渉成園(枳殻邸)の中の建物、どれも風流な名前で難しい字。記事書くうち、このアプリがフリーズしたので後回しになっていました。
渉成園の門前の道を京都駅方面へ歩きます。
念珠店に法衣店、それから各県から門徒さんが本山にお参りした時に安く泊まれる宿などが並んでいます。飛騨詰所とあるのもそうでしょう。
すぐに東本願寺の前に。
渉成園に東西二つの本願寺は、方広寺の門前、御前通を塞ぐようにできています。方広寺も今はひっそりとしていますが、秀吉造営の頃は今の京都国立博物館の敷地まで境内があったそうで、もちろん大仏に有名な鐘も。その大きさから往時の方広寺の壮大さがしのばれます。
徳川氏は京都から豊臣氏の痕跡を消し去る意味もあって、この場所に寺の造営を許したのでしょう。
境内のガイドツアーに途中から参加します。
若い女性のお坊さんです。まずは左隣の阿弥陀堂から。
今から拝観です。堂内撮影禁止。阿弥陀如来像その他が安置されています。京都駅はすぐそこです。
隣が一番大きな御影堂です。
渡り廊下に木を運んだそりが置いてあります。
小さいのもあります。しっかりした木です。
これは本堂再建の時、北陸地方の門徒さんが雪の山で材木運ぶために使たものだそうです。北陸のお寺にあったのをこちらへ移したそうで。
説明によると、東本願寺の堂宇すべては幕末の蛤御門の変で焼失したとか。
知らんかったあ~この年まで。我が無知を恥じるのみ。
江戸時代初めの建物にしては新しく見えると思っていたけれど、今あるのはすべて明治以後の建造と説明されました。
それにしても蛤御門の変です。御所からここまでかなり離れています。教科書ではたった一行の記述ですが、京都にとっては大変な戦さでした。焼失面積もとても広いのでは。焼けた面積は広島の原爆に匹敵するのかなと。渉成園も全部焼けたと言うし。
日本の近代化は革命ではなく、戦争もなかったと言うのは一面的な見方。鳥羽伏見から始まって上野の彰義隊、東北諸藩の戦い、最後の函館まで、やはり国全体を巻き込んでの大戦さでした。
しかしたちどころに前よりも大きなお堂が再建されるのが教団の底力です。
渡り廊下と山門。
阿弥陀堂を振り返る。
御影堂は宗祖親鸞上人の像が安置されています。
それで御影堂と言うんですね。知らんかった。
歎異抄によると、親鸞は弟子ひとり持たず、堂一つ持たないと言っていたそうですが、ラディカルなその教えを分かりやすくかみ砕いて短い和讃にし、布教した後々の宗祖。戦国大名と戦うほどの力を持つようになった信者集団。
石山合戦の後、王法と仏法の落としどころとして、京都に大伽藍を建てる。
歴史は思わぬ方向に進んだともいえますが、組織を防衛した結果ともいえるのでしょうか。
と、婆ちゃんもあれこれ考えました。
日が傾いてきました。参拝の記念にカレンダーを買って、このあと歩いて京都駅へ。
忙しい一日でした。今から帰ります。
光の階段。
まだまだ明るい。
5年前です。何しに行ったのかな。たぶん一人で遅い紅葉を訪ねての帰途。
今年は3回京都へ行った。人が戻り、外資系のホテルが増え、古い家はおしゃれなショップに代わり、古都も日々変遷。しかし、歩くのも疲れるようになりました。荷物はなるだけ軽く。それでも歩くうちに次第に重くなる。
人、これを寄る年波という。
先日の友達も、運動系の部活していたのに立ち話は疲れると椅子に座って話しました。
でもまあ、歩けるうちは出歩きましょう。
出た所に 物乞いが 居ないのが
良いですね
きれいですっきりしていました。