死というものはさほど遠くにあるものではない。
実際は地面に引かれた一本の線を、
ひらと渡るようなものである。
それがさも困難な苦痛に満ちたものに思われるのは、
死を身近で直視する環境が減ったからかもしれない。
昔は死も誕生も
日常の暮らしの中にあるものだった。
人は家の中で生まれ去るものだった。
そして生活。
例えば鶏肉を食べるのなら、
鶏を殺さなくてはならない。
野菜を食べるのだって同じことだ。
野菜も命を持っている。
肉体を維持するためには、
他の生命をいただかなくてはならない。
それが物質次元のルールだ。
日々生きることの中に生と死が組み込まれていた。
だからこそ命の尊さも、
生かされる感謝も、
ひとはみな、
当たり前に分かっていたのかもしれない。
生きて死ぬのは当たり前のことなので、
必要以上には恐れず、
自然の理として受け入れていたのかもしれない。
人は寿命でなければ死ぬことはない。
そして寿命は可変的なものであることを、
実体験としてわたしは学んだ。
その人の意志、
正確には本体である魂の意志により、
それは延びたり縮んだりする。
生れる前からの設定で、
寿命となる候補の歳が人によっていくつかあり、
その前後でそれを超えるかそこで去るかを決める。
生きることにした場合はかなりな変化を体験することになる。
だって死ぬということは、
それまでの自分を終わらせるということでもあるから。
それまでのライフスタイル、
物の考え方なども否応なく変化することになる。
それは多岐にわたるだろう。
ある意味生きながら転生するみたいなものなので、
肉体も大きく体調を崩したりもする。
(だって細胞も一新しないといけないから)
なにかとそれもしんどいので、
さっさとこの世を去っていく人もある。
それは選択なのだ。
実際あの世は遠いところにあるものではない。
同じビルの2階と3階のようなものである。
上空から見ればそれは同じ地点にあるが、
壁面から見ればそれは別のフロアーにある。
上の階に上がるには軽くならなければいけない。
そこは非物質の世界だから。
なので物質である肉体は置いていく。
また上からは降りることはできても、
肉体をまとわなければそこで生息しているものと、
直接触れ合うことはできない。
降りたとしても、
エネルギー体のままでは波動が異なるので、
あまり居心地はよくないだろう。
特別の場合を除いて。
あの世とこの世の間のしきりは、
マジックミラーのようなものとも言えるかもしれない。
この世からあの世は見えないが、
向こうからはガラスのように透けて見える。
死というものを恐れるのは、
人が肉体の記憶に縛られているからである。
生物の一種族としての人間が、
生命を維持することを最大の使命にするのは当たり前のことで、
そうやってこれまで人間は、
この地球で生息してきたのである。
でも本当に息の止まる瞬間とは、
それまでに
意識である霊体(エネルギー体)は抜けてしまっているので、
苦痛は伴わないそうだ。
肉体というのは神経が正常に働いているときでなければ、
痛みを感じない。
手術のとき、麻酔をかけているから痛くないのと同じで。
(肉体自体は嫌がったりするとしても)
事故の時などは、
一気に神経自体が切れたり失われたりするので、
痛みを感じることができない。
感じる器官がないのだから。
※ ※ ※
いまここに、
コロナの嵐が吹き荒れている。
もともとこれは風邪だ。
ある意味、風による浄化といえるかもしれない。
人は否応にも死と向き合い、
生と向き合う事態となっている。
『人々よ恐れることなかれ。
こは既存の固定観念を破壊するためにあり。
人類に新しい価値観を与え、
新たな世界へ進むための福音。
こを祝福と捉えるものはそれを得、
なんらかの裁き、
禍と捉えるのものは、
またそれを得るだろう。
必ずや解決策はあり、
それを見出すのはあなた方自身。
ひとりひとりの内にある輝きを信じ
同調し信頼すれば、
おのずとどう行動すればいいのかも
わかるようになる。
あなたがたは無力な愚か者でなく、
等しく輝ける無限なるものなのである。
その意図するものは現実としてあらわれる。
それだけのことなのだ。
わが愛するものたちよ。』
あなたは何を選択しますか?