韓国ドラマの それも時代劇にハマっている方は
日本の歴代将軍や天皇の名前とか 歴代総理大臣の名は言えなくても
「朝鮮歴代王の名前なら言える!」という方も多いのではないでしょうか。
朝鮮国王は全部で27人
≪祖(ジョン)も宗(ジョン)もつかない2人の王≫
第10代国王 燕山君(ヨンサングン)
第15代国王 光海君(クァンヘグン)
この2人の王には「祖(ジョ)」も「宗(ジョン)」もついていません
それはなぜか… 廃位させられた王だからです
燕山君(ヨンサングン)は ご存知の通りの暴君として知られています
「仁粋大妃(インステビ)」などで描かれているように
母ユン氏が王妃の座から廃位されるばかりか 毒殺されたことを恨み
後世に残るほどの残虐非道を積み重ね 廃位されてしまいました
この時の反正(パンジョン)=クーデターが中宗反正(チュンジョンパンジョン)です
さまざまなドラマで描かれるとともに 王位継承争いの場面では
「燕山君(ヨンサングン)の轍を踏むのか!」などと、引き合いに出されます
一方 宣祖(ソンジョ)の庶子で次男である光海君(クァンヘグン)は
もともと王になるはずではありませんでした
しかし 光海君(クァンヘグン)もまた 暴君として廃位されてしまいます
この光海君(クァンヘグン)もまた 数奇な運命から
多くのドラマで描かれているのです
≪祖(ジョ)と宗(ジョン)の違い≫
そもそも 朝鮮国王の呼び名は 生きているうちにつけられるものではありません
正式には「廟号」といって 死後に先祖として祀る際につけられるのですが
韓国ドラマでは 分かりやすいように「廟号」を呼び名としています
○祖(ジョ)がつけられた7人の王
大乱を経験したり功のあった王には 祖(ジョ)がつけられています
1-太祖(テジョ)
王朝の創始者 李成桂(イ・ソンゲ)です
その功は 言うまでもありません
2-世祖(セジョ)
幼い甥から反正(パンジョン)によって王位を奪ったとされています
数々の功績がありながら どうしてもダーティなイメージを持たれてしまいます
世祖(セジョ)が王位に就かなければ 別の勢力が王統を奪ったのか…
その時代背景で 多くのドラマが作られています
3-宣祖(ソンジョ)
光海君(クァンヘグン)の父である宣祖(ソンジョ)は
豊臣秀吉の朝鮮出兵「壬辰倭乱」を経験した王ですが
亡国寸前まで追い込まれながら「滅亡しなかった」ことが功とされました
4-仁祖(インジョ)
宣祖(ソンジョ)の孫 仁祖(インジョ)は 王になるべき立場ではありませんでした
しかし光海君(クァンヘグン)を引き摺り下ろすため 擁立されたのです
即位してからは 度重なる侵略に苦しめられ 世子との対立に悩まされます
世子である昭顕世子(ソヒョンセジャ)は 結局 謎の死を遂げるわけですが
仁祖(インジョ)による毒殺説があるほどです
ドラマ「チュノ~推奴~」では
昭顕世子(ソヒョンセジャ)の長子を守ろうとする ソン・テハが素敵でした
※宣祖(ソンジョ)と仁祖(インジョ)は ともに「祖(ジョ)を拒んだ王」です
治世で起きたことを恥じたと言われていますが 結局は祖(ジョ)がつけられました
5-英祖(ヨンジョ)
みなさんご存知の ドラマ「同伊(トンイ)」の中で トンイの息子クムとして描かれています
「宮女の下人」といわれるほどに身分が低かった母親 同伊(トンイ)
英祖(ヨンジョ)は そのせいで蔑視されながら 党派同士の争いにも苦しめられます
息子 思悼世子(サドセジャ)を米櫃に入れ 死に追いやったことは あまりにも有名です
6-正祖(チョンジョ)
韓国時代劇ドラマファンなら外せない「イ・サン」です
亡き父 思悼世子(サドセジャ)と 祖父である英祖(ヨンジョ)との3代にわたる絆が
壮大なストーリーで描かれています
ドラマで描かれるように 身分を問わず能力ある者を登用しました
世宗(セジョン)と並ぶ好学の王として誉れが高く
ドラマ「トキメキ☆成均館スキャンダル」でも その人となりが描かれています
7-純祖(スンジョ)
正祖(チョンジョ)の次男であり 正室孝懿(ヒョイ)王后の養子です
幼くして即位したため 英祖(ヨンジョ)の妃である貞純(チョンスン)王后により
摂政が行われることになります
第21代王 英祖(ヨンジョ)
第22代王 正祖(チョンジョ)
第23代王 純祖(スンジョ)
この3人の王には もともと「宗(ジョン)」がつけられていたのですが
後になって「祖(ジョ)」になっています
○「宗(ジョン)」がつけられた王たちの功績
「祖(ジョ)」がつけられなかった王たちは 基本形の「宗(ジョン)」になっています
どうしても祖(ジョ)がついた方が 立派な王のように思えます
しかし クーデターも大きな乱もなく 穏やかな治世を送った王たちが
だからといって何もしなかったわけではありません
むしろ そういった争いに時を費やす必要がない分 多くの偉業を成した王もいます
・太宗(テジョン)
朝鮮の始祖 李成桂(イ・ソンゲ)の5男イ・バンウォン
第一王子の乱 第二王子の乱を経て 兄弟や功臣を次々に排除するという暴君振りですが
息子世宗(セジョン)とともに 李子朝鮮の全盛期を築いた王として高く評価されています
・世宗(セジョン)
言うまでもなく「訓民正音(ハングル)」を作り上げた偉大な王です
1つの国に文字を生み出すことの困難さを描いたドラマとして
ハン・ソッキュが世宗大王を演じた「根の深い木~世宗大王の誓い~」があります
・成宗(ソンジョン)
幼くして王位に就き 李子朝鮮初の「垂簾聴政」を受けた王です
仁粋大妃(インステビ)の息子としてマザコン的に描かれたりもしますが
世宗(セジョン)から世祖(セジョ)へと受け継がれた朝鮮を さらに輝かせた王といえます
世祖(セジョ)が編纂した「経国大典」を完成させました
朝鮮王朝初期の文物制度は 成宗(ソンジョン)によって ほとんど完成され
建国以来 民衆は最も天下泰平の日々を味わったのです
・中宗(チュンジョン)
クーデターにより 暴君燕山君(ヨンサングン)から王位を奪ったにもかかわらず
「祖(ジョ)」をつけられなかった王です
在位中は クーデター勢力と燕山君(ヨンサングン)に弾圧されていた士林派など
勢力闘争が絶えず その中には 妃である文定王后とその外戚もいました
「朝鮮三大悪女」チョン・ナンジョンも暗躍します
ドラマ「女人天下」の中で あり得ないくらいのストーリー展開で描かれています
次王の仁宗(インジョン)が「祖(ジョ)」をつけようとしますが
成宗(ソンジョン)の直系であることで反対され つけることができませんでした
政治体制や派閥闘争などにより 「廟号」と功績については微妙に差異が生まれました
韓国時代劇ドラマを楽しむ上でも こういった背景を知るだけで見方も違ってきますね
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東明聖王とは 高句麗(コグリョ)を建国した英雄です
2006年5月から2007年3月まで MBCで放送された人気ドラマ
正式タイトル名は『朱蒙 -チュモン- Prince of the Legend』
このドラマから 韓国ドラマにハマったという人は 多いのではないでしょうか?
ドラマの中で描かれる朱蒙(チュモン)は
扶余(プヨ)のクムワ王の側室ユファ夫人と 英雄へモスとの間に出来た子です
それをクムワ王が 我が子として育てるという設定です
朱蒙(チュモン)の名の由来は“弓の達人”という意味です
弓の達人であるがゆえに 将来 異心を抱き国に災いをもたらすとして
朱蒙(チュモン)を暗殺せよという声が上がります
そこで朱蒙(チュモン)は 友人らと共に 扶余(プヨ)を脱出するのです
この3人の友人が ドラマでは オイ・マリ・ヒョッポという役名で描かれています
逃走の途中で 川に橋がなく困っていると 魚とスッポンが現れ橋を作った
もう伝説というか 絵本の世界です
さすがにドラマでは このような伝説めいた表現はされていません
史実では クムワ王の庶子で 7人の王子と対立し(ドラマではテソとヨンポの2人)
卒本(チョルボン)に亡命し 高句麗(コグリョ)を建国したとあります
建国と言っても 文献にあるわけではなく もはや「建国神話」の領域です
これを指し 韓国の時代劇ドラマに関しては 度々批判がされますが
そう目くじらを立てず 政治的確執から離れて 娯楽として楽しんではいかがでしょう
建国の年についても諸説あり ここでは数字表記しませんが
息子の瑠璃聖王に王位を譲った同年 40歳で亡くなったとされています
神話としてとらえる朱蒙(チュモン)も興味深いところですが
東明聖王として調べてみると 本当に謎だらけなのです
やはり ソン・イルグク氏演じる朱蒙(チュモン)は 圧巻です
突っ込みどころ満載な韓国ドラマですが
おおらかな気持ちで 壮大なストーリーを楽しむことをお勧めします
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1356年
高麗(コリョ)の恭愍(コンミン)王は 反元政策を掲げていました
これに協力したのが李成桂(イ・ソンゲ)の父李子春(イ・ジャチュン)です
その4年後 李子春(イ・ジャチュン)は 46歳で亡くなってしまい
すでに将軍となっていた息子の李成桂(イ・ソンゲ)が 後を継ぎます
李一族の出自が 女真族であるかモンゴル軍閥であるかは 諸説あり
学説においても断定することはできません
1363年
元は 高麗(コリョ)の態度が不遜だとして 恭愍(コンミン)王を廃位させようとし
1万の兵で侵攻してきます
これを迎え討ったのが 李成桂(イ・ソンゲ)とチェ・ヨンです
チェ・ヨンは 「シンイ-信義-」でイ・ミンホがカッコよく演じました
これにより 元の干渉から完全に脱却できたのですが
今度は 満州の方から女真族が攻めてきます
李成桂(イ・ソンゲ)は これを 親友チョン・モンジュと共に撃退します
1388年
高麗(コリョ)王 王ウとチェ・ヨンは 明の圧力を退けようという目的で
遼東地域を支配下に置くべく 出兵しようとします
しかし 李成桂(イ・ソンゲ)は これに強く反対するのです
実は この遠征には 李成桂(イ・ソンゲ)ら武人の勢力を削るという
裏の策略もあったのです
ところが 遠征軍は 鴨緑江(アムノッカン)河口が大雨により増水し 足止めされ
食糧の補給が難しくなり 脱走兵が相次ぎます
強く撤退を要求する李成桂(イ・ソンゲ)ですが 聞き入れてもらえず
とうとう 独自の撤退を始めます
この時 2000名以上の兵士が 李成桂(イ・ソンゲ)に続くのです
既に 高麗(コリョ)の王朝は 民に見放されており
抵抗軍を組織しようとしたチェ・ヨンのもとには ほとんど兵が集まりませんでした
王宮にたどり着いた李成桂(イ・ソンゲ)は 王ウに遠征の責任を問い
チェ・ヨンの処罰を求めます
しかし王ウは 反対に李成桂(イ・ソンゲ)を反逆者としてしまいます
交渉を諦めた李成桂(イ・ソンゲ)は 王宮を攻め チェ・ヨンを捕虜とし
共に戦ったチョ・ミンスに擁立されて 王ウの息子 王昌が王位に就きます
1389年
李成桂(イ・ソンゲ)に擁立され 恭譲(コンヤン)が王位に就き
王ウと王昌の父子は 殺されてしまいます
しかし この恭譲(コンヤン)王も 朝鮮王朝樹立の2年後
1394年に 李成桂(イ・ソンゲ)により殺されるのです
高麗(コリョ)王朝の王氏一族は 皆殺しにされてしまいます
李成桂(イ・ソンゲ)自身は そのつもりはなかったのですが
臣下たちの強い要望によって 殺さざるを得なかったとされています
この時 逃げようとして王氏の名字を変えた者もいるのです
文宗(ムンジョン)の時代に 王氏掃討の令は解かれましたが
それでも 王氏に姓を戻す者は少なかったといわれています
これにより 今でも王という名字が少ないのだという説もあるほどです
1392年
官僚層が推戴し 李成桂(イ・ソンゲ)に即位を要請し
恭譲(コンヤン)王は 追放されてしまいます
1393年
王朝交代により 国号を変更するようにと 明から要請を受けます
“朝の静けさの国”という意味を持つ「朝鮮」と
「和寧」という2つの候補がありましたが
李成桂(イ・ソンゲ)が「権知朝鮮国事」に封ぜられていることもあり
洪武帝が「朝鮮」を選び 国号となりました
明では 冊封した王を廃位し 勝手に王に即位した李成桂(イ・ソンゲ)を快く思わず
最後まで 朝鮮王としては冊封しなかったといわれています
1394年
謀反の疑いを理由に 恭譲(コンヤン)王は 処刑されてしまいます
そしてこの年 漢陽(ハニャン)への遷都が行われました
それが現在の「ソウル」なのです
朝鮮の始祖とされる李成桂(イ・ソンゲ)ですが
晩年は 後継者争いに悩まされます
「第一王子の乱」 「第二王子の乱」と続き 1408年 73歳で亡くなるまでは
念仏三昧の日々を送ったということです
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朝鮮半島において学術的検証が可能な最初の国家は「箕子(きし)朝鮮」ですが
実情が把握できる時代は「衛氏(えいし)朝鮮」の時代からです
中国殷王朝時代の王族 箕子(きし)という人物が 朝鮮半島で建国します
その後 中国の燕出身の将軍 衛満(えいまん)が箕子(きし)朝鮮を滅ぼし
「衛氏(えいし)朝鮮」を建国します しかしそれも漢の武帝に滅ぼされてしまい
楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡の「漢四郡」として400年間支配されます
移転や廃止を繰り返し「漢四郡」は「楽浪(ナンナン)郡」だけになり
4世紀中頃 朝鮮半島北部 満州の鴨緑江(アムノッカン)付近で
高句麗(コグリョ)が興り これを滅ぼします
この時代背景で描かれたドラマには「幻の王女チャミョンゴ」があります
高句麗(コグリョ)の王子と楽浪(ナンナン)国の王女の悲恋の物語です
4世紀末までに 朝鮮半島北部は 高句麗(コグリョ)に支配されます
高句麗(コグリョ)は「広開土太王」の時代に 満州南部まで領土を広げます
これにより 朝鮮の歴史に含めるのかどうか という議論もされているのです
広開土太王は「太王四神記」としてもドラマ化され
ペ・ヨンジュンが タムドク役で新境地を開拓しました
この時代の朝鮮半島南部には 百済(ペクチェ)と新羅(シルラ)が在りました
漢山城を都としていた百済(ペクチェ)は 高句麗(コグリョ)の攻撃を受けながら
新羅(シルラ)にも対抗するため 大和朝廷と関係を密接にします
この時に 儒教や仏教が大和朝廷に伝わったとされています
朝鮮半島南端部は 倭国の影響下にあり 小国が集まった任那加羅が在りました
やがて「白村江の戦」により 倭国の支配力がなくなると
その中の伽耶が主導し始めます(金官伽耶・高霊伽耶など)
伽耶もまた 百済(ペクチェ)や新羅(シルラ)に滅ぼされてしまいます
7世紀
中国の唐が 高句麗(コグリョ)と百済(ペクチェ)を滅ぼします
この戦いに参戦した新羅(シルラ)は 突如 唐を裏切り
朝鮮半島大部分を統一します
三韓一統の誓いを立てるという背景で描かれたドラマには
「善徳女王」
「大王の夢(王たちの戦争)」などがあります
その後 高句麗(コグリョ)の故地で 「大祚栄(テ・ジョヨン)」が渤海を建国します
チェ・スジョンの主演で ドラマ化もされています
この国もまた 朝鮮の歴史とするかで議論されているのです
10世紀
新羅(シルラ)は統一を失い 地方勢力が自立し始めます
後高句麗・後百済が興り「後三国時代」を迎えるのです
やがて興った高麗(コリョ)が勢力を持ち 南北にわたる初の統一を成し遂げます
高麗(コリョ)建国の英雄を主役としたドラマに「太祖王建(テジョワンゴン)」があります
13世紀
高麗(コリョ)は モンゴル帝国(元)の侵攻を受け その支配下に入ります
元が衰亡する14世紀 将軍李成桂(イ・ソンゲ)が立ち上がり
朝鮮半島最後の王朝となる「李氏朝鮮」を建国するのです
李氏朝鮮の歴史については「李氏朝鮮 歴代王一覧」をご覧ください
韓国ドラマを楽しむ上で 朝鮮の歴史は避けて通れません
さまざまな歴史ドラマの中で 日本(倭寇)との関わりにも触れています
政治的な背景もあり ただドラマを楽しみたいのに 心が痛むこともあります
『それでも韓国ドラマが好き!』
そういう方々のために 朝鮮王朝の歴史についての「散歩ガイド」です
≪李氏朝鮮とは?≫
1392年~1910年
朝鮮半島にあった 朝鮮民族国家の最後の王朝です
1392年
高麗(コリョ)の武将だった李成桂(イ・ソンゲ)が 恭譲(コンヤン)王を廃し
自ら高麗(コリョ)王に即位し 新たな王朝を成立させました
李成桂(イ・ソンゲ)が建てた国ということで「李氏朝鮮」ともいわれるのです
翌年 中国の明から「権知朝鮮国事」という称号を与えられ 実質的な朝鮮国王になります
この時点で 李成桂(イ・ソンゲ)は正式な国王ではありません
明から 正式に朝鮮国王として冊封されるのは 1401年に即位した
太宗(テジョン)の治世からになります
17世紀以降 中国は 明の時代から清の時代へ移ります
しかし 引き続き李氏朝鮮は 中国王朝の冊封体制下におかれるのです
1894年(明治27年) 日清戦争が勃発し 日本と清国の間に「下関条約」が結ばれます
これにより 清の冊封体制下におかれていた李氏朝鮮は 大きく変化します
1897年(明治30年) 「李氏朝鮮」の国号は「大韓帝国」に改められ
君主の号も「皇帝」となります
以後 大韓民国の国家主権は 清から日本へ移ります
1904年 第一次日韓協約
1905年 第二次日韓協約
1907年 第三次日韓協約
こうした過程を経て 1910年8月 大韓帝国は日本に併合され
朝鮮民族の国家は滅亡したのです
≪歴代王一覧≫
1 太祖(テジョ) 1335-1408(73)
「龍の涙」
「信義-シンイ-」
2 定宗(チョンジョン) 1357-1419(62)
3 太宗(テジョン) 1367-1422(55)
4 世宗(セジョン) 1397-1450(53)
「大王世宗」
「根の深い木」
5 文宗(ムンジョン) 1414-1452(38)
6 端宗(タンジョン) 1441-1457(16)
7 世祖(セジョ) 1417-1468(51)
「王女の男」
8 睿宗(イェジョン) 1450-1469(19)
9 成宗(ソンジョン) 1457-1494(37)
「王と私」
「仁粋大妃」
10 燕山君(ヨンサングン) 1476-1506(30)
11 中宗(チュンジョン) 1488-1544(56)
「宮廷女官チャングムの誓い」
12 仁宗(インジョン) 1515-1545(30)
13 明宗(ミンジョン) 1534-1567(33)
14 宣祖(ソンジョ) 1552-1608(56)
15 光海君(クァンヘグン) 1575-1641(66)
16 仁祖(インジョ) 1595-1649(54)
「イルジメ~一枝梅~」
「チュノ~推奴~」
17 孝宗(ヒョジョン) 1619-1659(40)
18 顕宗(ヒョンジョン) 1641-1674(33)
19 粛宗(スクチョン) 1661-1720(59)
「同伊(トンイ)」
「張禧嬪(チャンヒビン)」
20 景宗(キョンジョン) 1688-1724(36)
21 英祖(ヨンジョ) 1694-1776(82)
22 正祖(チョンジョ) 1752-1800(48)
「イ・サン」
「ときめき☆成均館スキャンダル」
23 純祖(ソンジョ) 1790-1834(44)
24 憲宗(ヒョンジョン) 1827-1849(22)
25 哲宗(チョルジョン) 1831-1863(32)
26 高宗(コジョン) 1852-1919(67)
「明聖皇后」
27 純宗(スンジョン) 1874-1926(52)
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