Nonsection Radical

撮影と本の空間

まあ昨日の続き(みたいなもの)

2013年05月30日 | Weblog
昨日は沢木耕太郎氏の1970年頃に書かれた本を読んで、当時記載された状況が、時代と共に人々の記憶が”変質”していって「美しい想い出」ばかりが強調される事になっているんではないかと思った事を書いた。
文中にあるように自衛隊とか沖縄とか芸能界とか現在でも進行形として語られる問題が70年代初頭でも語られ、そのまま持ち越された結果の現在であるわけで、それでいて現在では”美化”されて語られる部分も加わり、当時を知る人も知らない人も現在だけが問題の本質を語る場であると思っている面がある。
同様な話では”領土問題”などもあるが、それをネットやテレビで語る人は、では以前からどのような経過を辿ってきたのか、どのような”空気”で当時は受け止めていたのかなど、その点を加味して現在を考えているのか。
ただ歴史的記載だけの文字を頼りに事務的に判断出来る問題ではなかったから、ある時には曖昧にある時には強引に問題を後世に託し(先送りして)時間を稼いできたのではないのかな。
そういう事を考えずに、現状に振り回されて”解決”しようとしてもロクな結果を生まないのではないのか。
ずっと以前からある”問題”。
解決が難しい”問題”。
そういう”問題”にはそれぞれの人にそれぞれの立場でそれぞれの意見があって、現在のようにネットなどでそれぞれが「意見表明」出来る環境になったとはいえ、それぞれの語る事は沢木氏が本の中でインタビューした人が語る話と異なるところはないはずなのだ。
つまり「ひとつの意見」なのだ。
それぞれがどのような自分の考えを語ろうとも、それが”答え”なのではなく、それは”意見”であり、その意見を沢木氏は拾い上げる事で時代の空気の断片をあらわした”だけ”なのではないのか。
だから今現在の”空気”も様々な形で記録されることで、何十年かして”当時”の空気を知る助けになるのだろうと思う。
「美しい想い出」とのギャップにさらされながら。




鳥取県岩美郡岩美町網代 3


日間賀島 5 愛知県南知多町
コメント
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