醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  425号  白井一道

2017-06-20 17:57:45 | 日記

   万葉歌人の酔歌(すいか)

 「験(しるし)なきものを思はずは一坏(ひとつき)の濁れる洒を飲心ぺくあるらし」
 七世紀後半から八世紀前半に活躍した万葉の歌人に大伴旅人がいる。酒を讃える十三首の歌を旅人は詠んでいる。その最初の歌がこれである。物思いにひたってもどうなるものでもない。そんなときは一杯の濁り酒を飲んだ方が良いだろう。気持がとても良く分かる。今の私たちとまったく同じだ。七世紀後半になると神事の際に用にいられていた酒が嗜好品として飲まれるようになっていたことがこの歌から分かる。まだまだ酒は高級品であっただろうから一般民衆が日常的に酒を飲むことはできなかったであろうが、位の高い役人であった旅人は日常的に酒を飲んでいたのかもしれない。その酒は濁り酒。ドブロクであった。単に酒と言わずに「濁り酒」と言っているところをみると、当時すでに「すみ酒(清酒)」があったことが想像できる。高級酒が「すみ酒」、レギュラー酒は『濁り酒』であったのかと想像をたくましくする。昭和三十年代位まで、農家の方々はドブロクを造っては自宅で飲んでいたと聞いている。万葉の時代からおよそ千数百年、日本の民衆は濁り酒をずっと楽しんできたようだ。きっと大伴旅人が飲んだ濁り酒も家人が醸したものであっだろう。
 酒造りの技術は稲作の普及にともなって農民の間に広がっていった。
 酒の名を聖(ひじり)とおほせしいにしえの大き聖の言(こと)のよろしさ
 中国の古典「三国志」が表現してにいる時代、魏の太祖は禁酒令をしいた。酒が役人の仕事を邪魔している。皇帝は禁酒令を出した。下級の役人たちは清酒を「聖人」と名付け、濁り酒を「賢人」と呼んだ。「聖人」、「賢人」とは酒を意味する隠語だった。法を破ってまで、酒を飲んだ中国、魏の人々を旅人は讃えてこの歌を詠んだ。
 酒の名を聖(ひじり)とつけた昔の中国の人は、まさに大聖人だ。うまいことを言ったものだ。
 いにしえの七の賢(さか)しき人たちも欲(ほり)せしものは酒にしあるらし
 紀元三世紀、中国は三国時代であった。三つの王国に分裂してにいた中国は、四世紀を迎えると晋王朝によって中国は統一される。この時代、俗世間を離れ、竹林で風流な生活を営み、酒を愛し、清談をしたという。日本では古墳が造られ始めたころである。旅人が讃酒歌を詠んだのは、八世紀。七人の竹林の賢者たちが老荘の思想について酒を飲みながら語り合ったのが八世紀。四百年後、旅人は歌を詠んだ。
 竹林の七賢人たちも欲しがったものは酒だったようだ。
 中国の賢者が酒を讃え、酒を愛し、酒を飲んだことを学んで、旅人もまた酒を讃え、酒を愛し、飲んだ。
 中国には、豊かな酒文化かあった。この酒文化の影響下に日本の酒文化がつくられてきた。中国の酒と日本の酒とでは、大きく酒質が違うが、酒を愛する気持に変わるところはない。
 酒は人と人とを結び付ける働きがある。この機能が独自な酒の文化を全世界で育んだのだろう。