醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  429号  白井一道

2017-06-15 12:31:28 | 日記

 結城の酒 武勇

 昭和二〇年代、「武勇」の蔵元さんは茨城県酒造組合の理事をされていた。その頃、ビールを普段に飲む人と言えば、田舎の町ではお医者さんくらいしかいなかった。そんな状況だったためか、ビール会社は酒蔵にビール販売の特約権を与えた。酒蔵はビールの卸業をすることができた。保坂さんはくれるというビールの特約権を断
つた。酒蔵は日本古米の酒を造るところだ。ビールのような際物を扱うところではない。こう考えビールの卸しをしなかった。「ビールの卸しをしていれば、一時(いっとき)夢を見ることができました」。保坂さんの奥さんはほほ笑みながらおっしゃった。今、ビールの卸業は厳しい冬の時代のようだ。「ビールのバブル (泡)を昧わったら現在の武勇はないかもしれない」とも奥さんは真面目な顔をして話した。
昭和四〇年代、五〇年代、ビールは飛ぶように売れ始めた。経済の高度成長が実り、ビールは一般庶民の手に届く飲み物になっていた。ビールの卸をしていればなあーと思うことがなかったわけではないが、今思えばビールに手をつけなくてよかった。
 昭和四〇年、保坂さんではまだどこの酒蔵でも造っていなかった純米酒を造った。武勇の現社長さんは東京農大の醸造学科を卒業した酒造りのエキスパートだ。酒造りが好きで保坂さんのご養子になった方である。知り合いの酒蔵がビールの卸しで儲けている時に旨い日本酒を造り始めた。武勇は酒で主張する。まがい物でない本物の酒で主張する。「うちは時代に流されることがなかった。ただひたすらに酒を造ってきた」。奥さんは夫とも歩んで来た道を振り返り、静かに言った。
「二十五年ほど前、バブル景気があったでしょ。その頃も甘い誘惑がありましたよ。酒蔵には広い土地があるでしょ。その土地を利用する金儲け案を銀行やら、不動産会社の方々が持ってきました。マンションを経営しては、どうか、とかね。駐車場をしてみては、どうか、というお話ですよ。甘いお話には一切のりませんでした」。奥さんはきっぱりと言った。新潟から出て来て酒造りの夢を実現した初代に帰り、保坂の家は酒を造る。それ以外のことをしてはいけない。これが家訓である。この家訓をかたくなに守っている。「私の父は政治が好きでした。一期だけ父は町会議員をしました。しかし、それ以上議員を続けることを祖父は許しませんでした。政治も知らなければいけない。しかし政治にかまけ、本業が疎かになることを戒めたんです」。奥さんは保坂家に代々伝わる戒めを話してくれた。
「代々保坂の家は養子なんです。今の専務は私の息子なんですが、息子に言うんです。あんたは養子なんだからね。養子というのは保坂の家を預かる人なんだ。武勇という酒蔵を単に預かっているだけなんだから、自分勝手に何でもできると言う訳じゃない」。
 奥さんは自分の息子を養子として考え、扱うように努力している。武勇は先祖様からの預かりもの。武勇は時代に流されることなく、酒を造る。酒を真面目にひたすら造ってきたから、今があると考えている。日本酒需要の長期低落が続く中で、廃業者が続く中で、武勇は酒を造ってきた。歯を食いしばって売れない旨い酒を造ってきた。それがここ十年、日本酒愛好家に武勇の酒が認められるようになった。奥さんは今日も蔵人と一緒に汗を流し、働いている。