その一 本音と建前....完結編
よく言われることだが言葉は二種類に分けられる。
「本音と建前」である。
「本音」の言葉とは、ある事象や人間に対し向けられた気遣いのない赤裸々な思ったままの言葉である。それは「個」の言葉であり、往々にして人間関係に軋轢や悪感情をもたらす毒の刃となりうる。一方、「建前」の言葉は「人」が「人」との関係の中で生きていく「人間」としての共通認識やその関係の円滑な運営を目的に造られた妥協の、謂わば「社会的」な言葉である。
この二つの言葉は「語る言葉」の「建前」と「語らない言葉」の「本音」として分けられるだろう。
つまり現実生活に於いては、語らないがはっきりと自覚しているのが「本音」であり、語ることで物事が円滑に進む為に曖昧さを内包しているのが「建前」ということになろう。
勿論私達の日常の言葉はここで言うようにきっぱりとしたものでない。人は相手によって微妙な匙加減で「本音」と「建前」を使い分けその関係を保っている。しかしながらつぶさにその匙加減を観察すると、他人に語る「本音」は「建前」により真実味を帯びさせる為のスパイスの役目を託している事が多いことに気付くであろう。やはり「本音」は率直に語れない内容を持つものの様である。
私はここで「本音と建前」の解析やその是非を語ろうとしているのではない。
私がここで言いたいのは、劇団芝居屋の芝居創りの根幹と、そこに俳優が至る為の役へのアプローチに対する助言である。
現代の演劇界の主流は、今も近代演劇の誕生以来の「してみせる」演劇である。そこでの「本音と建前」はいずれも語られるものとして存在する。その代表が誰もが知っているシェィクスピアの「ハムレット」であろう。ハムレットは世間に対する「建前」と独白としての「本音」を行き来し、自分の心情と自分を取り巻く状況を観客に説明する。このような芝居の構図は綿々とうけ繋がれ現在に至っている。近代演劇はその構図に行き先(テーマ)を決め、それに沿って役者は勿論の事、表現のすべてが集約されるという方法論となって現われている。この方法論に於いて役者に求められるのは、「本音と建前」といった役として「個」の部分ではなく、行く先(テーマ)をより鮮明にする為の役割の達成である。
その方法論はこれまでも一定の舞台的成果をあげているし、依然として有効な方法の一つであるだろう。
しかし劇団芝居屋は「してみせる」演劇から脱却して「覗かれる」演劇を目指している。
それは前述した”世間に対する「建前」と、独白としての「本音」を行き来し自分の心情と自分を取り巻く状況を説明する”ことを止める事から始まる。
「覗かれる」演劇とは俳優が役と関わり「個」を確立ことから始まる。私の言う「個」とはその役の「本音」である。ではなぜその役の「個」の確立が必要なのか。これは俳優諸君の自身の日常における行動決定を振り返ってみれば判る筈である。いろんな行動の起因は「どうするのだ」と自分に問いかけることから始まるではないか。その問いかけられる自分こそが「本音」の自分なのだ。そして、本当の自分(本音)はそうだが、この方が得だからこう(建前)言っておこうなどと選択し決定しているではないか。また、「正邪」や「損得」「義理・人情」などといったものが「本音」と関わる事によって苦悩が始まるではないか。つまり「個(本音)」を通過しなければ人は行動できないとさえ言えるのだ。
では個人の「本音」とはどこから生まれるものなのであろうか。これはその人の生れ落ちて以来の時間が決定していく。つまりその人のこれまでの歴史であり人生である。
俳優が役の役割に縛られる事なく、役割を利用して役者としての「個(本音)」を確立する芝居ができれば、今までとは違ったものに成らざるを得ない筈だ。
この「個(本音)」を確立する為の材料が脚本という事になる。
劇団芝居屋の脚本に書かれてある言葉は、これも前述した人との関係を成立させる為の社会的言葉である「建前」とスパイスの役目の多少の「本音」によって構成される。つまり大半が「建前」によって書かれてあると言ってもいいのだ。
俳優はその役を我がものとして役者となり、書かれてある「建前」や状況から、その役者の「本音」を探り出し・創り上げ、「建前」の言葉と対峙する。
そして第一声となる。
舞台に役者として立つ為にはそこの所を考えなければ劇団芝居屋の舞台には立てない。
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