醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  415号  白井一道

2017-06-01 15:16:27 | 日記
 
  芭蕉の生きた時代、社会を想う

 芭蕉は元禄2年、江戸深川の芭蕉庵から舟に乗って旅立った。門人たちは芭蕉と曾良とを見送るべく、大勢舟に乗って千住まで見送った。千住を上がると門人たちは芭蕉と曾良とを囲み、別れの宴を数日間にわたって行った。今では考えられないような別れの宴は仰々しいものであった。この仰々しい宴が行われたことが元禄時代であり、元禄時代の社会であった。人と人との出会いが大きな喜びであり、人と人との別れは今生の別れに匹敵する哀しみであった。このような元禄時代に生きた人々の気持ちを私は、ホイジンガーの著書『中世の秋』を読み、理解することができた。『中世の秋』は、次のように書きだされている。
「世界がまだ若く、五世紀ほど前のころ、人生の出来事は今よりもっとはっきりしていた。悲しみと喜びの間の、幸と不幸の間の隔たりは、現代に生きる私たちの場合よりも大きかった。すべての人の体験には喜び悲しむ子供の時の記憶がある。その子供の時の記憶に残る直接性、絶対性が、中世に生きる人々には失われてはいなかった。
どんな事件も、どんな行為も、明確な、ものものしい形式にとりまかれて、はっきりと定められた生活様式の
高み、儀式にまで押しあげられていた。誕生とか、結婚、死といった大事件、これらはもとより、秘蹟の儀式によって、聖なる神秘の光に輝いていた。だが、それに比べればたいしたことでもない旅行、仕事、訪問などもまた、祝福、決まり文句のくりかえし、無数の儀式作法につきまとわれていたのである」と。
 とうとう芭蕉と曾良とは千住から奥州街道を旅立つ日がやって来る。このことを『おくのほそ道』では次のように書かれている。
 「弥生(やよい)も末(すえ)の七日、あけぼのの空朧々(ろうろう)として、月はありあけにて光おさまれるものから、富士の嶺(みね)かすかに見えて、上野・谷中の花の梢、またいつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗(の)りて送る。
千じゆといふ所にて舟をあがれば、前途(せんど)三千里の思い胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ。
  行く春や 鳥啼(なき)魚の 目は泪
これを矢立(やたて)の初(はじめ)として、行(ゆ)く道たいしたことでもない旅行、仕事、訪問などもまた、祝福、決まり文句のくりかえし、無数の儀式作法につきまとわれていたのである」なを進まず。人々は途中(みちなか)に立(た)ちならびて、後ろかげの見ゆるまではと見送(みおく)るなるべし。
 ホイジンガーが述べているように「たいしたことでもない旅行、仕事、訪問などもまた、祝福、決まり文句のくりかえし、無数の儀式作法につきまとわれていたのである」。芭蕉の陸奥への旅は、たいした旅ではなく、大変な命を懸けた旅出だったかもしれないが、今では考えられないような仰々しいものだったのであろう。それは芭蕉が偉大な俳人だったからではなく、誰に対しても同じような別れの宴が行われたのではないだろうか。私は『おくのほそ道』の「旅立ち」の章の文章をホイジンガーの『中世の秋』の文章を読むことによって理解した。