サードウェイ(第三の道) ~白井信雄のサスティナブル・スタイル

地域の足もとから、持続可能な自立共生社会を目指して

内発的発展論を振り返る ~1970年代と2010年代の比較のために

2011年09月25日 | 環境と教育・人づくり

1.1970年代という時代 

  

 1970年代は、戦後の高度経済成長期の失敗を、ある意味で補正する時代であった。1970年のいわゆる「公害国会」では、公害関係14法案が可決・成立したように、水質汚濁、大気汚染、土壌汚染、悪臭、騒音、振動、地盤沈下といった典型7公害に対する法律が制定され、環境基準を整理して、規制がなされた。 

 

 加えて、2度の石油危機に遭遇し、経済の体質や環境配慮に係る姿勢が一変した。1974年の第1次石油危機では、戦後初のマイナス成長を記録し、1970年度から74年度の累積成長率(実質)が約20%だったの対し、1970年代後半の同率は約15%に低下し、 高度経済成長は減速傾向を示した。1978年には第2次石油危機があり、さらに企業経営は減量化を迫れた。

  

 1977年に作成された第三次全国総合開発計画もまた象徴的である。全国総合開発計画(1961年)の拠点開発方式、新全国総合開発計画(1968年)の大規模プロジェクトともに、三大都市圏の人口集中と地方圏からの人口流出を防ぐにため、地方圏を大規模に開発し、産業集積を進めようとしたものであった。これに対して、第三次全国総合開発計画では、「定住圏構想」を掲げ、「人間居住の総合的環境の形成を図るという方式」への方向転換を示した。産業集積ではなく、居住環境の整備を重視するという視点を掲げてことは、それまでの全国総合開発計画にない視点である。

  

 琵琶湖の合成洗剤追放運動が盛り上がったのも、70年代である。琵琶湖では赤潮被害が拡大するなか、界面活性剤による健康影響とリンによる琵琶湖の富栄養化に対処するという観点から、粉石けんを使おうという運動が盛り上がった。1972年には、滋賀県は盛り上がる世論を受けて、粉石けんの自主的な普及が50%を超えること、条例による合成洗剤の規制がやむを得ないとする世論が概ね3分の2を超えることといった2つの条件が満たされれば、条例制定の具体的な検討に入るとした。そして、1979年に「琵琶湖の富栄養化の防止に関する条例」が公布され、翌年施行となった。

  

 また、農業機械の導入や農薬、化学肥料の消費拡大する中、農薬や化学肥料による食の安全性の問題がクローズアップされたのも1970年代である。1971年に「有機農業研究会」が、元農林事務次官を代表幹事に、農学者、医師、協同組合関係者等により結成され、刺激されて、各地域に有機農業が普及を始めた。1974年には、有吉佐和子が朝日新聞に「複合汚染」を連載し、広く消費者に有機農産物の存在を知らせた。

 

2.内発的発展論が強調した「下から上へ」

  

 1970年代は、工業化と都市化を基盤とする高度経済成長の弊害が顕在化し、経済至上主義や技術万能、大量生産・大量消費・大量廃棄型の様式の見直しが求められた時代である。この時代に、「地域主義」が主張された。

 

 守友祐一(1991)は、「劣位の「地方」が優位の「中央」に抵抗するという従来の図式に留まらず」、「地域の住民の自立性と実行力によって、地域の個性を生かしきる産業と文化を内発的につくりあげて、「下から上へ」の方向を打ち出していき、場合によっては、そのために国の統治・行政のあり方に軌道の修正を持ち込む」ことが、地域主義の問題意識であるとしている。

  

守友の説明にもあるようにし、定住圏構想のように国が上から提唱し組織化する「官製地域主義」と、あるべき地域主義は区別されるものであり、このため地域主義を主張するグループは「内発的地域主義」あるいは「内発的発展」という表現を用いた。

  

日本で、「内発的発展」(endogenous development)という言葉を最初に使ったとされる鶴見和子は、内発的発展とは「それぞれの地域の人々および集団が、固有の自然生態系に適合し、文化遺産(伝統)に基づいて、外来の知識・技術・制度などを照合しつつ、自律的に創出する」こととし、「国内および国際間の格差を生み出す構造を、人々が協力して変革すること」、あるいは「多様性に富む社会変化の過程」と表現している。

  

また、玉野井芳郎(1979)は、「内発的地域主義」を「地域に生きる生活者たちがその自然・歴史・風土を背景に、その地域社会または地域の共同体に対して一体感を持ち、経済的自立性をふまえて、みずからの政治的・行政的自律性と文化的独自性を追求すること」と定義している。

  

玉野井の説明によれば、「経済的自立性」とは、「閉鎖的な経済自給」ではなく、「アウトプットよりもインプットの面で、とりわけ土地と水と労働について、地域単位での共同性と自立性をなるべく確保し、そのかぎりで市場の制御を企図しようとする」ものである。

  

また、「政治的・行政的自律性」は地域住民の自治と説明している。そして、「地域社会または地域に対して一体感」を持つという記述がこの定義の最大の思想性であるとしている。なぜなら、地域に一体感を持つという思想は、「人間がみずからの生の現在の関心を、そこに生きる地域、すなわち人間活動のトータルな場にかける」という人間のアイデンティティに係わる問題意識であるからである。

  

3.内発的発展論のその後

 

 1970年代に示された内発的発展は、国や産業主導を問題視し、地域からの内発性を重視した地域主義であった。そして、1980年代に入ると、「地方の時代」の流れはますます強化され、大分県発「一村一品運動」が成功し、地域の個性的な特産品開発を重視したむらおこし、まちづくりが全国各地に展開することとなった。そして、「ふるさと創生」を掛け声に、全市町村に一律1億円の資金が提供され、使い方は地域の創意工夫に委ねられた。

 

 こうした1980年代以降の「地方の時代」は、1970年代の内発的発展論が目指した方向と合致するのかというと賛否があるところであろう。地域の主体性や住民の力を高め、地域づくりを継続して進める地域が増えてきていることは確かである。しかし、「地方の時代」において、リゾート開発等の商業主義に踊らされ、地域の荒廃を加速させた地域があることも確かである。

 

 そして、2010年代となった現在。1970年代に示された内発的発展論の内容は色あせるものではなく、時代の変革のその先を方向づける思想として、あるいは持続可能な地域づくりの思想として、見直すべきものである。

 

 地球温暖化等の地球規模の環境問題への対応、環境・エネルギーに係る技術開発の進展、過渡的な立ち止まりでなく構造的な縮小時代への突入など、1970年代と2010年代の置かれている状況は異なる。

 

 しかし、1970年代の内発的発展論が見据えた変えるべき問題の根本は同じであり、その変革のための方向や方法は、時代の置かれている出発点が異なるだけでおおいに共通する。

 

 

参考文献)

 

玉野井芳郎「地域主義の思想」農村漁村文化協会、1979

守友祐一「内発的発展の道」農村漁村文化協会、1991

保母武彦「内発的発展論と日本の農山村」岩波新書、1996

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