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第60話 百済(ペクチェ)の涙
新羅(シルラ)第29代王キム・チュンチュは 泗沘(サビ)城に入り
正式に 廃主ウィジャの降伏宣言を受け入れる
百済(ペクチェ)王室の玉璽を受け取った瞬間
プヨ氏の子孫は 新羅(シルラ)の民に帰属する
百済(ペクチェ)朝廷は廃され 新たな官府が設けられることとなるのだ
ようやく 三韓一統の礎を築いたことに安堵してはいられない
すぐにも蘇定方が 百済(ペクチェ)を植民地化しようとするであろう
唐軍の援軍がなければ成し得なかった 百済(ペクチェ)討伐ではあるが
三韓を植民地化しようという 唐軍の野心をも抑え込まなければならない
しかしまた 高句麗(コグリョ)を征伐するその時までは
何としてでも羅唐同盟を存続させねばならぬのだと…!
今回の戦いで キム・ユシンは 唐軍の野心と戦ってきた
同盟を結びながらも 真の敵は唐軍ではないかと錯覚するほどに…!
高句麗(コグリョ)へ攻め入る前に 一度唐軍と戦わねばというユシン
しかし武烈王は あくまでも同盟の大義名分を掲げ
唐軍の野心を抑え込み続けねばならないのだと主張する
次男キム・インムンは 父王の考えに賛同し
太子ボムミンは 武人として 伯父ユシンの考えに傾倒していた
政治を取り扱うキム・チュンチュと 骨の髄まで武人であるキム・ユシン
今は亡き猛将ケベクが指摘した 両者の決定的な違いなのであった
蘇定方は 廃主ウィジャと捕虜たちを 長安へ護送しようと考えている
これはまさに 唐の皇帝の命ずる皇命であり
これに逆らう者は 武烈王であっても逆賊になり得ると…!
蘇定方の側近たちは それにしてもこれは難儀なことだと憂える
新羅(シルラ)軍の抵抗を交わし 1万もの捕虜を護送することは
あまりに無謀で 現実的ではないことであると…
その夜
勝利の宴が催され 蘇定方が 廃主ウィジャを呼べと叫び
新羅(シルラ)王に酒を注げと命じた
一国の王が戦に負け 国を失い また王座も奪われた
戦勝国の王に酒を注ぐことは 当然のことである
蘇定方は 太子と大将軍にも酒を注がせ 最後に自らの盃を差し出す
あまりの屈辱に 廃主ウィジャは震え出し 酒をこぼしてしまう
『無礼者!』と突き飛ばされ 無様に転がる廃主ウィジャ!
長子プヨ・ユンが 声を上げて泣き 弟王子たちもむせび泣く
廃主ウィジャは 気がふれたように笑い出し
その笑いは 次第に泣き声へと変わっていく
誰はばかることなく オイオイと声を上げて泣く廃主ウィジャ
武烈王は 思わず立ち上がり そばに座り込み語りかけた
『あの日 お前が私を信じてくれさえしたら…
新羅(シルラ)と百済(ペクチェ)が同盟を結んでさえいたら
このように惨めな思いはせずに済んだであろう
過ぎ去った日々が まことに恨めしい』
すると将軍トチュンが 突然に叫び出した!
たとえ敗勝の王であっても 礼を尽くすのが道理だと!
そしてなぜ 百済(ペクチェ)の官僚であった者が宴の席につき
かつて仕えていた王の 惨めな姿を傍観しているのかと!!!
蘇定方は 将軍トチュンを睨みつけ 外で斬首しろと叫ぶ
トチュンは 兵士の剣を奪い 裏切り者チュンサン公の胸に突き刺した!
一瞬の出来事に 誰も止めることが出来ず チュンサン公は絶命する
黄山ヶ原で 猛将ケベクと共に散るはずだったトチュンである
しかし ケベクから 王様を守れと命じられ泗沘(サビ)城に戻ったのだ
これ以上の恥辱を味わうよりは…!
トチュンは チュンサン公を斬った剣で 自らの命を絶つ!!!
騒然となった宴は中断された
武烈王は この泗沘(サビ)城において 民に蛮行を行う者は
たとえ誰であろうと許さず 厳罰に処すと言明した
これを受け 蘇定行は 皇帝への報告のため長安に帰るという
その際に 廃主ウィジャを連行したいと申し出た
武烈王は即答を避け 朝廷で審議したうえで返答するという
太子ボムミンは 決して廃主を渡してはならないと主張する
朝廷の総意として 廃主の引き渡しに反対すべきだと!
そこへ 唐軍の宴の席に ユシンとボムミンが招待される
なぜ 反目している2人を招待するのか… 訝しむインムン
ユシンは いっそ何か仕掛けてくれれば 相応に対峙する!と息巻く
事を荒立てるべきではないというインムンに ボムミンが憤慨し
副総官の任を受け 唐軍に染まったのかと怒鳴りつける…!
何かにつけ興奮して ケンカ腰になる兄に対し インムンは声を荒げる
そのような了見で 太子として次期王座に就き 国を治められるのかと!
いずれにしても 張り詰めた緊張感の中で 宴は始まるのである
一方 武烈王は
廃主ウィジャに直接会い 腹を割って話そうと試みていた
百済(ペクチェ)の辺境では いまだ反発する民衆が存在し
国が滅びたことを受け入れられないまま 抵抗を続けている
百済(ペクチェ)王の 最期の務めとして 民衆を説得してほしいと…!
百済(ペクチェ)の民は 今後 新羅(シルラ)の民として生きる
抵抗すれば それだけ多くの血が 無駄に流れることになると説得する
しかし廃主ウィジャは これを受け入れない
真に衷情を示す 多くの臣下の命が消えていった
奸臣により 偽りの太平に酔いしれた 自分の不甲斐なさを嘆くばかりで
今後も生きていかねばならない民のことまで 思いやる余裕が無かった
このままでは 生き残った百済(ペクチェ)の民は
唐の奴隷になって生きることになるかもしれない
そうならないよう 救ってやりたいという武烈王だが
ウィジャは どの国の奴隷になろうが 奴隷は奴隷だと嘆くばかりだった
『三韓一統の大義のため 百済(ペクチェ)という国を滅ぼしたが
たとえ国が滅びようと 民までが滅びるわけではない!
百済(ペクチェ)の民は “三韓の民”として生きていくのだ…!』
『たとえ天に見限られ 王座を奪われても 操り人形にはなりたくない!』
『天が見限ったのではない! お前が天意に背いたことで
百済(ペクチェ)が滅びたことが なぜ分からぬ!
三韓の民を救いたいと 大志を抱いていたお前なのに…!
もはやお前には 君主としての資格が無い!!!
そんな者に 協力を求めようとしたとは…!』
武烈王の申し出を受けるほどの器であれば 国は滅びなかっただろう
廃主ウィジャが 名君となり得る機会は いくらでもあったのだ
何度も挫折しながら 王座に就いたキム・チュンチュ
盟友キム・ユシンとの間でも 政策の違いから何度も衝突してきたのだ
この2人の君主の明暗は 果たしてどこで分かれてしまったのであろうか…
唐軍の宴の席では
ユシンと太子ボムミンが 歓待され 居心地の悪さを味わっていた
そこで蘇定方は ひとつの書簡をユシンに渡す
書簡には 百済(ペクチェ)を平定した喜びを表す詩が書かれている
先帝は 遼東征伐の折に“功績碑”を建てたのだという
今回もまた 百済(ペクチェ)征伐を記念し “功績碑”を建てるという蘇定方
そこに刻む詩だというが その詩には 新羅(シルラ)の文字が無い
唐の皇帝を称え ただただ唐軍の兵士の功績を称えている
まるで唐軍が 単独で百済(ペクチェ)を滅ぼしたかのような内容であった
2人は これに激怒し猛抗議した
それにより 宴の席は一変し 互いに剣を構え一触即発の状況になる!!!
蘇定方は 2人を惨殺せよと命じ
門の外に待機していたプミルが 太子と大将軍を守れ!と号令する
数のうえでは 圧倒的にユシン側が有利であり 力の差も歴然である
蘇定方は あっという間に剣を突き付けられてしまう!
キム・ユシンが 今にも蘇定方を斬首しようとしたその時!!!
武烈王が 兵を率いて現れ 寸前でユシンの剣を止めた!
『ユシン! なぜ羅唐同盟に背くのだ!』
『陛下 この者を斬らねば 三韓が 唐の植民地と化してしまいます!
たとえ王命に背いた罪に問われようと構いません!』
これは 国と国との誇りを懸けた争いではなく
これ以上 三韓の民を苦しめないための闘いであるという武烈王
同盟に背き 蘇定方を斬首すれば 100万の唐軍との戦になる
それによって またしても苦しむのは 三韓の民なのだと…!!!
怒りに震えながらも 理性を振り絞り剣を下ろすユシン
するとその直後!!! 武烈王が剣を抜き蘇定方に突き付ける!!!
いかに蘇定方でも 王から剣を突き付けられては たじろぐばかりである
あくまでも皇命に従っただけで 他意はないと弁明する蘇定方
ここで武烈王は 蘇定方に対し“生きるか死ぬか”を選べという!
同盟に背いた罪により この場で斬首されるか
それとも 廃主を連行して帰国し 皇帝を説得するか… である
武烈王の気迫に 帰国して皇帝を説得すると答える蘇定方
『戻って皇帝陛下に伝えよ! 新羅(シルラ)王の意思は固く
また従う忠臣も剛健で 100万の兵でも植民地化することは難しいと!!!』
キム・ユシンは 武烈王の前にひざまずき 王命に背いた不忠を詫びるが
たとえこの身が斬首されようと 蘇定方を斬るべきとの考えは変わらぬと!
太子ボムミンも その隣にひざまずき 伯父に加勢した不忠を詫びつつ
それでも 唐軍と戦うべきという考えを曲げられないという
2人の手を取って立たせ 何を恐れているのか承知しているという武烈王
しかし 新羅(シルラ)の兵力だけでは 三韓一統の大業を成すのは難しく
百済(ペクチェ)の残党と戦うことさえままならないのが現実であると…!
大業を成すため 援軍を受けつつも 唐の野心をくじかねばならぬ!
そのためにも 太子とユシンの力が必要なのだという武烈王であった
『時機が来れば 必ずや唐軍と戦わねばならぬ
しかし今は その時ではないのだ! 私を信じて従ってくれぬか!』
西暦660年9月
廃主ウィジャと太子 そして90余人の王族と臣僚ら
そして1万2千余人の民が 捕虜として唐に護送された
捕虜となった民は ほとんどが技術者や学者であったと伝えられている
廃主ウィジャは 戦を引き起こしたことを 皇帝から厳しく叱責された
その後 赦免されたが まもなく病死したと伝えられている
高宗は 廃王ウィジャの葬儀を行い 碑を建てて弔った
ウィジャ王は 武(ム)王の長子であり
太子の頃は“海東曽子”と称され 中原や倭国にまで名を轟かせた
在位期間は20年であり 三韓の覇権を争い戦い続けた
晩年はほとんど政(まつりごと)をせず 奸臣に踊らされ民心を失った
国を失い 王座を追われた廃主ウィジャには諡号さえ与えられず
洛陽北部に埋葬されたと伝え聞くばかりである
結局 百済(ペクチェ)は 建国から678年で滅亡したのであった
唐の第3代皇帝 高宗は なぜ百済(ペクチェ)を植民地とし
徐羅伐(ソラボル)を攻めなかったのかと 厳しく蘇定方を責め立てた
蘇定方は 武烈王とその臣下が いかに手強いかを報告し
まずは高句麗(コグリョ)へ侵攻すべきだと進言する
これに納得した高宗は 百済(ペクチェ)を統治した後
高句麗(コグリョ)へ侵攻するよう 新たな皇命を下すのであった…!
高句麗(コグリョ)では
第28代宝蔵(ポジャン)王は 百済(ペクチェ)王の末路を知り
いつ羅唐軍が 平壌(ピョンヤン)に攻めて来るかと 気が気ではない
しかし 莫離支(マンニジ)ヨン・ゲソムンは 余裕の構えである
※莫離支(マンニジ):高句麗(コグリョ)の政策を総括する最高官職
奸臣に惑わされ 油断したゆえに 百済(ペクチェ)は滅亡したが
この高句麗(コグリョ)に限っては 断じてあり得ないと豪語する
まずは 百済(ペクチェ)辺境で いまだ暗躍する抵抗勢力と結託し
打倒羅唐軍の動きに加勢すれば 必ずや勝機はあると…!!!
百済(ペクチェ)辺境で 抵抗し続ける将軍ボクシンのもとへ
ゲソムンの命により 高句麗(コグリョ)から援軍が派遣された
将軍ボクシンは 卑怯にも羅唐軍に寝返った裏切り者から始末すると息巻く!
唐軍の蛮行により 全滅させられた地域を視察するサンヨン公
滅亡を余儀なくされる百済(ペクチェ)の未来を按じ
自ら投降し 新羅(シルラ)人として生きる道を選択したが
百済(ペクチェ)再興を願う 将軍ボクシンの剣に倒れ 絶命する
白昼堂々 抵抗勢力に襲われるとは…! 武烈王が激怒するものの
蘇定方の帰国後 泗沘(サビ)城を任された劉仁願は
警備にはまったく関心がなく 百済(ペクチェ)王族が残して行った
財宝を探すことに兵力をつぎ込んでいるのだという…!
反抗勢力は 羅唐軍に投降する民を許さず 皆殺しにしていく
唐軍の蛮行で命からがら生き残った者たちは
三韓に唐軍を招き入れた武烈王を憎み 新羅(シルラ)軍を恨んでいた
武烈王が成そうとする 三韓一統の大業への道のりは険しく
キム・ユシンは 唐軍が蛮行を続ける限り 大業は遠のくだけだという
『今からでもまだ遅くはない 百済(ペクチェ)の地から唐軍を追い出せば
陛下は 百済(ペクチェ)の民心を取り戻せるはずだ
唐軍に百済(ペクチェ)の地を奪われるか あるいは唐軍と戦うか
いずれは決断を迫られることになるだろう』
そこへ 唐より 百済(ペクチェ)を治める都督が派遣されたと報告が入る
これはまさに 百済(ペクチェ)を植民地化するという唐の魂胆であると
ユシンをはじめとする将帥らが 攻撃命令を!と口々に叫ぶ
その中で 兵部令(ピョンブリョン)キム・ジンジュが
ただひとり 唐の皇帝の真意を探るのが先決だと反論する
※兵部令(ピョンブリョン):軍事を担当する中央官庁の長官
親唐派が兵権を握っている限り 唐に舐められるばかりだと叫ぶユシン!
ジンジュは 今は羅唐軍が分裂している時ではないと言い返した
武烈王の一喝が 両者の激論を止める
羅唐同盟の大義を守り抜くという 武烈王の意思は固く
キム・ジンジュが正しいのだと言い置き 退座しようとする
キム・ユシンは そんな武烈王に『待たれよ!』と叫んだ…!
『あくまでも 大王陛下が 唐の手先になるというのなら!
朝廷と このキム・ユシンは 大王陛下に立ち向かい
唐軍との決戦に臨むことを ここに言明致します!!!』