醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  415号  白井一道

2017-06-02 16:01:00 | 日記

  芭蕉と去来、嵯峨野を歩く

 元禄二年、「おくのほそ道」の旅を終えた芭蕉を門人たちは大垣に出向き、芭蕉の帰りを待っていた。その中に京都から来ていた去来がいた。師匠芭蕉は、「あくのほそ道」の旅を終えるとすぐ伊勢の式年遷宮に参ると去来は聞いていた。去来は師匠芭蕉にお願いをした。伊勢の式年遷宮の後、京・嵯峨野、落柿舎に来てくれるようお願いをしていたのだ。
「お師匠さん、お水取りが終わると本当に春めいてきますね」
「本当にそうですよ。去来さん。嵯峨野の若葉。青葉に元気づけられますよ」
「それは良かった」
「去来さん、最近、江戸の其角さんが編んだ俳諧集に『下臥(したぶし)につかみわけばやいとざくら』という発句がありましたが、どんなもんでしようね」
「お師匠さん、いとざくらが満開になっている姿が目にうかびますが」
「確かに、この句は満開の糸桜が表現されてはいますが、何かが足りないように私には思えるんですがね。去来さんはいかがですか」
「そうですね。満開の糸桜を見て、何を感じたのか、どんな気持ちになったのかが言われてみればないように思いますね」
「そうでしよう。発句というものは、単に自然を見て、その自然を十七文字で表現すれば、それで足りるものではないように私は考えているんですがね」
「発句というものは隣の人に私の気持ちというか、感じたことを伝えなければ、連歌になりませんね」
「その通りですよ。俳諧は連歌なんですからね。俳諧とは、座を共にする人々の遊びなのだから、皆さんが一同に一人一人が楽しめるものでなくてはならないのですよ。座を共にする人が楽しむためには発句が大事なのです。発句は座を共にする人々の想像力を刺激するものでなくてはなりません。そうでなければ、俳諧を楽しむことができないのですよ。其角さんが編んだ俳諧集の発句『下臥(したぶし)につかみわけばやいとざくら』はいかがなものでしようね」
「なるほど、わかりました。発句になる句と発句にはならない句があることが分かりました」
「私は其角さんの選句眼を疑っているわけではないんですよ。ただちょっと、この句は発句にはならないのではないかと思ったものでね。去来さんの意見を聞いてみようと思ったまでのことですよ」

『芭蕉の言葉』復本一郎著  この中の「発句の余情その2」を私なりに理解したことを表現したつもりです。