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世の中にはひどい親がいる。とりわけ「毒親」と称される親たちは、子どもを暴力で支配したり、巧妙にコントロールしたりする。
長く家族問題をテーマにしてきた私は、歪んだ親子関係に苦しむ人を取材する機会が多かった。つらい子ども時代を過ごしておとなになった人たちは、過去の呪縛から逃れようとする。親との接触を避けたり、実家と断絶したりして、仕事や家庭、心の安定を保ってきた。
そうして自分の人生を守り、逃げ切れたと思ったはずが、再び親と向き合わざるを得ない現実に直面する。この国の高齢者数は約3500万人、90歳以上は200万人を超えた。内閣府の『平成29年版高齢社会白書』によると、要介護(要支援含む)認定を受けた高齢者数は592万人、6割以上が同居の親族に世話されている。親族のうち「配偶者」は26.6%だが、「子」(21.8%)と「子の配偶者」(11.2%)は計33%と上回る。介護認定を受けていない人や、別居しながら老親を世話する子どもを加えれば、さらに大きな数字になるだろう。
もはや子世代は、「高齢化する毒親から逃げられない」時代を迎えた。そこに何が起きているのか、あらたな実態を探っていこう。
◆◆◆
周囲をキャベツ畑に囲まれた群馬県北部の実家は、玄関からの長い廊下に続き間の和室、典型的な農家の造りだ。北向きの薄暗い台所に入りかけた沢田雅也さん(仮名・50歳)は、足の踏み場もないほどの散らかりように言葉を失った。
汚れた食器、空き缶、焦げた鍋……
古い食品に汚れた食器、空き缶と空き瓶が山と積まれる中に、黒く焦げた鍋やフライパンが見える。どこからか漂う嫌な臭いの元をたどると、隣の茶の間から変色した男物のズボンが何本も出てきた。尿なのか便なのか、いずれにせよ「これはマズイな」と胸がざわつく。
自宅と勤務先がある神奈川県から高速道路を使って4時間。決して遠くはない距離なのに、20年近くほとんど訪ねてこなかった。78歳の父と74歳の母、老夫婦の二人暮らしを忘れたわけではないが、父への嫌悪感がどうにも拭えなかった。だが今となっては、そうも言ってはいられない。
「昨年12月に母が亡くなったんです。がんで闘病していたことは知ってたけど、本人からの電話で回復したと聞き安心してました。それがいきなり、葬儀社からの連絡で駆けつけることになって。こういう大事な報せさえ他人任せにするんですから、父の人間性がわかるでしょ?」
怒りと諦めが混ざったような口調で言うと、雅也さんは少しおどけた。「これからのことを考えると、ハゲも進みそうだなぁ…」、薄くなった頭頂部を手のひらで撫でまわす。
仕事はキツイし、妻とは家庭内別居状態
自動車販売会社に勤め、2歳年下の妻と独立した社会人の息子がいる。仕事も時節柄キツイのだが、もっとキツイのは妻との関係。いわゆる「家庭内別居」状態で、もう何年もろくに口をきいていない。母の葬儀や法要には参列してくれたが、ひとり残った父をどうするか、妻には相談できる雰囲気ではないという。
「僕は育ちが悪くて夫婦仲も悪い。ついでに性格だって悪いんですよ」、そう自嘲気味につぶやいた。
雅也さんは兼業農家の長男として育った。両親に祖母、2歳下の妹の5人家族、農業は主に母と祖母が担い、父は近くの工場で働いていた。「酒乱だった」という父は、飲むほどに人が変わる。メシがまずい、風呂がぬるい、些細なことに激高しては母や雅也さんを殴りつけた。
身長160センチと男としては小柄な父だが、筋肉質のガッシリした体格で力があった。5発、6発と殴られるとたちまち顔が腫れ上がり、そんな姿で学校に行くと「お岩さん」とからかわれた。四谷怪談に出てくる女主人公に似て不気味、そして哀れだったのだろう。
「気持ち悪い顔だな、誰に似たんだ?」
「一度タガがはずれると、暴言もひどかったですね。誰彼かまわずこき下ろし、延々と悪口を聞かされる。僕らが黙って聞いてると『なんとか言え』と怒られ、何か言えば『生意気言うんじゃねえ』と殴られて、もうメチャクチャですよ」
気弱な少年だったという雅也さんは、格好のターゲットになった。「おまえみたいなバカは死んだほうがいい」「気持ち悪い顔だな、誰に似たんだ?」、容赦なく罵られては縮み上がる。そんな残忍さの一方で、父には別の顔があった。
「釣りに連れていってくれたり、パチンコの景品で子ども用のお菓子を持ち帰ったりするんです。普段がひどいから、たまに見せる優しさがとにかくうれしくてね。やっぱり父はいい人なんだ、子ども心にそう思い込もうとしてました」
だが、「いい父」は所詮錯覚に過ぎない。気まぐれのような優しさは、すぐに何倍もの嵐になって襲いかかってくる。厳寒の夜、散々殴られた末にパンツ一丁で締め出され、真っ暗な物置小屋で震えたことがあった。父を恐れてか母は助けてくれず、「もうすぐ殺されるかな」と絶望した。
前歯のない口で怒鳴る父
地元の高校を卒業後、寮付きの会社に就職して家を出た。自分の生活に追われるうち母や妹との交流も減り、特に妹とは疎遠になった。
「実を言うと昔は、僕自身が妹をぶったりしてたんです。弱い者がより弱い者をいじめる構図というか……。妹は実家から車で一時間のところに嫁ぎましたが、自分の生活で目一杯らしいし、今さら父のことを頼める空気でもない。そもそも田舎では、親の面倒は長男の責任という意識が根強いですしね」
母の葬儀後、雅也さんは何度か実家へ行き、父との話し合いを試みた。「体の具合はどう?」「これからひとりで大丈夫か?」、さりげなく話しかけても、父は顔を真横に向けたまま目も合わせない。母に関連する各種の手続きを進めるため、預金通帳や年金手帳の在りかを尋ねると、ムスッと黙り込んでビールを飲みはじめてしまう。
大音量でテレビをつけ、寝転がりながら缶を空けていく父を横にして、仕方なく汚れた部屋の片付けをはじめれば「さわるな! 帰れ!」。入れ歯をなくしたのか、前歯のない口で怒鳴る父に老いの惨めさを覚えつつも、変わらないその姿勢が情けなくてたまらない。
「正直早く死んでくれ」と思う一方で
「年寄りなんてそういうもんだと割り切れればいいんでしょうが、むずかしい。むしろ、ここまできて何やってんだ、ちょっとくらい反省しろよ、と爆発しそうになる。こいつはもう救いようがない、正直早く死んでくれとも思うんです」
それでも荒んだ暮らしを目の当たりにした帰り道、妙な罪悪感が湧いてくる。母への孝行もできず、幼かった妹を傷つけ、老いた父まで捨てていいのかと。数十年前、一家で汗した農作業や、父と釣りをしたひとときをふと思い出し、自分が薄情者のように感じるのだ。
2ヵ月前、雅也さんは実家近くの親戚を訪ねた。ときどき食事を届けるなど何かと父を気遣ってくれるが、そのぶん雅也さんには手厳しい。「息子だったら面倒見なさいよ」「ウチに甘えるのもいい加減にしてくれ」……シビアな説教をされた上、思わぬ話を聞かされた。
父みたいな年寄りを引き受ける介護施設はないと言われて
「父みたいな年寄りを引き受ける介護施設は地元にないと。本当かどうかはともかく、酒乱となると確かに条件は厳しいでしょう。介護保険や相談窓口があるのは知ってますが、本人の意思や家族の協力はどうしたって必要ですよね。いろいろ考えるんだけど、考えるほど憂鬱になって逃げたくなるんです」
ふぅーっと長い息を吐く。憂鬱を払うように頭頂部をゴシゴシッと掻きむしると、ぎこちない笑顔を作ってみせた。
「親との関係がうまくいかず、介護に悩む子どもはたくさんいます。むずかしいのは、自分の親が本当に毒親なのかという『見極め』です」
こう話すのは、遠距離介護の家族を支援する『NPO法人パオッコ』の太田差惠子理事長だ。死んでも関わりたくないほどの毒親なのか、少しくらいは助けてやろうと思えるのか、自分の気持ちを整理することが大事だという。
親との「縁の切り方」
「各地域には、高齢者の生活や介護の相談窓口である地域包括支援センターがあります。自分だけでいいので、まずはここを訪ねてどんな支援をしてもらえるのか確認してください。過去に虐待されていた、親が暴力的、家族関係が悪い、そういう事情があるなら隠さず伝えましょう。その上で親との縁を切るのか、それとも何かできるのか、相談員と話し合うことが大切です」
「縁を切る」としたら、必ず行政につないでおく。日常的に介護していたのに、突然放棄すると、保護責任者遺棄罪などに問われる可能性があるからだ。また、自分が親と絶縁すると別の身内に面倒が及ぶこともある。兄弟や親戚には事前に状況説明をするといい。
罪悪感が拭えないときには
「何かできる」とすれば、自分が関われる範囲を決める。たとえば親が施設入所となったとき、「面会には行かないが、身元保証人にはなる」などと具体的に一線を引いておく。雅也さんのように罪悪感を拭えず、気持ちが揺らぐ場合にはこんな考え方もあるという。
「世の中には子どものいない高齢者がいる。でも、みなさんふつうに生きてますよね。つまり、自分が背負わなくてもどうにかなると割り切ってもいいんです」
毒親に関わることで破滅するくらいなら、自分の人生を優先していい。「逃げてもいいんだ」、そう考えれば楽になり、あらたな視界が開けるかもしれない。
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長野県に移住を決めた
いつかは小鳥のさえずりで目を覚まし、夜は虫の音を聞きながら星空を眺めて…。
アメリカに駐在していた頃のように、日本でもそんな生活をと夢見ていた元商社マンのAさん(64歳)は、子会社役員の任期も終え、長野県は佐久平に1500万円ほど遣って居を構えた。
「佐久を選んだ理由は、何かあれば東京まで新幹線ですぐに行けること。病院も近く、移住者らも多く住んでいるので、自治体も都会目線での移住者対応にも慣れていることも大きかった」
米国駐在時代は、ニュージャージーの自宅にも鹿が現れるなど、「自然に囲まれながら都会の生活」に仕事の疲れも癒やされた。
そんな思い出を忘れられず、コロナ禍が始まる前に、長野県・佐久に居を構えた。
「軽井沢にも近いので、アウトレットや買い物など、都会の雰囲気が恋しくなればすぐに足を延ばせるのも魅力でした」
なぜ、軽井沢ではなかったのか。問うと、Aさんはこう答えた。
「軽井沢は、仕事時代の同僚や取引先の知人もたくさんいるのがちょっとね……。仕事時代のことを忘れたいのに、逆に老後も仕事時代の人間関係が延長するようでちょっと気が重くなりまして」
そこで、洗練された軽井沢の空気を楽しむことができながら、しかも適度な距離感が保てる佐久に移住先を決めたのだった。
東京から150km、信越道と新幹線という二大インフラが整備され、インターから車で10分走っただけで、浅間山の火山灰の大地の上には適度な木立が広がっている。
傍には渓流が流れているのも魅力だった。
「太公望をやってみたいな、と。たとえ釣れなくても、一日中、釣り糸を垂れて、若い頃の思い出に浸りながら老いて行ければ幸せだなと」
寝付けなくなったワケ
Aさんのそんな思い描いた移住生活は、「これは、誰のせいでもなく、僕自身の感性によってね、無理だと思った」ものだったという。
自身でも神経質だと認めるAさんは、夜でも物音ひとつですぐに目が覚め、寝付けなくなってしまうのだった。
深夜、とばりが下りるとともに、闇のなかに立ち現れるのは、期待した静寂ではなかった。
「家内と暖炉に薪をくべながら、おしゃべりしたりしている時はいいんです。問題は、布団に入ってからが」と、Aさんは笑う。
深夜、そばを流れるせせらぎの音が、じわり家の中に入り、耳に届くのだ。
「不思議なことに、耳って、一度音を拾うともうずっと意識しちゃうものなんですね」
車の音もなく、雑音のない森の中で、水の音はこれほどまでに大きいのかと思うほどに、脳裏に響いてくる。
「水道ではなく、川だから、蛇口を閉める訳にもいかない」
昼間は癒やされた岩の上を滑り落ちる小さな音が、これほどかというほどに大きく聞こえてくる。
寝付けない日々が続き、移住後半年もすると、Aさんは睡眠不足に陥った。
別の「騒音」も…
さらに、夏場を迎え、日の出が早くなると、鳥のさえずりも寝起きが早い。
「朝の4時から鳴き始めると、どんなに綺麗な音色でももう雑音にしか聞こえません」
夏になればオオルリがやってきて、春先は繁殖期を迎えると、そのオオルリの美声もさらに激しさを増す。
「静けさの中での自然の音がこれほど大きいものだとは知りませんでした。天然の音や色を求めて移住してきたのに、自分自身がそれに耐えられなくなるっていうのは皮肉なものでした」
Aさんは結局、二回目の春を迎える前に、移住者向けに分譲されている新興の住宅地にさらに転住した。
「ヨドバシでこんなのまで買ったのにね」
とAさんはまるで野球場のスポーツカメラマンが使うような大きな超望遠レンズを見せてくれた。
春は鳥のさえずり
夏は水のせせらぎ
秋は虫の音
そんな花鳥風月を楽しみにしての移住暮らしが、実は、静寂の中では「騒音になってしまった」。
Aさんは都会時代の生活をこう振り返る。
「今、思い返すとね、都会っていうのは騒音ばかりなんで、逆に些細な音が気にならない、そんな生活だったんですよね。都会人の生活にはむしろ静寂がないから、耳や身体が音になれてしまっていて。でも、森のなか、山のなかで静かな暮らしに入った途端に、たとえ綺麗で小さな音でも、大変な騒音ほどに大きく響いてきてしまうっていうことなんでしょうね」
二重サッシの室内はほぼ無音だ。今は、趣味のクラシックを気の向くままに楽しむ毎日だ。
「田舎暮らしと言ってもね、結局、都会で生きてきた人間は、田舎でも都会暮らしをすることでしか満足できないのかもしれないな」
自嘲気味にそう言って、小さく笑う。
「虫がいるなんて聞いてなかった」
地元の不動産業者が言う。
「移住者が増えるのはありがたいんですが、でも、突拍子もないクレームも増えてます。川のそばがいいからっていうから仲介すれば、川の音がうるさい、水の音がうるさい、鳥の鳴き声も、繁殖期には凄まじいですから。それにセミもすごいです。
あとは、虫がいるなんて聞いてなかったとかね。虫は田舎に限らず、都会にだっていますよ。虫がいるなんて聞いてないってね。だったら、工場のクリーンルームにでも住めばいいんですよ。まあ、都会からくる人たちはワガママですよ。今がブームとか言いますけど、早晩、また都会に引き上げて行くでしょうね。その時はこっちはまた売ればいいから、商売としてはありがたいんですけどね」
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秋篠宮家の長女・眞子さまとの婚約が内定している小室圭さんが4月8日、金銭トラブルについて説明する文書を公表した。
文書は小室さん自身の名前で書かれており、「文書の概略」が4ページ、「文書本体」が8章構成で24ページという長文。概略と本体、36個の脚注を合わせて、文量は約4万字というボリュームになっている。
本記事では、「文書本体」のうち「5 金銭トラブルと言われている事柄に対する私と母の認識について」の全文と、その注釈を公開する。なお、原文中の脚注表記などについてもそのまま記載している。
◆
5 金銭トラブルと言われている事柄に対する私と母の認識について
「4」で説明したとおり、平成31年(2019年)の文書では、母と元婚約者の方の間に起こった金銭トラブルと言われている事柄の経緯を詳しく説明することはしませんでした。ここでは、令和元年(2019年)5月以降、母が元婚約者の方とどのようなことを話し合ってきたのかを理解していただくためにも、改めて、金銭トラブルと言われている事柄に対する私と母の認識を可能かつ必要と思われる範囲で説明します。
(1)母と元婚約者の方は平成22年(2010年)9月初めに婚約しました。婚約するにあたって2人が交わしたやり取りを以下に説明します。
元婚約者の方は当時私や母と同じ集合住宅に住んでいらっしゃった方で、一時期は私の亡き父と共に集合住宅の役員をされていた方でもありました。母とのお付き合いが始まったのは平成22年(2010年)の春頃からでしたが、それは、上のような経緯から母も私も元婚約者の方を以前から存じていたということと同時に、元婚約者の方が優しくて紳士的な方だという印象を持っていたということも理由でした。しかし、元婚約者の方がお食事に連れて行ってくださるお店が応分の負担を求められる母にとっては金額の高いお店であることが続いたため、ある時期から母は困難を感じ始め、今後もそのような状態が続くのであれば家計に支障をきたす心配があると思い悩むようになりました。一方で、母は元婚約者の方のお人柄に好感を持っていましたので、元婚約者の方が真剣にお付き合いをしてくださっているのであればお付き合いを続けたいという気持ちがありました。そこで、この交際が真剣なものなのかについて元婚約者の方にお尋ねしたところ、元婚約者の方は、母さえ良ければ結婚を前提としていますとおっしゃってくださいました。母は、結婚を前提にするのであれば自分達が決して余裕のある状況ではないことを正直にお伝えすべきだと考え、そのことを元婚約者の方にお伝えしたところ、元婚約者の方はそのことを受け入れてくださり、そのうえで、婚約に向けての話し合いが発展していきました。
元婚約者から「全面的にバックアップ」の言葉
結婚に向けて話し合うなかで、元婚約者の方は、家族になるのだからこれからは金銭面も含めて全面的にバックアップします、保険に入っているので自分に何かあっても当面は路頭に迷うようなことはありません、安心してください等とおっしゃってくださいました。母は、元婚約者の方のこれらの言葉に思いやりを感じて信頼し、結婚のお申し出を受け入れました。元婚約者の方は、私の学費を出してくださるというお話もしてくださいました。また、時期が婚約前だったか後だったかについては明確ではありませんが、元婚約者の方が、家族も同然と思っているので圭くんの学費も出しますよ、父親ならば息子の学費を出すのは当然です等とおっしゃってくださったこともありました。私は学費については奨学金を利用するつもりで母もそのことを知っていたため、母は元婚約者の方に、なるべく奨学金で支払うので、とお伝えしました(「5」注11【1】も参照してください)が、母も私も何か困ったことがあったら頼れる方がいるのだという安心感を持つことができありがたい思いでした。
婚約にあたり、元婚約者の方は母に、お互いの友人を呼んでクルージング婚約パーティーを開きましょうかという提案や婚約指輪を贈りたいという提案をしてくださいました。母は有り難く思いつつも、次第に、元婚約者の方も母も決して若くはなくお互いに初めての結婚ではないので、豪華なパーティーを開いたり高価な指輪をいただくよりも他の使い道を考えた方がよいのではないかと思うようになり、元婚約者の方にそう提案しました。元婚約者の方は母の提案を快く受け入れてくださり、家族になる3人にとってよりよい使い方をしましょうという結論に落ち着きました。このとき元婚約者の方は母に、金銭面で困ったことがあれば遠慮なくいつでも言ってくださいとおっしゃってくださいました。
(2)翌年の平成23年(2011年)3月に発生した東日本大震災の影響を受けて、当時は時給制のパート従業員として働いていた母の出勤日が少なくなり、収入も激減することになりました。そのことを知った元婚約者の方は、困っているのに知らぬふりなどできません、家族になるのですから当然です、こういうときこそ協力し合わねば、婚約者という立場で良かった、頼られて嬉しいです等とおっしゃってくださり、実際に金銭の支援をしてくださるようになりました[注10]。
母は、元婚約者の方が婚約する際に金銭面も全面的にバックアップしてくださるとおっしゃってくださったことがあるとは言え、助けていただきたいとお願いすることに躊躇もあったため、お借りできますかとお願いしたこともありました。また、元婚約者の方が支援をしてくださる際には、本当に(お金を出していただいて)よろしいのですか?、ご無理ではないですか?、大丈夫ですか?と度々お聞きしていました。その度に元婚約者の方は、家族になるのですから当然です、頼られるのは嬉しいです、心配には及びません、男に二言はありません等とおっしゃってくださいました。
家族になるのですから当然ですと度々おっしゃってくださり親身になってくださったことで既に3人家族になっている心持ちでいた母は、元婚約者の方の言葉を信じて支援を受けるようになりました。このとき以降平成24年(2012年)9月に元婚約者の方のご意向で婚約を破棄されるまでの間、私と母は元婚約者の方から支援をいただきました[注11]。当時の私は、元婚約者の方が常に母に気を遣わせないようにご配慮くださるのを見て尊敬していましたし、母との間で、元婚約者の方が素敵な方だということや、助けてくださって本当にありがたいという話題が出ることもしばしばありました。元婚約者の方が母との婚約を破棄するまでの間支援してくださったことへの感謝の気持ちは当時も元婚約者の方に繰り返しお伝えしていましたが、今も大変ありがたく思っています。
元婚約者は「返してもらうつもりはなかった」の言葉を翻した
(3)平成24年(2012年)9月13日午後11時15分、母は元婚約者の方から、婚約を解消したいという一方的な申し入れを突然受けました[注12]。理由について尋ねても元婚約者の方からの説明はなく、理由が明らかにされないまま[注13]母は婚約解消を受け入れざるを得ませんでした。
このとき母が、婚約期間中に受けた支援について清算させていただきたいとお伝えしたところ、元婚約者から「返してもらうつもりはなかった」というお返事が返ってきました[注14]。
以上のような理由から、母は、婚約解消にあたって2人の間でお金をやり取りする必要はなくなったと理解しました(「4」注9を参照してください)。
この婚約破棄の話し合いは、留学へ行く私を支援してくださるという話が元婚約者の方から出るほどで、刺々しい雰囲気もなく円満に終わったと私も母も思いました。
(4)婚約破棄から11ヵ月経った平成25(2013年)年8月、母は突然元婚約者の方から手紙を受け取りました。その内容は、「返してもらうつもりはなかった」という言葉を翻し、交際していた期間に負担した費用の返済を求めるものでした。
母はあまりのことに驚き、どうすればよいのか自分では判断ができなかったため、弁護士に相談したうえで同月6日[注15]にご要望には応じかねることとその理由を(「返してもらうつもりはなかった」という元婚約者の方の言葉を信用していたことも含めて)お伝えしたところ[注16]、元婚約者の方は私も弁護士に相談して何かあればこちらから連絡しますとおっしゃいました[注17]。このとき元婚約者の方が「返してもらうつもりはなかった」という発言はしていないとおっしゃることはありませんでしたし、婚約を破棄した理由や母に対する慰謝料について何かおっしゃることもありませんでした。
(5)元婚約者の方は「何かあればこちらから連絡します」とおっしゃったものの、その後に連絡が来ることはなく、偶然お会いすることがあっても金銭の話題が出たことはありませんでした[注18]。それから数年が経っても何のお話もなかったことから、私も母も元婚約者の方に納得していただけていたものと理解していました。このような経緯でしたので、私も母も元婚約者の方から婚約期間中に受けた支援については解決済みの事柄であると思っていました。
(6)ところが、私と眞子様の婚約内定が平成29年(2017年)9月に発表されると、その後の平成29年(2017年)12月12日の週刊女性に元婚約者の方の友人のコメントだとされるものが掲載されました。その時点では、内容が事実とかけ離れていて驚きはしたものの、元婚約者の方ご本人のお話ではないようでしたし、報道が過熱するとは思いませんでした。しかし、平成30年(2018年)2月16日の週刊現代に元婚約者の方ご本人のコメントだとされるものが掲載され、一方的な話があたかも事実であるかのように取り上げられ連日報道される事態となり、私も母もたいへん驚き困惑しました。最初の報道の時点で平成25年(2013年)8月のやり取りから4年4カ月が経過していました。返金を求めるのであればなぜ直接請求をしないのか、なぜ週刊誌を利用する必要があったのか、なぜ事実と異なる内容が真実であるかのように報じ続けられているのか等々疑問点は多くありましたし、恐怖も感じました。それでも、「3」にも書いたように、元婚約者の方とお互いの認識についてきちんと話し合い、ご理解を得た上で解決するためにはどうすればよいかを考えながら対応することを決めました。
「元婚約者の方の負担になっていたとは…」佳代さんの反省
(7)これまでの報道に接してこられた方のなかには、母が元婚約者の方をただ金銭のための存在と見なしていたのではないかと思われている方が多いかもしれません。実際には違いますが、母を直接知らない方や事情をご存知ではない方からはそう見えるかもしれません。当時のことを振り返り実際の経緯を整理するなかで改めて感じたのは、母は元婚約者の方のおっしゃることを言葉のままに受け止め過ぎていたのではないかということです。
多くの方には理解し難いことかもしれませんが、私も母も元婚約者の方は結婚を前提として善意で支援してくださっているのだと思っていたため、婚約破棄の理由が、支援が増えすぎて元婚約者の方の負担になっていたことだとは思いもしませんでした。母が支援を清算させていただきたいと元婚約者の方にお伝えした(「5」(3)を参照してください)のは、結婚を前提としていただいている支援だと認識していたことから、結婚がなくなるのだとしたらどうするべきなのかきちんと確認しておかなくてはならないと考えたためです。それに対して元婚約者の方は「返してもらうつもりはなかったんだ」とおっしゃり(「5」(3)及び「5」注14を参照してください)、私も母もその言葉をそのまま受け取りました。だからこそ、平成25年(2013年)に元婚約者の方からいただいた手紙を読んだときには、理由を教えていただけずに突然婚約破棄をされたことの衝撃を引きずっていたことに加え、婚約破棄の段階で支援を清算させていただきたいと申し上げたうえで「返してもらうつもりはなかったんだ」というお返事をいただいたはずなのに、という気持ちも強くありました。その際のやり取りは、元婚約者の方の、私も弁護士に相談して何かあればこちらから連絡しますという言葉で終わり(「5」(4)を参照してください)、私や母はその言葉をそのまま受け取りました。だからこそ、報道が出たときに驚きました。一連のことを振り返ると、元婚約者の方との間に起こったことについて、私や母は、終始、あの時元婚約者の方はこうおっしゃったのに、という気持ちがあったと思います。では、元婚約者の方がおっしゃったのだからそれをそのまま受け取って問題ないという気持ちでいて良かったのかというと、そうでなかったからこそ現在のような状況になっているのだろうと思います。支援を申し出てくださった数々の言葉も、「返してもらうつもりはなかったんだ」という言葉も、私も弁護士に相談して何かあればこちらから連絡しますという言葉も、本心というよりその場の空気からそうおっしゃったということがあったのかもしれません。しかし、私も母もそういった想像を全くしませんでした。それは、無意識のうちに、元婚約者の方のおっしゃることをそのまま受け止めたいという気持ちがあったからなのかもしれません。
このように当時のことを振り返る一方で、現在に至るまで報道されてきた内容の多くが事実でないことに関しては、受け入れることが難しいと感じています。
入学金と授業料「すべて私の貯金と奨学金で賄った」
【脚注】
[注10]このような経緯だったため、母が元婚約者の方から生活費等の支援を定期的に受けるようになったのは、東日本大震災の影響を受けた平成23年(2011年)4月以降のことでした。東日本大震災以前については、「5」注11の【1】で説明しているような出来事がありました。
[注11]元婚約者の方からの支援について、「本人たちの認識が食い違っているもの」(「5」注9の【1】も併せて見てください)を以下に挙げます。元婚約者の方のお話として報道されている情報のなかから、私と母の認識と元婚約者の方の発信されている認識とが著しく異なっているもの、そして繰り返し目立つ形で報道されてきたものを選びました(これがすべてではないことについては「1」注1を参照してください)。
【1】元婚約者の方が私の大学の入学金や授業料を支払うために母に金銭を貸し付けたという報道がありますが、入学金と授業料についてはすべて私の貯金と奨学金で賄っています。週刊現代の記事では、元婚約者の方は平成22年(2010年)11月1日に私に入学金を貸し付け、入学した翌年の春には授業料を貸し付けたとおっしゃっているようですが、それは正確な情報ではありません。
まず、私が入学したのは平成22年(2010年)9月2日ですし、そのことは元婚約者の方もご存知のことですから、既に入学している11月に入学金を貸し付けるというのは辻褄が合いません。実際には以下のような経緯がありました。
まず、入学金は私が自分の貯金(アルバイト代)から納付しましたから、入学金について元婚約者の方から貸し付けを受けた事実はありません。入学して最初の学期(秋学期)の授業料も同様に私の貯金から納付しました。第二学期(冬学期)以降の授業料については奨学金で賄いたいと考えていたので、私は入学した後の9月21日に大学に奨学融資制度の利用申請をしました。この制度を利用できることが決まったので、同年10月12日に金融機関と契約を締結したところ、11月4日に奨学金45万3000円が振り込まれ、これを11月26日に第二学期分の授業料として納付しました。それ以降(初年度第三学期から卒業まで)の授業料については、すべて融資型の奨学金と給付型の奨学金の両方を利用して納付しました。ですので、入学した翌年の春に授業料について元婚約者の方から貸し付けを受けた事実もありません。
「5」(1)で書いているように、母と元婚約者の方が婚約に向けてした話し合いのなかで、元婚約者の方は、私の学費を出すとおっしゃってくださいました。婚約前か婚約後かは明確ではありませんが、家族なので圭くんの学費も出しますよ等とおっしゃってくださったこともありました。
「明治大学を受験したことはありません」
母は元婚約者の方に、なるべく奨学金で支払うので、とお伝えしてはいたものの、婚約前から学費に関するやり取りがあったことから、奨学金が出ない場合は元婚約者の方が学費を出してくださるということで、安心感を持つことができありがたい気持ちでした。特に、私が入学して初めて奨学金を申請する学期(冬学期)の授業料に関しては、元婚約者の方の言葉を頼りにさせていただきたい気持ちでいました。母は、私の奨学金が受給できても年内には支給されないと思い込んでしまっていた(私が奨学金制度の内容をきちんと説明していなかったことと私が母の勘違いに気がついていなかったことが原因だと思います)ためです。また別のとき(時期は明確ではありませんが、元婚約者の方の車の中で2人で会話をしていたときのことで、元婚約者の方が上に挙げた発言をされたときよりは後です)に、母と元婚約者の方との間で私の大学について話題になりました。会話のなかで母が元婚約者の方に、私が入学金等をアルバイト代で賄ったことや第二学期(冬学期)の授業料については奨学金を申請することをお伝えしたところ、元婚約者の方が、それは感心だ、ぜひその分の授業料は私から入学祝いとさせて欲しい、父親の気持ちで渡したい、とおっしゃってくださいました。母は、やはり元婚約者の方は私の大学生活を応援してくださっているのだと感じ、ありがたく入学祝いをいただくことにしました。母は、上に書いたような事情から、入学祝いのお話があって安堵の気持ちもありました。これで万が一のことがあっても授業料を支払うことができると思ったためです。
ところが、その後すぐには元婚約者の方から入学祝いをいただくことができなかったので、授業料の納付時期が近づいてくるにつれ、母のなかで授業料に関する心配が大きくなっていきました。母は、元婚約者の方が入学祝いのことを忘れていらっしゃるのではと思い始め、授業料の納付が間に合わなくなると困ると思いながらもどう言えばよいものかあれこれ悩んだ末、はっきりと送金をお願いするしかないという追い詰められた気持ちで、第二学期(冬学期)分の授業料分の送金をお願いしました。そして、元婚約者の方は11月1日に45万3,000円を母の口座へ送金してくださいました。このような経緯がありましたが、今になって当時を振り返って母の行動について考えると、明らかに冷静さを欠いていたと思います。
上に書きましたように、私の奨学金は10月12日に受給が決定し、11月24日に支給され、11月26日にそのお金で第二学期(冬学期)の授業料を納付しました(母は実際に奨学金が支給されるまで自分の勘違いに気が付いていませんでした)。元婚約者の方が振り込んでくださった分は、入学祝いをくださったことのお礼を元婚約者の方にお伝えし、ありがたくいただきました。入学祝いというところから元婚約者の方は11月1日のお金を入学金だと勘違いなさったのかもしれませんが、これは入学祝いとして一学期分の授業料に相当する額をいただいたものであって貸し付けではありませんでした。
週刊現代の記事には、国際基督教大学と明治大学に合格し前者の方が授業料が高いのにも関わらずそちらに進学したいということで入学金などの学費支援を頼まれたと元婚約者の方がおっしゃっているといった内容もありましたが、入学金は私が自分で支払っていますし事実と異なります。学費支援については「5」(1)でも書いているように元婚約者の方からの言葉がありましたが、結果的には学費は全て私が自分の貯金と奨学金で賄っています。ちなみに、私が明治大学を受験したことはありません。
【2】平成24年(2012年)9月に私は大学の交換留学制度を用いて1年間カリフォルニア大学ロサンゼルス校へ留学しましたが、そのために十分な預金残高が必要であったことから、母が元婚約者の方にお願いをして一時的に200万円を送金していただいたことがありました。無事にビザを取得することができたのでお返ししたいと母がお伝えしたところ、元婚約者の方が、いちいち振り込むのも面倒なので当面の生活費に充ててくださいとおっしゃってくださり、生活費に充てることになりました。いちいち振り込むのも面倒なのでというのは、これから支援が必要になるときが来るだろうからまとめて取っておいてくださいという意味でおっしゃってくださったのだと思います。週刊現代の記事では、元婚約者の方が留学費用として200万円を振り込んだとされていますが、事実と異なります。留学費用に関しては、留学を支援する奨学金と大学の奨学金、私の貯金(アルバイト代)で賄いました。母から生活費として使いたいと申し出たとする報道もありましたが事実ではありません。
「返してもらうつもりはなかった」決定的な録音データ
[注12]婚約破棄は母が申し入れたものだとする報道がありますが、まったくの誤りです。元婚約者の方がそのような発言をしたものは見当たらないようですから、このような報道がされているのは不可思議です
下記の記事は日刊ゲンダイデジタルからの借用(コピー)です
時々、「どんな投資商品を売っているのですか?」と聞かれるのですが、そのたびに、ぞっとします。投資商品を売ることはありません。紹介することもありません。
なぜなら投資商品のほとんどが投資不適格だと思っているからです。
投資商品を買うという概念は本来の投資スタイルではないのです。
本来の投資は、自分で流動性が高い株の市場、為替の市場、商品(金・原油・穀物など)の市場などで直接売買することだと思っています。
金融機関などで勧められた商品を買うのではなく、多くの人が参加する自由な市場で自分の判断で適正な価格で取引することです。
投資では買ったものをすぐ売っても、ほぼ同じ価格で売れることが大切です。また、売買手数料や信託報酬(運営管理手数料)がゼロか、ゼロに近いものでないとコストに負けます。
「投資の素人なのでプロにお任せする」という人が多いのですが、それは「私は無知なので、どうぞ売り込んでください。信じて買いますから」と言っていることです。
カモがネギを背負っている状況なので、ファンドで売れている順番は運用成績が良い順番ではなく広告費・手数料が多い順番に売れています。
広告費・手数料は運用資金から引かれます。
お勧めは、もはや投資商品といわない流動性の高いインデックス型ETF(上場投信)の中のごく一部くらいです。
ETFは株式市場で株と同様に簡単に売買できます。
以前、テレビ東京で投資のコメンテーターをしていた時にキャスターから「買ってはいけない投資商品」の企画案が出ましたが実現しませんでした。その番組で流れていたCMが、まさしく買ってはいけないファンドだったからです。
次のような投資商品は全て怪しいと思っているといいです。
●ファンド
ほとんどのファンドは一部の適切なインデックス型ETFに勝てません。それは20年くらい前から海外では常識です。
●仕組み債
高度な金融技術を使った商品はリスクを隠し、売り手が利益を得やすくするためのものだと思ってください。
●ワイン投資・和牛預託
業者が現物を預かるタイプの投資はリスクが高く詐欺も多いです。
顧客の資産と業者の資産の分別管理がされていないものは業者が破綻すると資金を失います。
リスクが高いため投資リテラシーが高い人は手を出さない趣味の分野です。
●バイナリーオプション
投資商品とはいいませんがレートが上昇するか下落するかを当てるバクチ取引です。
バクチ感覚で投資をする人のほとんどが破綻や資産を減らします。
松島修投資助言会社社長