万葉集に酒造りの歴史を読む
古人(ふるひと)の 食(たま)へしめたる 吉備(きび)の酒 病(や)めばすべなし 貫貰(ぬきす) 賜(たば)らむ
万葉集の巻第四にこのような歌がある。奈良の大仏が造られた頃、大伴旅人へ丹生王女(にうのおおきみ)が贈った歌である。今からおよそ1250年昔、天平時代と呼ばれた頃の歌である。
その頃、酒は食べるものであった。奈良時代よりおよそ200年前の古墳時代の酒造りは、自然にある麹によって糖化された米に水を入れ、自然に発酵したものであった。現在の酒造りの過程で言うところの酒母に相当するものが、当時の酒であった。現在では酒母(醗)を飲むことはできない。どろどろしたお粥のようなものだから、飲むのではなく食べると表現せざるを得ないような飲み物である。「掛け」と言われる酒母に蒸米を加えることがないのでアルコールの発酵度数も低く、食べるには具合いの良いものであったろう。
米は粘りけが強い。水分を含んだ粘る米を絞るには、テコの原理を利用した圧搾する道具が開発されることなく液状の酒を造ることはできなかった。大きな木の桶を作ることができるようになってから蒸米と水を加える「掛け」の技術が開発される。
テコの原理を利用した圧搾する道具の発明と大きな桶を作ることができるようになって初めて「飲む」洒が造られるようになる。
丹生王女(にふのおおきみ)が生きていた時代は8世紀、古墳時代は6世紀である。「古人(ふるひと)の」とは、昔の人。「食(たま)へしめたる」とは、食べていた。「吉備の酒」とは、吉備の国の酒。だから昔の人が食べていた吉備の国の酒という意味になる。病気になると酒を食べることができない。「貫葺(ぬきす)」とは、編んだ葺のこと。「賜(たば)らむ」とは、いただきましようと、いう意味。大意は昔の人が食べていた吉備の国の酒は、病気になると食べられなくなるので、その時は貫賓(ぬきす)で酒を漉していただきます。その時のために貫貰(ぬきす)をいただきましよう。このような解釈はいかがだろう。
八世紀になると食べる酒と飲む酒が出てくる。飲む酒は中央から流行(はや)って行く。地方ではまだ古い食べる酒が多い。
万葉集の同じ巻の次にこのような歌がある。
君がため醸(か)みし 待酒(まちざけ) 安の野に蜀りや飲まむ 友無しにして
あなたのために作った酒をあなたは都に転勤してしまったので、ただ独り、安の野で飲むことであろうか。
岩波古典女學体系の巻第4の解釈によるとこのような意味である。酒を造ることを醸(か)む、という。蒸した米をに入れ咬んでは吐き出し唾液の中にある酵素によって米の澱粉を糖分に変える。ご飯をよく咬んでいると
口の中がいくぶん甘くなる。これは米の澱粉が糖に変ったということだ。糖に代わった米を寝かせて置くと空気
中の酵母が糖を食べ、活力を得て、アルコールを吐き出す。こうして甕に吐き出した米が酒になった。現在でも南米では口噛み酒が造られている。
万葉集の中に酒造りの歴史が反映されている。酒造りを知ることによって、より深く古い時代の歌を理解し、鑑賞することができるのではないかと思うが、いかが。