北総の地に立つ酒蔵・窪田酒造
干葉県北部、利根運河が流山市と野田市との境をつくっている。その右岸の野田市側を行くと右手に大きな瓦屋根の連なる一角がある。野田は昔から醸造業が盛んで、その盛時を偲ばせる古い蔵が残っている。その一つ窪田洒造の酒蔵がある。幕末から明治にかけて味噌、醤油、味琳、酒を醸す蔵が次々に建てられた。東葛飾地方は日本でも有数な醸造地帯であった。その中にあって現在まで酒を醸し続けている蔵は窪田酒造一軒を残すのみである。
窪田酒造の社長に酒蔵の中を案内していただいた、大戸を開け、蔵の明かりを付けると江戸時代を偲ばせるような古い柱や梁が浮かび上かっか。土の中に深く掘られた大きな竃(かまど)に大人が五、六人も入り、潜ってしまうのではないかと思われる大きな釜がかけら牡てあっだ。酒造りは冬場。きっと『昔の蔵人は薪でお湯を沸かしたことだろう。これだけ大きな釜の水を沸かすのにどのくらいの時間がかかったのだろう。しかし、この仕事は暖かく良かったにちがいない。電気のない時代は真っ暗な寒い蔵の中で蔵人は難渋を極めたことだろう。
明治の初め、利根運河か開通すると窪田酒造はこの地に越して来て酒造りを始めた。利相川水系の豊富な地下水に恵まれていたこと、冬になると江戸川の川面を北関東の冷たい風が吹き抜ける。この冷風が蔵に吹き込む。蔵人にとっては冷たく寒い北風が酒を絞る醪(もろみ)には具合いがいい。醪の温度が上がると発酵が進み過ぎ、旨い酒を絞ることができない。寒風が吹き荒ぶ蔵の中で旨い酒は醸されていく。蔵人の労慟の厳しさが目に浮かぶ。江戸川は北関東の物資を江戸に運ぶ水運の幹線であった。利根運河の岸辺に立つ窪田酒造は酒を大消費地の江戸に運ぶにも実に使利であった。樽詰めした酒を船着場まで転がし、現在の東京都中央区、新川にあった酒問屋に運んだ。蒸気船が利根運河から江戸川を下った。その頃が窪田酒造の全盛期だった。干葉県の酒蔵で売上が一番多かったという。しかし、野田の醤油が鉄道で冬季用に運ばれるようになると。江戸川を登り、下った蒸気船はなくなり、利根運河からも船は見られなくなり、寂びれた。気が付くと蔵の前には蔵を見下ろすような高い堤防が築かれていた。もう昔のように蔵から利根運河を一望に見下ろことはできなくなった。新しい時代に適応できない蔵は廃業し、醸造楽界から去っていった。厳しい時代の風雪に耐え、窪田酒造は利根運河のの盛衰とともにあった。利根運河、江戸川、利根川沿いには十市余りがある。この地域と窪田酒造は深く結び付いている。この地域はまた開発が進み。全国から人が集り、新しい仕事を興し、新しい宅地をつくり、新しいコミニテイーができている。この地域の人々とのつながりを大事にすることが窪田酒造生きる道だ。東葛飾の伝統を守り、その伝統を地域の人々に伝えていく。昔ながらの洒造りという伝統を地域の人々に伝えて行きたい。東葛飾に生き残った小さな酒蔵のそれは使命ではないか。昔の良い所を継承し、現在のよいものを付け加え、日々生成していくものが伝統というものであろう。良いものでなくては伝統とは言えない。良いものを造ろう。旨い酒を昔ながらの造りでつくろう。