醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  439号  白井一道  

2017-06-25 12:55:14 | 日記

 酒造りに命を燃やす男

 造り酒屋の蔵人になれば、思う存分酒が飲める。良い働き口があったものだ。「働かしてくれるかい」。蔵元は顔を綻(はころ)ばしてうなずいた。晴れた日は青空の下で建設関係の仕事をしていた。冷たい風に頬をさらし、体を動かすと生きていると感じた。雨が降った日は蔵で酒造りを覚えた。冬、蔵に寝泊まりして、酒造りをしながら、昼は建設関係の仕事をした。酒造りの魅力は何といっても造りたての酒が飲めることである。酒を飲みながらの仕事、楽しい。どんなに厳しい作業であっても辛いと感じたことはない。米が麹になっていくのを見つめているだけで楽しい。酵母が増殖していくのを見るのはいくら見ても飽きることがない。少しづつ少しづつ酒造りが分かってくる。建設関係の仕事も面白かったが酒造りはさらに面白い。
 埼玉の名酒「力士」を醸している副杜氏、加藤克則氏は三重県、伊賀上野の造り酒屋で酒造りを覚えた。たまたま建設現場近くに造り酒屋があった。仕事の合間に酒造りの手伝いをした。これが本職になった。
 埼玉県騎西町のメーンストリートにある釜屋さんに入った。鉄筋コンクリート造りの近代的なオフィスである。受付には若い女性がいた。蔵見学と副杜氏、加藤克則さんの話を聞きにきた旨を述べるとオフィスの奥まった所の大きな机に向かって事務をとっていた年配の職員が釜屋と銘うった作業着を着て急ぎ足でやってきてくれた。
 従業員が作業着のユニホォームをもっている。釜屋さんは酒造メーカーなのだ。表から見た感じでは物流センターといった趣(おもむき)である。輸送のための大きなトラツクが自由に出入りできるようになっている。二千石前後の蔵は、酒造りの真っ最中であっても屋敷全体が森閑としていて、その中で人が生活し酒が毎日造られているような騒がしさが何もない。寒く、静まりかえっている。しかし釜屋さんには、入の温もりが感じられた。事務所には若い受付嬢がいる。男性の事務職員がいる。トラックの出入りがある。中規模の食品メーカーという装いである。
 私は藤塚営業企画部長さんに案内されて酒造りの作業場に案内された。
一人パソコンに向かい、マウスを動かしている人物に紹介された。11月下旬、酒造りの真っ最中である。ジーンズにTシャツ。無造作にジャンパーを羽織っている。大きな体、胸が厚い。パソコンに集中していた顔を私たちに向けた。職人というより芸術家という出立ちである。
 米を水に何分浸けると水分をどのくらい吸水するのか、麹菌がハゼルのに何度くらいの温度が必要か、加藤副杜氏は自分かいなくなっても酒造りができるようにデーターをパソコンに人力しているところだった。加藤副杜氏は旨い酒を造ってくれ、釜屋の社長請われ、福岡県から単身赴任してきた。家族と離れ、「力士」の寮に人り、酒造りに全力を注いでいる。十月、酒造りが始まってからまだ一度も休みを取っていない。いや五月末に酒造りが終わるまで一度も休みを取ることなく働く。正月も家に帰らないで酒造りをする。朝は四時に起き、仕事を始める。麹造りが酒質を決める。麹は生き物だ。麹造りに杜氏の腕がなる。深夜まで麹を見守り続ける。酒造りそのものが加藤副杜氏の元気の源のようである。

醸楽庵だより  438号  白井一道

2017-06-23 16:19:36 | 日記
 
 岩手の酒「菊の司」生酛純米

侘輔 今日は岩手の酒を紹介したいと思うんだ。
呑助 岩手ですか。岩手というと「南部美人」なんていう銘柄の酒がありますね。
侘助 「南部美人」。記憶に新しいところでは、東日本大震災でほとんど被害を受けることがなかったが、災害に負けることなく酒造りを頑張りますというメッセージがうけ、いつもの年より大幅に酒が売れたという記録をつくった蔵かな。
呑助 「南部美人」は岩手のどこにある蔵ですか。
侘助 二戸にあるんだ。
呑助 今日、楽しむ酒は何ですか。
侘助 「菊の司」という銘柄のお酒なんだ。盛岡にある酒蔵だ。一五代続く、二百五十年の歴史をもつ酒蔵のようだ。
呑助 岩手は南部杜氏の地元ですよね。
侘助 今、一番大きな杜氏組合が南部杜氏会かな。
呑助 今日、唎く酒の造りは何ですか。
侘助 「生酛造り」かな。
呑助 「生酛造り」とは、江戸時代から続く昔の酒造り方法でしたよね。
侘助 そうなんだよね。今造られている酒の大半の造りは何と言うんでしたっけ。
呑助 昔の作り方と今の造りで一番大きな違いは酒母の造り方が違っているんでしたよね。
侘助 良く覚えているね。酒母のことを酛(もと)とも言うんだ。まずお酒造りは酒米を精米する。精米すればするほど綺麗なお酒ができる。精米した米を蒸す。蒸米を麹室に入れ、麹菌を振り、麹を造る。麹ができるとその麹で山を作る。そのままほーって置くと乳酸菌ができる。乳酸菌ができているのを確認し、山卸という作業を半切り桶に入れてするんだ。その作業を終えると桶に摺りおろされた麹と蒸米と水を入れ、酵母を入れたものが酒母、酛なんだ。これを「生酛造り」というんだ。この酒造りの過程で乳酸菌の発酵を待たずに化学製品の乳酸菌を入れる方法を「速醸酛」と言って酛の製造過程を大幅に短縮できるんだ。この方法だと乳酸菌の出来、不出来に気を遣う必要がないから、酒造りリスクがない。酒造りの微妙な難しさがない。温度管理や風、湿度様々な気候にあった対応をする必要がないから、速醸酛の造りは安全で安心できる。酒造りの期間を短縮できるしね。
呑助 どのくらい期間を短縮できるんですか。
侘助 「菊の司」酒造の場合、聞いたところによると速醸酛の場合は十二日だそうだが、生酛の場合は五十六日かかっているということだった。
呑助 速醸酛に比べて五倍近い時間がかかっているんですね。だから生酛の酒は値段が高くなるわけなんですね。
侘助 今日、唎酒する酒は「菊の司」だけが生酛の酒だから、他の速醸酛の酒と飲み比べて、その違いが分かるといいんだがね。問題はその違いが分かるか、どうかということなんだけれどね。
呑助 そりゃ、難しいなぁー。一般的にはどのような違いがあると言われているんですかね。
侘助 そう、一般的には、酒質の骨格がしっかりしている。口の中でもたつくことがないと言われているんだけどね。
呑助 切れはどうなんです。
侘助 もちろん、骨格がしっかりしているから切れが良いんだよ。今日唎酒する中では「美冨久」との違いが分かることかな。

醸楽庵だより  437号  白井一道

2017-06-22 17:59:42 | 日記

 「築地は守る、豊洲を活かす」。「は」と「を」の違い

句郎 「築地は守る、豊洲を活かす」と東京都知事、小池氏は決断した。華女さん、小池知事は築地と豊洲、どちらが主で、どっちが従なのかな。
華女 築地から豊洲に移転しろと言う勢力におもねった表現なんじゃないのかしら。狡い人だから、築地再整備派の人々にも媚びを売ったんじゃないのかしら。
侘助 なるほど、鋭い指摘かな。「豊洲は守る、築地を活かす」といった表現と比べてみると違いが良く分かるような気がする。
華女 そうね。「は」と「を」の違いね。
侘助 助詞をどの単語に付けるかによって意味が大きく違ってくるんだね。
華女 小池百合子氏は元アナウンサーだったというから言葉の使い方がうまいんじゃないのかしら。
侘助 確かに。築地はあくまでも守りますよ。安心して下さいと述べ、仲卸を中心とした人々からの反対の声を防いだ。
華女 反対の中心は仲卸さんたちが中心だったの。
侘助 そう、仲卸さんたちが「築地ブランド」を築いてきたようなんだ。魚の品質に対する安心安全というものが「築地ブランド」というものらしいからね。
華女 ああ、そうなんだ。だったら、豊洲に移転しても仲卸さんたちが居れば、「築地ブランド」というのは守れるんじゃないのかしら。
侘助 ところがそうじゃないようなんだ。豊洲に移転した場合、仲卸を辞めたいという人たちが大勢いるようなんだ。
華女 なぜなのかしら?
侘助 豊洲に割り振られた場所が狭い、魚を積んだ重い荷物を自由自在に運べない。築地に比べて豊洲は狭い上に使い勝手が仲卸には悪いようにできているようなんだ。その上、家賃が高くなるようなんだ。仲卸のことは特に考えて使いやすいようにはできていないみたい。
華女 そうなんだ。
侘助 築地での仲卸さんたちの魚の扱い量は減少してきているのが実態のようなんだ。
華女 あらそうなの。
侘助 絶対量はそれほど減ってきているというようなことはないのかもしれないけれどね。仲卸を通さず、大手スーパーなどに直接、漁業組合や漁業会社が卸す量が増えてきている実情があるみたいだよ。
華女 あー、そうなのかもしれないわね。仲卸より大手なのね。それがITを使った流通センター機能ということね。
句郎 だから「豊洲を活かす」決断を小池知事はした。あくまでも、築地を売り払ったりせず、守ることにも配慮しますよと述べたんだ。
華女 その決断が「築地は守る、豊洲を活かす」という言葉だったのね。
句郎 そう。だから、築地中央市場は豊洲に移転します。豊洲を無害化することはできませんでした。お許しください。このように謝り、築地から豊洲に移転する決断をした。豊洲を安全な市場にするため処置をしますので風評被害を食い止めるために、私は先頭に立って頑張りますと、このようなことなんじゃないのかな。
華女 でも、なんか、裏切られたという気持ちはぬぐうことができないわ。だってそうでしょ。無害化できない場所に移転するんでしょ。「築地ブランド」は無くなるわね。

醸楽庵だより  436号  白井一道

2017-06-21 13:22:48 | 日記

  無気力症を想う

 五十前後だったかな。支店長が無気力症になってね。細かなことにも気のつく、どちらかというと行員に配慮が行き届いだ方の支店長だったかな。ある朝、余裕をもって出勤の支度をしようとネクタイをしめようとしていたとき、突然、なんでネクタイなどを俺は締めようとしているんだろうと疑問に思ったというのだ。そしたら何もかもが面倒になってしまった。一気に力が抜けるとネクタイをしめることができなくなってしまった。ズボンをはくことができない。それでも奥さんの力を借りて何とか出勤の支度をして銀行にきたが仕事ができない。仕事をする気力がなくなってしまった。初めは、体の調子が悪いのかな、と思っていた。俺は支店に何人もいるションペン代理の一人だったんだけど。驚にいたよ。一日、何もしないでボーツと支店長の椅子に座ったままなんだからね。
 カイちゃんは一流銀行の支店長代理で定年をむかえ、今は年金生活をしている。商業高校を卒業し、成績の炭かったカイちゃんは憧れの銀行に就職した。真面目に一所懸命に働き、五十前後になって支店長代理になった。四十代後半で取引先の会社に片道切符をもらって出向することもなく、銀行に残って定年を迎えた。四十年近く銀行業務に勤しんできたカイちゃんには自分と同世代の一流私大を出て、コースにのっていた支店長が無気力症になってしまったことがわからないと言う。
 外見は今まで通りだけれどね、家庭では大変だったみたい。朝、起きない。奥さんが何度も呼びかけ、布団をはいで起こす。自分では髭も剃らない。整髪もしない。何もしない。奥さんか怒鳴り、顔を洗う。一つ一つのことがとても大儀そうで、子供を叱り付けるように出勤の支度をだらだらとしていたみたい。最近なんだか、無気力症にかかった支店長の気持ちが分かるような気がするんだ。毎口、朝起きても出勤するところがないと顔を洗い、髭を剃り、整髪するのが億劫だものね。身の回りを清潔に保つのは、大変な気力を必要する営みだってことが分かるような気がする。無意識のうちに体を動かしていることがなんとも感じなかったけれど、定年をむかえてから、それが大変なことだったんだと思うことがあるね。支店長は1ヵ月近くそんな状態だったけれど、病気療養になったんだけれど、その後どうしたかな。最近、時々、無気力症になった支店長のことが思い出されるんだ。
 「リストラ」という言葉が流行り出したころだからね。初め「リストラ」と言われても、分からなかったね。そのうち首切りのことだと分かってきたけど、まだ実感はなかった。支店長は分かってにいたのかもしれない。リストラという事態を自分白身の問題として提起できなかった。どのように経営の効率化をはかるのかということが自分白身の問題として考えることができなかった。これ以上の効率化なんて考えられなかった。漠然と他人事だと思っていた。しかし上からはリストラを求められた。気の優しい女店長だったからどのようにリストラするか、毎日考えていてもどうしても自分の問題とは思えなかった。そんな時だったんじゃないかなあー。ある朝、ネクタイを締めているとき、なんで俺はネクタイを締めているのかと思ってしまった、今まで無意識のうちに行ってにいた一つの動作に疑問を持ち始めると日常生活のすべてに対して億劫になってしまった。それが無気力症だったように思うんだ。

醸楽庵だより  425号  白井一道

2017-06-20 17:57:45 | 日記

   万葉歌人の酔歌(すいか)

 「験(しるし)なきものを思はずは一坏(ひとつき)の濁れる洒を飲心ぺくあるらし」
 七世紀後半から八世紀前半に活躍した万葉の歌人に大伴旅人がいる。酒を讃える十三首の歌を旅人は詠んでいる。その最初の歌がこれである。物思いにひたってもどうなるものでもない。そんなときは一杯の濁り酒を飲んだ方が良いだろう。気持がとても良く分かる。今の私たちとまったく同じだ。七世紀後半になると神事の際に用にいられていた酒が嗜好品として飲まれるようになっていたことがこの歌から分かる。まだまだ酒は高級品であっただろうから一般民衆が日常的に酒を飲むことはできなかったであろうが、位の高い役人であった旅人は日常的に酒を飲んでいたのかもしれない。その酒は濁り酒。ドブロクであった。単に酒と言わずに「濁り酒」と言っているところをみると、当時すでに「すみ酒(清酒)」があったことが想像できる。高級酒が「すみ酒」、レギュラー酒は『濁り酒』であったのかと想像をたくましくする。昭和三十年代位まで、農家の方々はドブロクを造っては自宅で飲んでいたと聞いている。万葉の時代からおよそ千数百年、日本の民衆は濁り酒をずっと楽しんできたようだ。きっと大伴旅人が飲んだ濁り酒も家人が醸したものであっだろう。
 酒造りの技術は稲作の普及にともなって農民の間に広がっていった。
 酒の名を聖(ひじり)とおほせしいにしえの大き聖の言(こと)のよろしさ
 中国の古典「三国志」が表現してにいる時代、魏の太祖は禁酒令をしいた。酒が役人の仕事を邪魔している。皇帝は禁酒令を出した。下級の役人たちは清酒を「聖人」と名付け、濁り酒を「賢人」と呼んだ。「聖人」、「賢人」とは酒を意味する隠語だった。法を破ってまで、酒を飲んだ中国、魏の人々を旅人は讃えてこの歌を詠んだ。
 酒の名を聖(ひじり)とつけた昔の中国の人は、まさに大聖人だ。うまいことを言ったものだ。
 いにしえの七の賢(さか)しき人たちも欲(ほり)せしものは酒にしあるらし
 紀元三世紀、中国は三国時代であった。三つの王国に分裂してにいた中国は、四世紀を迎えると晋王朝によって中国は統一される。この時代、俗世間を離れ、竹林で風流な生活を営み、酒を愛し、清談をしたという。日本では古墳が造られ始めたころである。旅人が讃酒歌を詠んだのは、八世紀。七人の竹林の賢者たちが老荘の思想について酒を飲みながら語り合ったのが八世紀。四百年後、旅人は歌を詠んだ。
 竹林の七賢人たちも欲しがったものは酒だったようだ。
 中国の賢者が酒を讃え、酒を愛し、酒を飲んだことを学んで、旅人もまた酒を讃え、酒を愛し、飲んだ。
 中国には、豊かな酒文化かあった。この酒文化の影響下に日本の酒文化がつくられてきた。中国の酒と日本の酒とでは、大きく酒質が違うが、酒を愛する気持に変わるところはない。
 酒は人と人とを結び付ける働きがある。この機能が独自な酒の文化を全世界で育んだのだろう。