醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  431号  白井一道

2017-06-17 15:11:00 | 日記

   筑波の名酒「霧筑波」

 昔の酒造りは朝が早い。午前三時には、大釜に火を点ける。一時間ほどで湯が煮えたぎり、蒸気が上がり始める。朝の四時ごろ甑(こしき)に入れた米をその上に置く。昔の甑は木製で人の背丈ほどの深さがあった。米が蒸し上がると蔵人が裸揮(はだかふんどし)に藁靴を履き、木製のスコップを甑の中に入り、蒸米を掘り出す。十分もすると体中が真っ赤になり、熱さのために体力が著しく消耗する。釜場にいる者は水桶に蒸米を受けて土間に広げてある鎚(むしろ)の上にあけ、引き伸ばし、冷ます。ときどきかきまぜて、さらに冷やす。
 前々日あたりに蒸米に麹カビを植えた麹を麹室(こうじむろ)から取り出し、鎚の上で冷えた蒸米と一緒に水の張ってある仕込み桶に入れ、混ぜ合わせる。こうして酒を造つた。実際の酒造りの過程はこんな簡単なものではない。しかし大まかに言うとこのような過程である。昔の人々は酵母の存在を知らなかったので、純粋培養した酵母を加えるようなことはしなかった。昔は清酒酵母が増殖するのを待った。経験を継承して、酒造りをした。
 なぜ酒ができるのか、その理由を解明したのは、フランスの細菌学者バストゥールである。糖が発酵するのは微生物の呼吸作用の一種であることを突き止めた。西洋の学問が明治時代に入ってきて、初めて酵母という微生物がアルコールを吐き出し、日本酒を造ることが分かってきた。酒蔵に居着いた酵母が自然に膠に入り込み、発酵していることが分かるとこの酵母を純粋に分離培養するようになっていく。明治三〇年代の終わりごろのことである。醸造協会が初めて優良酵母として培養したのが灘の酒蔵「桜正宗」で分離した酵母である。この酵母が協会1号である。1号酵母を分離した「桜正宗」の6代目蔵元、山邑太左衛門は宮水の発見者としても有名で
ある。
 浦里酒造さんは名酒「霧筑波」を協会10号酵母を用いて造っている。大蔵省仙台局に勤めていた技官の小川知可良先生が昭和二」年、東北地方の酒蔵数百株の酵母から選び分離に成功したものである。その後、茨城県醸造試験場や『副将軍』という銘柄の酒を造っている水戸の酒蔵「明利酒類」で十号酵母を使った酒造りが繰り返され、昭和五二年に協会十号酵母として全国に頒布されるようになった酵母である。協会十号酵母は茨城で生まれ、成長した酵母である。茨城という地域に根差し、茨城の酒を造ってきた浦里酒造さんは「霧筑波」を造ろうとしたときから、十号酵母にこだわり「霧筑波」を造って来た。十号酵母は低温で発酵し、酸が少なく、淡麗で綺麗な酒を醸す。低温発酵なので、十号酵母はアルコールに弱い、気温の影響で醪の温度が上がると死ぬことがある。繊細な酵母である。
例年五月ごろには、新酒の全国鑑評会が行われる。秋には熟成した清酒鑑評会がある。これらの鑑評会で金賞受賞する酒は、ほとんど協会九号酵母を用いて醸された酒が多い。十号酵母で醸した酒が鑑評会で金賞受賞することは難しい。金賞を目的とするなら、九号を用いた方が良いのだが、絶対に浦里酒造さんは九号酵母を用いない。茨城の酵母、十号にこだわって酒を造っている。土地の人に好んで飲んでもらえる酒を造るために十号酵母で酒を醸している。こうして茨城の名酒「霧筑波」はできた。