醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  419号  白井一道

2017-06-05 16:29:13 | 日記

 居酒屋のトンちゃん

 「北の漁場はよー…」。トンちゃんが北島三郎の歌を唄いはじめた。話に夢中になってトンちゃんの歌を聞かないでいると「黙って聞け」と怒られてしまう。聞き耳をたてると気持ちよく、いくらでもトンちゃんは唄い続ける。
 「トンちゃん、上手くなったね」。「これ、かけてっからよ」、とトンちゃんは言って、人差し指と親指で丸を造る。トンちゃんとセイちゃんが力ラオケを好むことにかけては、この居酒屋で双璧をなしてにいる。どんな歌でも唄う。どの歌を唄っても皆、同じような節になる。
 トンちゃんは居酒屋に入ってくるなり、ママにお土産を渡す。畑で取れたナスであったり、トマトであったり、枝豆であったりする。「いつも、悪いわね」、とママは感謝を述べる。「いや、いいんだよ。どうせ余ったものは腐っちやうんだから、食べてもらったほうがいいんだよ。オヤジも悦んでいるんだから」。「もう、ご主人さん、定年になって何年になるの」。「三年になるよ。何の趣味もない人だから。唯一の楽しみは野菜づくり。息子も娘もほとんど家じゃ、ご飯を食べないから、私とオヤジの二人じゃ、余つちやうんだよ」。「良いご主人じや、ないの」。「酒も飲まない堅物でね、おもしろみが何にもない人なんだから」。
 こんな話をママとしながらカラオケの本のページをめくり、また新しい歌を唄いはじめる。トンちゃんはコンビニに卸すおにぎりなどを作っている会社で働いている。深夜の勤務も若いころはしていたが今は午後四時には仕事を終える。
 「主婦だからよ、オヤジのご飯つくんなくちゃなんねーから、買に物してきたんだよ」。
 およそ一時間半ぐらい、慌ただしく大ジョッキで生ビールを一杯飲み、ウーロンハイを一杯を飲む。つまみにお刺し身を1皿食べる。その間、三・四曲唄う。化粧っけが何もないトンちゃんの眉毛が美しい。
 「トンちやんの眉毛、綺麗だね」、と言うと、トンちゃんは顔を隠し、オレ恥ずかしくってよ、と極まり悪そうな笑い声をあげる。
 「何が恥ずかしいのよ。もう眉毛、書かなくてもいいんだから、よかったじゃないの」と、ママが生真面目な顔をする。「眉毛を彫ってもらったんだよ」。「ママが行くべ、というからさ。私も、いいかなと思ってママと一緒に昨日、行ってきたんだよ」。「いい形に彫れているでしょ。トンちゃんは眉毛がほとんど無かったから、ちょうど良かったじゃないの」とトンちゃんと私にママは言った。何が良かったのか、サッパり分からなかったが、なんとなく頷いている自分がいた。
 トンちゃんは唄い、食べ、飲むと慌ただしくと夕飯の材料をかかえ、帰って行く。後ろ姿を見るとズボンがパンパンに膨らんでいる。コンクリの上をいつも冷たい水が流れているんだからよ、モモ引きは二枚はかないと冷えちゃうだよ、とよく言っているトンちゃんを思い出した。
 禿上がった頭にいつも手ぬぐいをまいているカシラがいると、トンちゃんのメートルはあがる。いつもは長くても二時間を越えることはないがカシラと一緒に飲み始めると時間が分からなくなってしまう。カシラは焼酎一本を空けないと帰らない。裕次郎の歌をカシラは情緒たっぷりに唄う。飲み仲間からアンコールの声がかかる。トンちゃんは一所懸命に手をたたき、カシラと一緒に酔いを楽しみ、晩御飯作りを忘れてしまう。