我ながら、我慢強いなと思う。
釣りがしたくてしたくて仕方ないのに、いや正確にはアマゴの顔が見たくて仕方ないのに、釣れるフィールドは沢山あるのに、そういうところには行かない。
過去には、解禁日に有休を使って釣りに行ったこともある。
それが叶わないときは解禁直後の週末に、まだ寒いのに前夜から出かけて川の近くで車中泊までして二日続けて釣りをしたこともある。
でも、釣れるのは小型のアマゴが殆どだった。
まだサビが残っていて、引きも強くない。
餌を捕らえるのもままならないような個体ばかりだった。
そんなのを釣っても楽しくないなと感じた。
ならば放流成魚を釣ったらどうかという人もいらっしゃるだろう。
生憎僕は放流魚には興味がない。
でもあなたが釣る殆どのアマゴは稚魚時代に放流されたものでしょうと問いただされそうだ。
実際その通りだと思う。
完全なる自然繁殖のアマゴを釣るというのは現在の日本ではそう簡単ではないし、もしそういう個体群が生息する水系があれば寧ろそっとしておきたい。
つまり、正しく言うと、ある程度の大きさまで養殖されて、解禁当初にどこそこへ放流しますと告知された上で、当該箇所に赴いて釣るのは興味がないということです。
でも、自分が歳をとって足腰が弱くなったら、喜んで行くだろうと思う。
渓流釣りが好きだけど、身体が言うことを効かない。
そんな方には成魚放流は凄く良いと思う。
渓流釣りの雰囲気は味わえるのだから。
でも僕の足腰はまだ大丈夫だ。
或いはまた、それが食べることを目的とする釣りであっても話は別だろうと思う。
冬の間も栄養価の高い飼料を与えられていたのだから、天然の環境で冬を越したサビの残るアマゴよりも美味いだろうと思う。
でも、食べることが目的ではない。
自分が釣ったアマゴを初めて塩焼きにして食べた時は、なんて美味い魚なんだろうと感激した。
渓流釣りを始めた頃の僕は、釣りそのものも楽しんだが、釣ったアマゴを食べることもとても楽しみであり、家族が食べる分を釣らねば帰れないというくらい、とにかく手を変え品を変えポイントを変えて色んなことを試した。
今でも年に1,2回は持ち帰って食べる。
ただしそれは梅雨入り直前から梅雨明け直後の期間限定である上に、サイズも20~25cmくらいという制限が付く。
その頃のアマゴが一番脂が乗っていて美味い。
小さくても食べ応えがないし、大きくても味がいまひとつ。
本当はよくないことなのだが、実は稚魚がいちばん美味しい。
鈎の掛かりどころが悪くてリリースしても生きていけないようなのは持ち帰るのだが、柔らかくてふっくらした身は絶品だと思う。
持ち帰ったアマゴはたいては炭火で焼くのだが、肉を焼いているのかと錯覚するほどぼたぼたと脂が落ちる。
そんなアマゴを年に1~2回食べれば僕はもう満足する。
だからここ数年は釣ったアマゴの殆どはリリースしている。
強く大きくなる遺伝子を残して欲しいという思いで泣き尺以上の個体は必ずリリースしている。
純粋に釣りを楽しんでいる。
でも今年は、というか今年もまだこの時期になってもアマゴの顔は見ていない。
何故か・・・僕は本流で竿を絞ってくれる相手に会いたいからだ。
釣りのスタイルは色々ある。
皆それぞれ楽しみ方がる。
それを否定するつもりはない。
ただ、僕の拘りと言ってよいのだろうか、20cmそこそこのアマゴを手返しよく何匹も釣り上げることに楽しさを感じない。
本流釣りを始める前は、数を釣ることも楽しかった。
でもそれが変わった。
数釣りは好まない。1匹でいい。1匹でいいから、目の前のポイントに居る一番デカイやつを獲りたいと思うようになった。
そして、そのデカイやつには目一杯竿を絞って欲しい。
僕はそれを腰を落として竿を矯める。
そのデカイやつには、横方向の動きよりも深みに潜りこむような引きで穂先が目の前まで降りてくるほどに絞って欲しい。
フィニッシュは、長尺の本流竿の竿尻を持った右手を天に突き上げて、差し出した左手の玉網の中にそのデカイやつを収めたい。
そういう釣りはまだこの時期には出来ないのだ。
だから僕は待っている。
本流のアマゴたちが大きくなるのを。
意固地だとか、単なるナルシストと言われるかもしれない。
でもそういう釣りが好きなのだ。
ただ、正直なところ待ち続けるのは辛い。
ならば一足先にそのような釣りを楽しませてくれるサツキマスを狙いに行こうと思おう。
不幸にしてサツキマスは簡単に釣れる魚ではない。
ここでもまた待たねばならない。
たまにどうしても待ちきれなくなって「様子を見に」だとか「道具の状態の確認」とか称して川に行く。
でもたいていは何も釣れない。
よく言うところの「ボウズ」となる。
でも気にしない。
もう少しで必ずデカイやつを釣るから。
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