1367年
李成桂(イ・ソンゲ)の5男として生まれた太宗(テジョン)李芳遠(イ・バンウォン)
第一王子の乱・第二王子の乱を経て 半ば奪い取る形で
第2代国王定宗(チョンジョン)から譲位を受け 王座に就きます
初代国王の父もまたそうだったように まだ王権は安定していない状況であったため
李芳遠(イ・バンウォン)は 国制整備と王権強化を急ぎます
国土の地名を 山や川など自然が入ったものに変更し 私兵を廃し軍備を強化します
さらには1400年
議政府(ウイジョンブ)を最高機関と定め その下に六曹(ユクチョ)という機構を置きます
時代劇ドラマにおなじみの機構であり よく字幕と共に説明書きが出ますね
この機構の仕組みをよく理解していないと あらすじが難解な時もあります
議政府(ウイジョンブ)のトップに立つのは領議政(ヨンイジョン)です
現代でいうところの“国務総理”にあたります
その下には 左議政(チャイジョン) 次いで右議政(ウイジョン)
この2人が“副総理”にあたります
・左賛成-右賛成
・左参賛-右参賛
“左”の方が“右”より格上になります
この議政府(ウイジョンブ)の下の機構が六曹(ユクチョ)です
1つ1つは“官庁”を意味し その頂点に立つ判書(パンソ)は“長官”です
その下に 参判(チャムパン)⇒参議(チャムウィ)と続きます
時代劇ドラマ好きの方なら 聞いたことがあるでしょう
●吏曹(イジョ)
いわゆる「人事担当」です
重要な任免は王が決定しますが 優秀な人材を官職へ任命したり
罷免をしたりという権限を持っているので、買収されやすい立場にあります
なので 陰謀うごめく時代劇ドラマには欠かせないポストなのです
●戸曹(ホジョ)
財政担当です
貨幣の鋳造や人口調査も行います
租税や貢納の割り当てと帳簿の管理を任務としているので
こちらもやはり 買収されるのが必至の役職です
●礼曹(イェジョ)
王室業務と国家の祭祀担当です
公的な場における礼儀作法の監督と 儒教を広く国民に広める任務を負っています
国王崩御などの場面に よく出てきます
●兵曹(ピョンジョ)
おなじみ軍事担当です
どの時代劇ドラマでも大活躍ですね
武官の選任から軍需品調達と管理 王宮の警護も任務の1つで 王を守るべき立場ですが
裏切って騒ぎを起こすのも ドラマでは役どころとなることが多いです
●刑曹(ヒョンジョ)
刑法の遵守など裁判所の機能を任務としています
罪人に拷問をする時などに 出てきます
●工曹(コンジョ)
公共事業・社会事業担当です
宮殿を建てたり道路を造ったりします
議政府(ウイジョンブ)の3役を含め この6つの官庁の長官 判書(パンソ)が
時代劇ドラマを見る上では 外せない登場人物になることが多いですね
この機構を作った王が 第3代国王太宗(テジョン)なのです
1401年
太宗(テジョン)は 申聞鼓(シンムンゴ)という制度を作ります
宮殿の前に大きな太鼓を置き 王に直訴したい民が打てるようにしました
直接 民の声を聞けるようにと 太宗(テジョン)は考えたのです
これも よくドラマに使われるシーンです
「イルジメ~一枝梅~」 「イ・サン」にも 太鼓をたたくシーンがあります
そのほかにも いろんなドラマで使われていますね
1406年
さらに王権強化を図る太宗(テジョン)は 寺院の勢力を減退させようとします
また 1403年には 鋳字所(チュジャソ)を設立し 金属活字による印刷に成功します
これで思い出されるのはドラマ「根の深い木~世宗大王の誓い~」ですね
太宗(テジョン)は 王権強化と中央集権を確立しようと 多くの殺戮を行います
それは 王妃である元敬(ウィギョン)王后の兄弟にも及びます
元敬(ウィギョン)王后とは はじめは夫婦仲がよく 太宗(テジョン)を王にするため
献身的に尽くした王妃ですが 後宮を多く持ったことで次第に夫婦仲に亀裂が入り
外戚の粛清により 王妃自身もまた廃位の危機に陥ります
共に朝鮮建国のため貢献した功績により 太宗(テジョン)は妻を廃位しませんでした
元敬(ウィギョン)王后は 太宗(テジョン)との間に4男4女を儲けましたが
夫との関係が悪化するとともに 長男譲寧(ヤンニョン)大君の素行の悪さに悩まされ
4男の死に嘆くという不幸が続き 1420年に亡くなります
明の永楽帝から 朝鮮国王として冊封を受けた太宗(テジョン)は
1418年 長男 譲寧(ヤンニョン)大君から世子の座を奪い
3男の忠寧(チュンニョン)大君を 新たな世子として冊封します
その2か月後 王位を譲り 上王(サンワン)となるのです
晩年を苦しみ抜いた元敬(ウィギョン)王后にとっては
生きている間に 3男が即位して世宗(セジョン)王となった姿を見られたことは
唯一の喜びと言えるかもしれません
太宗(テジョン)は 譲位しても兵権は渡しませんでした
王権安定のため 1422年 55歳で亡くなるまで その威厳を誇示し
世宗(セジョン)の妃の外戚をも粛清し 天下のすべての汚名を背負いました
ただただ 息子が聖君となることを願ったのです
世宗(セジョン)王は ハングルを創生した王として有名ですが
この2人の王は 李氏朝鮮の全盛期を築き上げた王として 高く評価されているのです
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1357年
李成桂(イ・ソンゲ)と神懿王后との間に 次男として生まれた定宗(チョンジョン)は
「第一王子の乱」の後 王世子に冊封されます
もともと王になるなどとは考えてもいなかった人物ですが 長男が早世していたため
また 国の実権を握っていた5男の芳遠(バンウォン)に強要される形で
1398年9月 望まずして 太祖(テジョ)李成桂(イ・ソンゲ)から譲位を受けます
側室との間に 多くの庶子はいたものの 正室との間に男児がなく
芳遠(バンウォン)にとっては好都合でした
王でありながら 常に5男芳遠(バンウォン)の影響下に置かれ
いわば形だけの王でした
「王子の乱」が起きたのは運気が悪いからだと聞き
都を ソウルから開京(ケギョン)へ遷都します
しかし1400年 「第二王子の乱」が起きると 5男芳遠(バンウォン)を王世弟にし
わずか9か月後には王位を譲り 上王(サンワン)となります
生き延びるためには 権力の座から降りるしかなかったのです
譲位してからの定宗(チョンジョン)は 撃毬(キョック)・狩猟・温泉・宴会など
娯楽の日々を過ごし 悠々自適な生涯を過ごし 1419年 63歳で崩御します
まさに 何の実権も功績もない過渡期の王です
それにより 明国からの冊封もないまま 人々は「恭靖大王」と呼びました
崩御から262年が過ぎた粛宗7年(1681)
ようやく「定宗(チョンジョン)」の諡号が贈られたのです
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