船屋敷および、船入地、船係留場”の借用なのか?
*   亀井藩は、山間部津和野盆地に居住しているので、山陽側の西国街道沿いの廿日市を中継地とすれば、宿泊施設の屋敷地だけでよいのではと思われるが、ナゼか海港を求めている。
* この件に関すると考えられる資料は次の通りのものがある。
津和野藩が船屋敷と港を求めた背景
1 藩主亀井政矩の父、「亀井茲矩は、山陰の因幡の地にあって、良港に恵まれずして渡南の志を持って活躍したことは注目に値するものがある。(渡南とは東南アジア諸国と交易すること)
                                     (鳥取県史)
2 亀井茲矩は大洋航海のできる船を建造し、船長、船頭は家臣が行う。
その操船技術は、沿岸航路ではなく、沖合の外洋航路を航海する高度なレベルである。
3 鹿野城主になった翌年の天正十年(1582)六月、出雲の代わりに琉球国を賜れば、これを打ち取りたいと願い出た。秀吉は金の軍配に「亀井琉球の守」と書いて、家臣に披露した。このとき織田信長が本能寺で殺害されたとの知らせが入り、秀吉のあの有名な中国大返しとなり、この件は沙汰止みとなる。
(鳥取県史)
4 文禄元年(1592)朝鮮征伐のとき茲矩は兵船五隻を率い、名護屋(佐賀県)にいたって秀吉にお目通りし、海軍に参加して巨済海で敵の海将 李舜臣と戦ったが、船を焼かれてやむなく上陸した。上陸した茲矩は蘇川城の他五カ城を攻略し、また大虎を射止めて秀吉に贈った。
(鳥取県史)
5 家康は幕府開府直後から、安南、シャム、フィリピン、カンボジヤなどの東南アジア各国との朱印船貿易を奨励した。
6 亀井茲矩は、庶子、鈴木八郎左衛門を長崎に居住せしめ、「異国廻船売買の総奉行」として、貿易・通商を行わせた。さっそく南海渡航の船舶を購入した。
                                       (鳥取県史)
7 家康は、南海渡航の船舶に朱印状を下付し、また渡航先の統治者にも保護を依頼している。
  その結果朱印船貿易は急速に発展した。
8 当時大名のうちで海外貿易に従っていたのは九州の島津家久・加藤清正などと山陰の、亀井茲矩などの、十名の大名であった。
9 日本側の輸出品は、銀が最も多く、銅・鉄・硫黄など鉱物、樟脳のほか扇子・屏風・傘などの工芸品・日用諸雑貨であった。
 輸入品は、生糸・絹織物・鹿革・鮫皮・蘇木・香木・角・牙。砂糖・鉛・錫などであった。
特に、生糸が中心で、また、シャムの鹿革は年間三十万枚、鮫皮は十万枚輸入された。家康の注文品として、「塩硝は二千斤」・「くろさいの角五、六本」をあつらえるよう亀井茲矩に銘じている。
10 慶長十四年(1609)、幕府は諸大名の大船の保有することを禁じた。遠洋航海に耐えうる大船の所持を抑えたので、貿易活動は著しく制限されることになった。その翌年限りで、西国大名十氏の朱印船貿易は全く停止してしまった。
                               (7~10項・鳥取県史)
*  以上のように、元和三年(1617)八月、津和野に入府した「亀井藩」が豊臣秀吉の時代の鹿野入城以後、わずか一万三千五百石の小藩ながら多くの大型船を建造し、遠洋航海経験を積み重ね、さらに、朱印船貿易をしていた現役世代の藩であった。
 つまり、「亀井藩」が津和野に移転する六年前までは東南アジア諸国と朱印船貿易を行っていたことになる。このような史実、「高度な造船技術と遠洋航海操船技術」を持った亀井藩が、石見津和野に転入してきた。津和野に入った亀井藩が一番驚いたことは、津和野盆地の底で、大変な山の中であり、これでは幕命を遂行するのは困難であると、高津川の下流に築城を願い出たが、一国一城令に反すると却下された。
 そこで亀井藩が着目したのが、「瀬戸内海の良港、廿日市」であったと考えられる。
 このような経緯を浅野はよく承知していたので、津和野亀井藩の要望を受け入れて、廿日市に、船屋敷地および、船入地並びに沿岸部の使用を許可したと考えられる。
 そのおかげで、津和野街道が成立して、江戸期二百五十年間多くの物資がはこばれ、参勤交代も船便を利用できたと思われます。


参考文献
鳥取県史、島根県史、広島県史、津和野町史、大内氏実録、三百藩主人名辞典、徳川記、大日本国司事典、江(田淵久美子著)、佐伯町史、廿日市町史

  ここまで 「さくらお」第136号 平成29年6月30日発行 廿日市市郷土文化圏研究会発行    廿日市市郷土文化研究会 松本哲二郎 著

   古道とは
  街道みちの成立:自然の中で。多くの人々が歩くと道が出来ます。今残っている旧街道道から推察できることは、
① 道は山裾や山中を通り、田畑に利用できるところは通らない。
  当時の人々が如何に食糧生産地を大事にしたかが分かります。また旅人は他人に迷惑をかけまいと、利用価値のすくない土地を利用して、そっと歩いていた。奥ゆかしいものです。
② 川を渡るのは大変な事業で、渡りやすそうなところを通るように道を作っている。
 川の中州が広いところ、手ごろな岩が複数あり板を渡せばその上が通れる所。
③ 最短距離で旅ができるように道はほとんど直線的になる。即ち、車が発達する前は高低差がある路も平気で直線的になっている。急な坂道でも歩行には問題がなかった。
④ 長年にわたって多くの人々により踏み固められた道は、何度もコースが変えられてきたが最終的には最も近い道として直線的な道になっている。
  現在の技術では、これは当たり前のことであるが、地図を使って、カーブの少ない直線道路となる。
⑤ 後年になって車が輸送に使われるようになると、初期の畜力に依存した時代では、大回りしてでも道の傾斜は少なくなる場所を通るように改変されてきた。近年になり、車の動力源が強力なエンジンに代わると、山の斜面をブルドーザーで削り、このぐにゃぐにゃ道をまっすぐにしてしまい高速走行ができるようにした。回り道をしないで山の襞は重機で崩されて、直線的になってきた。人間が自然に沿って調和しようとした精神は失われ、今では人間が自然を支配してしまうほどの横暴を働いている。
近年の道路建設では、土地の状況の調査が十分になされて地図の図面上で最短距離になるように線を引き地形は強引に変更されてしまっている。
  また昔ほど米作が重要視されなくなり、平野の平らなところをまっすぐに横切って、走るようになってきた。初期の頃の旅人の奥ゆかしさはなくなり、米を作れる平野も道路にするようになってきた。
このような改変が年々行われていて、古道は時代とともに変更されながら整備されている。そのため同じところに何本もの道が出来ており、使われた時代により異なり、どの道を古道と呼ぶのかはむつかしい。
  したがって、現在ではこの街道を歩く場合にはできるだけ古い時代の道を選びますが、その道が山中に放置されていたり、新道を建設する場合に建設残土を古道の上にかぶせたりしているところもあります。
ウォーキングに利用するときは、可能な限り古い時代の道を探して歩きますが、往古の風情が見渡せる限り、古道に近い脇道や林道を歩くこともします。川を渡るときは、昔はその都度川石に板をかけていましたが今ではその近辺に恒久的な橋が出来ているので、そちらを通ります、かつてはここでその都度、苦労して橋を架けていたことを偲びます。
  このようないろいろな道の歩き方を含めて津和野街道と云います。
したがって、現在では歩行できないほどにあれているところは歩行を断念してそのわきの林道などを通行します。
  道の進化は常に行われてきた。今でも各地で進化します。
  牛馬の動力を使用する時代には車が通れる幅を確保するために道の拡幅が行われたり。緩い傾斜を進む様にするために、山裾の襞に沿ってほぼ等高線上にグネグネと曲がりくねった道路となる。
その後、自動車が広く使われるようになると、安全運転のためにグネグネ道はそれを直線にしてしまい強力なエンジンにより傾斜を乗り越え最短距離を高速で通過できるように改修される。
川を渡るには川の砂州に頼るのでなく恒久的な橋を建設する。そうするとその前後の
道はこの橋に最も近いところを通るように改修される。

  このような道路の改修の跡の事例は津和野街道には多く見られる。
  嘗ては深い森林の中を山裾に沿って歩いていた道は、その後自動車が通るように拡幅された。更に山裾のグネグネみちは、自動車には安全上よくないので、これをまっすぐに貫くように強力な重機械を用いて山を削り谷を埋めて直線道路にした。現在でも曲線道路の一端が残っている。宮内から汐見峠までの道がそれである。古い道の時代の馬車が谷に落ちて馬が死亡したので途中に馬頭観音を祭っている。
 この場合、古道はこの直線道路の脇に残る曲道がそれである。
  古道は谷底に近いところを通っていたが、広い自動車道路にするために山を崩して其の削った土砂を谷に落として道路基盤をつくったところがあう。この場合、古道はすでにほとんど土砂に埋まってしまい、古道を埋めている。これは汐見峠に登る道路に見られる。探すのは非常に困難であるが、現在の自動車道路の脇の谷に土砂に埋まった古道が見られる。
  頼 杏坪が「遊石稿」に書き残している「柳の水」が見られる。
  宿場町での道路改修は、既に多くの民家や商店などが道路筋に合わせて建造されているので、改修がむつかしかったのであろう。その場合はその近くの平原に全く新しぃ直線に近いバイパスの自動車道を作っている。この場合は古道は残されて現在でも住民の生活道路として利用されて残っている。汐見峠から津田方面まで。この場合は完全に古道が残される。
  津田の町の中の道も同じく、民家の間をとおり、今でも残されている。津田小学校は理由は分からないが古道の真上を整地して広いグランドと校舎を新たに作っている。しかし、元もとの生活道路に代替えするために別途高架橋と新しい県道の斜面に人道が作られている。
  津田から栗栖までの道は古道の下に新たに作られた。小瀬川の川岸を近代的な石積で護岸を作りその上を新しい道路としている。古道は今でもほとんど残っている。「重なり岩」も昔のままだ。岩倉の宝竜寺は津和野街道の真上に建て、所山川の大岩に板をかけ橋としてわたっていた。新しい道にはその下流に恒久的な橋が出来て、今は全くこの岩場は利用されない。栗栖の集落の脇に残る路が古道で、これは現在でも生活動路として利用されている。
栗栖から中道までも山間部の道を自動車は全く通れない。昔の儘の古道であるが、この道は嘗ては生活道路として利用されていた。中道の人は津田まで買い物に行くのに津和野街道を利用していた。現在では小瀬川にそって作られている国道186号線が其の代替えとして利用されている。
    土地の交換
  古道の改修が困難な場合は其の脇に別の車道を作る。道路つくりの上では一番簡単な方法だろう。しかし、このばあいは新たな土地の取得が必要になる。おそらく古道の土地を新たに作る路の土地と交換したらしい道が有ります。
生山峠近くにその様子が分かる所が有ります。昭和の初期に街道沿いに一里塚や石仏を設置したが。別途自動車道が出来たので、古い石仏を新道の壁に遷している。
  石仏48番は動いてない典型的なもので、これは一里塚が動かせられないので残っており、津和野街道の古道は今の杉林の中を通っており、下流付近では谷には土砂が放置されており新道路建設時の土砂だろうとみられます。一部の石仏は古道にそって設置したものが新道路の壁に移動されている。
  以上は佐伯地域の道路の改修事情ですが、このように古道は新道の建設時ほとんどが埋められていますが、痕跡をたどれば古道の位置は特定できるようです。土地の古老の人に聞くとかしなければ分かりません。

  しかし、今では古道にこだわっていると歩いて津和野までは行けません。現在活用されている道路を歩いたり通行しながら古道の痕跡を調査するのが良いのではないでしょうか。
  古道そのものを散策できれば良いですが、こだわると津和野まで続いた街道を味わうことが出来なくなります。
  現在では古道のそばに新道があったり、古道が改修されて往時の物と様相が異なるものが有りますが、これらを全部含めて津和野街道と呼称するのが現実的ではないだろうか。
  吉賀町は田畑が広く土地的に的に余裕があったからか、古道に隣接して広い車道がつくられっているので、古道の調査をして明確にしておく必要があります。

  「津和野古道を歩きましょう。」といっても何も古道にこだわることなく、現在使用されている道が津和野街道だといっても良いのであろう。
  東海道は既にないが東海道新幹線がある。山陽道は古道はないが、山陽新幹線がある。ということと同様でしょう。最近広島ではあの有名な国道54号線が新道に代わっているし、宮島街道と云っている国道2号線も今では西広バイパスのことを言うようになっています。
  別の観点から昔の古道がどこを通っており、いまどうなっているかの調査は並行して行いたい。このことは歴史的な遺産を確認して記録に残すという学問としては重要なことだろう。

現時点では、栗栖からの山間道。生山峠から大原集落の道、大原から宇佐郷願行寺、願行寺から星坂番所、水源公園までは古道が明確になっている。しかしほとんど利用されないので、ゆくゆくはきえてしまうのだろう。その地域に古道を保存する活動団体が有れば良いのですが、広島から出かけて旧道路保全のための活動を継続するのは無理が有ります。その地域の方のご協力にきたいするのみです。そういう意味で以下に津和野街道の経路図を掲げます。

 
                    津和野街道全図


                                      ぼんぼん記



夢街道ルネサンスに津和野街道が認定されました。

2021年10月10日 | 旅行
   佐伯山里くらぶは津和野街道のボランティアガイドとして活動を続けてきましたが、この度
国土交通相 中国地方星美局道路部地域道路課がすすめる「夢街道ルネサンス」という活動の対象街道として「津和野街道・廿日市」が認定されました。
   10月8日 廿日市市津田の廿日市市所において認定書及び認定盾をいただきました。
  「だからどうしたん」と言われそうですが、少しは箔がついたのかなー。
  もちろんここに至るには、応援してくださる会員のみなさんはもとより、準会員であるファンクラブの皆さん。また毎年勉強のために訪問してくれる津田小学校、友和小学校の生徒、先生の皆さんの応援あっての子tでここまでに至りました。ここに関係者の皆様にお礼申し上げます。


        認定書


        認定盾


        代表として受け取りに参加した役員

ということで、この津和野街道での活動は単に我々の興味だけで行う活動から国土交通省の中に組み込まれてしまいます。
  本質的には今までと変わらないで活動を続けてゆくしょざおんですので、今後とも皆様のご支援をよろしくお願いします。

                        ぼんぼん 記

夢街道ルネサンスに津和野街道が認定されました。

2021年10月10日 | 旅行
   佐伯山里くらぶは津和野街道のボランティアガイドとして活動を続けてきましたが、この度
国土交通相 中国地方整備局 道路部地域道路課がすすめる「夢街道ルネサンス」という活動の対象街道として「津和野街道・廿日市」が認定されました。
   10月8日 廿日市市津田の廿日市市所において認定書及び認定盾をいただきました。
  「だからどうしたん」と言われそうですが、少しは箔がついたのかなー。
  もちろんここに至るには、応援してくださる会員のみなさんはもとより、準会員であるファンクラブの皆さん。また毎年勉強のために訪問してくれる津田小学校、友和小学校の生徒、先生の皆さんの応援あっての子tでここまでに至りました。ここに関係者の皆様にお礼申し上げます。


        認定書


        認定盾


        代表として受け取りに参加した役員

ということで、この津和野街道での活動は単に我々の興味だけで行う活動から国土交通省の中に組み込まれてしまいます。
  本質的には今までと変わらないで活動を続けてゆく所存ですので、今後とも皆様おご支援をよろしくお願いします。

                        ぼんぼん 記

夢街道ルネサンスに津和野街道が認定されました。

2021年10月10日 | 旅行
   佐伯山里くらぶは津和野街道のボランティアガイドとして活動を続けてきましたが、この度
国土交通相 中国地方星美局道路部地域道路課がすすめる「夢街道ルネサンス」という活動の対象街道として「津和野街道・廿日市」が認定されました。
   10月8日 廿日市市津田の廿日市市所において認定書及び認定盾をいただきました。
  「だからどうしたん」と言われそうですが、少しは箔がついたのかなー。
  もちろんここに至るには、応援してくださる会員のみなさんはもとより、準会員であるファンクラブの皆さん。また毎年勉強のために訪問してくれる津田小学校、友和小学校の生徒、先生の皆さんの応援あってのことでここまでに至りました。ここに関係者の皆様にお礼申し上げます。


        認定書


        認定盾


        代表として受け取りに参加した役員

ということで、この津和野街道での活動は単に我々の興味だけで行う活動から国土交通省の中に組み込まれてしまいます。
  本質的には今までと変わらないで活動を続けてゆく所存ですので、今後とも皆様おご支援をよろしくお願いします。

                        ぼんぼん 記

春の津和野街道を歩きましょう

2015年04月24日 | 旅行
風薫る 5月が来ました。この気持の良い空気のなか、津和野街道を歩きましょう。
川のせせらぎを聞きながら新緑の木漏れ日につつまれて古の石畳の道をガイドと一緒に歩きます。
ぜひ、ご参加ください。

日時:5月7日(木)9時から15時
内容:春の若葉の下、古の石畳の古道を歩きます。専任のガイドが同行します。
   栗栖―悪谷―中道上  約6km(3時間)
   中道上では、春の山野草料理を楽しく食べ、春の到来を祝います。
集合:9時: 広電栗栖終点のバスロータリー(津和野街道登山口)
   なお、歩行困難で、参加希望される方は、国道186号道の駅「スパ羅漢」に11時に集合してください。ガイドが現地まで誘導します。
持参物:昼食用おむすび、飲料 など
参加費:料理材料費として 500円/1名
定員: 20名とします。
少雨決行します。但し雨天の場合は街道歩きは中止、車で移動します。
問い合わせ申し込み:☎082‐271-8390 NPO法人佐伯山里くらぶ
 事務局 片山一三(かたやまかずそう)