機会があればもう一度、あの人に会いたいな…
そんな風に思う人って、誰にでも何人かはいるよね。
あれは1987年の暮れだった。
当時のバンドは、この年の夏頃にオレ以外の全メンバーをチェンジし、「このメンツなら最高だ!」と自負し、拠点にしていた吉祥寺のライヴハウスで精力的に活動していた。
年末、最後のライヴも熱い内容で終え楽屋に引っ込んだオレのところに、一人の男がかけこんできた。
これでもかってほどの笑顔を浮かべ、「かっこよかったよ!」と興奮気味にオレに名刺を差し出した男。
当時、脅威の高校生バンドという触れ込みで、少々話題になっていたバンド「F」の事務所の人であった。
「もっと、大きなところでやっていく気はないの?」と聞かれ、オレは「いい加減、こんな小さいところでやるのは飽き飽きなんスよ!」とぶっきらぼうに言い放った。
いやいや、若気のいたりというか、今だったら初対面の人には平身低頭、「こんなところまで来て頂いてドーモドーモ…、まっ、ジャスミン茶でも一杯…」と言うような場面だが、当時はフラストレーションの固まりで、ストレートな態度を……。
と、ここまで書いてて思い出した。あのライヴのアンコールの最後の方で、あまりに盛り上がってるライヴにジェラシーを感じたのか、対バンのヤツが歌ってるオレに火のついたタバコを投げてきて、オレは怒ったまま曲のエンディングを待たずに楽屋に戻り、カッカしてた矢先の見知らぬ客の訪問だったのだ。
そんなテンションのまま会話をしたので、かなり感じ悪かったはず。
しかし、何が幸いするのかわからない。楽屋にたずねてきたKさんは、そんなオレの態度を気に入ったらしく、その後あらためて会う事になった。
年があけ、青山で待ち合わせ。
モリハナエビルの1階の喫茶店で、オレとKさんとでじっくり話し合った。
実は、年末のライヴにはもっと大きな会社のディレクターも来てくれてたんだけど、オレとしてはライヴ直後に楽屋に飛びこんできたKさんの心意気の方にひかれるモノがあった。
オレが何をやっていきたいのかを聞いてもらい、彼の方がどんなプランを持っているのか…具体的に何枚もの用紙にまとめられたモノを見せてもらった。
こういう時に問題になるのが音楽的な事なんだけど、今のまま、スケールアップしていけばいいという話だった。
オレは87年初頭に、Aという会社から「87年デビュー・ラッキースター」という恥ずかしいキャッチフレーズでCDを出したんだけど、これがなんとも…演歌系の某レコード会社が流通を担当するメジャー盤って話だったわりに、近所のレコード屋の店頭に並んでるのさえ見た事がないような妙な話で…。
その前年には、某事務所の人と何度か打ち合わせをしたものの、衣装を可愛くしろとか曲を変えろとか言われてイヤになって決裂した事があり、「おいしい話でも簡単にはとびつくな」と自分に言い聞かせていた。
そんな中でも、Kさんの話は納得できるもので、なによりハイテンションな彼の人柄にやられたというか、一緒に何かを創っていけたらな…と考え、お世話になる事を決めたのだった。
Kさんは、オレの世代だったら誰でも知っているバンド「S」のマネージャーだった人で、「S」とは高校時代からの親友で、アマチュア時代からマネージャー的な役割を担っていて、「S」のデビューと共にそのまま業界に入ったとの事だった。
「S」が、いかにメチャクチャな連中だったかってのを面白おかしくオレに聞かせてくれる事も多々あり、初対面のオレの悪びれた態度に好感触(?)を抱いてくれたのも、少し前に解散してしまった「S」への思いが断ち切れず、後釜を探していたのではなかろうか…なんて自分なりに分析したもんである。
さてさて、オレの事務所通いも本格的になり、週に一度、新しい詞を二つ作っては添削してもらい、その後は詞の先生(?)でもあり、「S」のプロデューサーだったのはもちろんの事、オレがガキの頃の国民的兄弟アイドルグループの産みの親でもあった事務所の代表のIさんが「Kちゃん、ビール買ってきてよ」と指令を出し、酒盛り…って事が多々あった。
Iさんはもっぱら、オレに音楽的な事を教えてくれて(おそらく当時はまだよく理解できていなかったオレだが)、Kさんは年が近かった事もあり、彼女の話とか、ワンフを食っちゃったらどうのこうの…とか、下らん話ができるアニキ的感覚だった。
バンドは、事務所主催のイベントで、吉祥寺を抜け出し渋谷TAKE OFF7でライヴ。
オレ達はトリで、MCを担当したKさんが冒頭から「最後にすごいバンドが出るぞ。今から追っかけてないと後悔するよ!」とかアオり続けたおかげか、満員の客が初めて耳にするオレ達の曲で拳を上げて波打つという異常な光景を目にし、幸先のいいスタートを切る。(ビデオとかを残していないのが残念!)
で、続いてKさんの決めたブッキングで初遠征。向かう先は大宮フリークス。
とにかく、関東近郊にファンを作っていこう、他のバンドのファンを奪っていこうって事で、デビューしたての新人バンドと対バンになるよう仕組んでくれた。
最近のライヴハウス事情を見ていると…残念ながら、お目当てのバンドの時間にライヴハウスに入り、終わると出ていくお客さんが多いけど、当時はロックが好きな子達がライヴハウスに集まり、1枚のチケットでなるべく多く見て帰ってやるって空気が漂っていて、他のバンドのファンを奪える可能性は今よりもずっと高かったのだ。
器材車にメンバー4人とKさんで大宮まで行く道中はまさに遠足気分。
車中で「ヒルビリーのヴォーカルが自殺したぞ」とKさんに聞かされたのも、切ない想い出だな。
オレ達を見に来てる客はいない中でのライヴ。後半になってようやく立ち上がって踊り出した女の子達がいたりして、満足気に「こんな事がずっと続いていくんだな…」なんて思ったのもつかのま。
何ヶ月かで歯車が狂い出していく。
社長のIさんから、ギターリストを変えろと指示が出された。
ギターリストとしてのテクニック的な事よりも、オレの作詞レッスン同様の作曲レッスンを課していたのに、ちっとも顔を出さないからやる気が感じられない…そんな理由だったと思う。
前年あたりまでは衣装や音楽に口を出されただけで嫌がってたオレが、この指示に関して悩んだのは、すでにIさんやKさんが特別な存在になっていたからだと思う。
このスタッフで、この事務所から大きくなっていきたい…そんな気持ちだった。
メンバーの中で唯一年上だったドラマーに相談すると、彼は彼でこのチャンスに賭けている気持ちがあり、ギターリストは自分が見つけてくるから、事務所の意向に沿っていこうという結論になった。
これはこれでしょうがない決断だったのかもしればい。が、最大のミステイクは…オレがギターリストに対して、メンバーチェンジの意向を言い出せなかった事だ。
事務所はTAKE OFF7で新メンバーでのライヴを決め、新しいギターリストとのリハは新鮮で刺激的に進んでいるんだけど、結局メンバーチェンジを元のギターリストに言えないまま、後ろめたい気持ちで新生バンドはライヴを行ない、その場に偶然、元のメンバーが来てしまうというバツの悪い事態を迎えてしまう。
この経験はオレに、人間関係を悪くしたくないとズルズル逃げて行く事こそ、よっぽど人間関係を悪くするんだと教えてくれて、以降の人生においては言うべき事はきちんと言うように、また、言ってもらうように心がけるようになった。
とにもかくにも、新生でのライヴはかなりいい手応えで、事務所に戻ってみんなでカンパイし、ギターリストにひどい事をした罪の念と新生スタートの安堵感とIさんとKさんの喜んだ顔とで色んな感情が交ざりまくり、メチャクチャに酔って、その後に行ったラーメン屋で問題を起したはずだが…まぁそれは割愛しよう。
こんな葛藤を抱えながらメンバーチェンジをしたっていうのに、新しいギターリストは次のライヴを最後に抜けていってしまった。
同じ事務所の「F」のライヴを見に行き、年下のアイツらがオレ達よりも大きなハコで熱いライヴをやってるのに、一体何をやっているんだろう…事務所に言われるまま、昔からの友達だったメンバーを切ったのにこのザマかよ…なんて、事務所逆恨みまで始める始末。
今よりもずっとずっと、精神的に弱いオレであった。
新しいギターリストを探す気力もなく、事務所からも足が遠のいていたオレの仕事場に、Kさんがフラっと遊びに来てくれた。
近くのラーメン屋でラーメンをすすりながら、これからどうしていこうか、Kさんが親身になって話してくれたものの、心ここにあらずで聞いていたような気がする。
そんなオレに見切りをつかたのか、Kさんはしばらく連絡をよこさなくなった。
オレ達は…さすがにいつまでも意気消沈してもいられず、ギターリストのいないままリハを再開させ、翌年になってようやくメンバー募集の張り紙を見てやって来たギターリストを加入させ、再出発をする。
が!
楽曲もバンドのイメージも…なにもかも中途ハンパになってしまった。
オレがどうにも自信喪失気味で、ドラマーがリーダーシップを取りバンドのコンセプトを打ちたてていった。
オレは髪の毛を伸ばし、楽曲も思いっきりハードポップ(?)なモノを求められて、そのように作った。(こんな状態でも、曲は量産していた)
そこに、Iさんに見てもらいながら作っていった、社会風刺もチラリと入った物語的な詞をあてて…曲も詞もルックスも、もうメチャクチャ、思考錯誤だらけって感じである。
事務所に行かなくなったオレに、Iさんは完全に愛想をつかしたかもしれなかったが、この再出発ライヴをKさんは見に来てくれた。
………けど、ライヴ後、楽屋にも訪れずに帰ってしまった。
中途ハンパなバンドに、新しいギターリストは45分のライヴ中ずーっと緊張が解けず、身体は動かないは間違えるは、最悪な印象だっただろう。
もう完全に、何をどうしたらいいんだか、敗北気分のオレだったな。
このライヴ1本で、新しいギターリストはクビ。
ドラマーは、ベースをクビにしようと言い出す始末。
ベースとは、プライベートでも一緒に飲む友達であっただけに、もう友達と険悪になるのはたくさんで、ここでもオレは悩みに悩み…
結局、ドラマーと別れる事になってしまった。
またまたメンバー探しからスタート。
なんとかカタチだけは整えてライヴを行なったものの、ドラマーがかわるだけでバンドの音はペラペラになってしまい…一度狂った歯車はどうにもならんなってのを認識させられるだけで…すぐに活動休止。
ベースと二人で、続けていくかどうか話し合い、やっぱりこのまま引き下がるワケにはいかないと二人で燃えて、多少時間がかかっても実力のあるメンバーを見つけてくるぜ!とオレが豪語し……しかし、無情に時間だけが流れていった。
どのぐらい経ったのか、記憶が曖昧だけど、ある日オレの職場に一本の電話がかかってきた。
久しぶりのKさんだった。
Kさんが遊びに来てくれてた時の職場とは変わっていたのに、電話をかけてくるとは…よっぽど探してくれたんだろうな。
「下沢、元気でやってるか?実はな…『F』のリーダーだったギターヴォーカルが抜ける事になった。他のメンバーはお前とやりたいって言ってるんだ。
トリオだったバンドを4人編成にかえて、『新生F』としてアルバム作りに入りたいんだ。やってくれるよな?」
急な誘いに驚くと同時に、事務所はオレを忘れてはいなかったんだと、モーレツに嬉しくなった。
そして…何をやってもうまくいかなくなっていたバンドの現状、自分の年齢、メジャーで活動中のバンドに新メンバーとして迎えてもらえる好条件…。
やるよ!いや、やらせて下さい!
心から、そう言いたかった…。
だが、ベースと二人でやっていこうと誓った事。
もう、友達を裏切りたくない…そんな気持ちからか…オレはぶっきらぼうに「オレはやれませんよ。ベースのヤツと新メンバーを探しているところなんですよ。他を当たって下さい」と言ってしまったのだ。
しばらく考えさせて下さい…なんて言った日には、オレは「やらせて下さい」と言ったであろう。
自分でもわかっていたから、即答したのだ。
もう、後ろめたい思いはしたくない。それだけが頭にあった。
「そうか……。残念だな…。まぁしょうがないか。また飲もうぜ下沢!」
そんな会話で電話を切ったが、これがKさんとの最後になるな…と理解し、事実、そうなってしまった。
その時点では後悔はなかった。
が、ほんの数日して、近所の居酒屋で自分のバカ正直さを思い知らされる事件があった。
高校時代の友達が遊びに来たので、なんの気なしに飲みに繰り出した。
しばらく飲んでいるとそこに…ベースを抱えた、オレのバンドのベーシストが現れたのだ。
他には、ギターを抱えた男、スティックケースを持った男、手ブラな男…。
リハの帰りだというのはすぐにわかった。
「しまった!」という顔を浮かべ、別の席に着いたベーシストだったが、やはりそのままではいられなかったのかオレのテーブルに来て「すまない…オレもやっぱり、活動していたいんだよ。そんな時に誘われちゃって…」とあやまってきた。
オレはもう…何もかもバカらしくなって、怒る気も起きなかった。
オレだって、バンドの人事で人を傷つけてきたじゃないか。自分が人にやってきた仕打ちは自分に返ってくるもんだ…。
ただ、こんなオレを探して電話をくれたKさんに、悪態をつくような態度で誘いを断った事だけが、モーレツな後悔として頭をグルグル回り……。
オレは歌う事をやめてしまった。
ベーシストが加入したバンドのヴォーカルのヤツに愛用してきたマイクスタンドをあげるという、お人よしを最大限に発揮して…。
それから10年ぐらい、オレは過去の活動を封印して、あまり人にも話さなくなった。
本来なら青春時代のいい想い出のバンド活動は、オレにとっては苦すぎる事だらけだったからだ。
ロックから、歌から挫折した人間なんだっていう、敗北感もずーっと抱えてきた。
それでも音楽の魅力からは離れられず、歌からは距離を置いて、楽器を弾いたり曲を作ったりしながら、楽しみながらバカなバンド活動を続けて…過去の自分にケリをつけなくては…という気持ちを持てるまで、10年もかかってしまった。
テリー&スラングで歌い、昔とは比較できないほど心臓にまで剛毛が生え、強い自分も弱い自分もしっかり認識できるようになったここ1~2年。
やけにKさんの事を思い出す事が多くなった。
今のオレのライヴを見てどう思うんだろう?
笑いながら、クルっとターンしてるオレを見たら「丸くなったなぁ」って思うんだろうか。
何もかもがいっぱいいっぱいだったあの頃のオレを笑いながら、成長したオレを見てもらいたいな。
心底、そう思っていた。
今日、仕事の調べモノでネットを見ていたら、偶然にもKさんがマネージャーだった「S」のヴォーカルギターだったKKさんのサイトがある事を知った。
高校時代からの親友だっただけに、もしかしたらKさんの近況がわかるかな…。
いや、BBSに書き込みがあったりして…。連絡が取れるかもしれないな…。
そんな事を思って、KKさんのサイトを見てみた。
確かに、Kさんの事はアチコチに書かれていた…が。
Kさん、亡くなっていた。それももう、何年も前に。
なんてこったよ!
もう会えないじゃないか!
あんな、イヤな感じで電話で決別する事になった詫びも、永遠に言えないじゃないか!!
すごくショックだったよ。
お世話になった人なのに、死んだ事さえ知らないでいたとは…。
「下沢ぁ!アンチ尾崎で行こうぜ!」
尾崎的世界がキライだと言ったオレに合わせてくれたのか、よくこう言ってくれたKさんの声と笑顔はハッキリ覚えている。
Kさん、あの頃は本当に、色々と親身になってくれてありがとう!
いつか必ず、謝らせて下さいね!
そんな風に思う人って、誰にでも何人かはいるよね。
あれは1987年の暮れだった。
当時のバンドは、この年の夏頃にオレ以外の全メンバーをチェンジし、「このメンツなら最高だ!」と自負し、拠点にしていた吉祥寺のライヴハウスで精力的に活動していた。
年末、最後のライヴも熱い内容で終え楽屋に引っ込んだオレのところに、一人の男がかけこんできた。
これでもかってほどの笑顔を浮かべ、「かっこよかったよ!」と興奮気味にオレに名刺を差し出した男。
当時、脅威の高校生バンドという触れ込みで、少々話題になっていたバンド「F」の事務所の人であった。
「もっと、大きなところでやっていく気はないの?」と聞かれ、オレは「いい加減、こんな小さいところでやるのは飽き飽きなんスよ!」とぶっきらぼうに言い放った。
いやいや、若気のいたりというか、今だったら初対面の人には平身低頭、「こんなところまで来て頂いてドーモドーモ…、まっ、ジャスミン茶でも一杯…」と言うような場面だが、当時はフラストレーションの固まりで、ストレートな態度を……。
と、ここまで書いてて思い出した。あのライヴのアンコールの最後の方で、あまりに盛り上がってるライヴにジェラシーを感じたのか、対バンのヤツが歌ってるオレに火のついたタバコを投げてきて、オレは怒ったまま曲のエンディングを待たずに楽屋に戻り、カッカしてた矢先の見知らぬ客の訪問だったのだ。
そんなテンションのまま会話をしたので、かなり感じ悪かったはず。
しかし、何が幸いするのかわからない。楽屋にたずねてきたKさんは、そんなオレの態度を気に入ったらしく、その後あらためて会う事になった。
年があけ、青山で待ち合わせ。
モリハナエビルの1階の喫茶店で、オレとKさんとでじっくり話し合った。
実は、年末のライヴにはもっと大きな会社のディレクターも来てくれてたんだけど、オレとしてはライヴ直後に楽屋に飛びこんできたKさんの心意気の方にひかれるモノがあった。
オレが何をやっていきたいのかを聞いてもらい、彼の方がどんなプランを持っているのか…具体的に何枚もの用紙にまとめられたモノを見せてもらった。
こういう時に問題になるのが音楽的な事なんだけど、今のまま、スケールアップしていけばいいという話だった。
オレは87年初頭に、Aという会社から「87年デビュー・ラッキースター」という恥ずかしいキャッチフレーズでCDを出したんだけど、これがなんとも…演歌系の某レコード会社が流通を担当するメジャー盤って話だったわりに、近所のレコード屋の店頭に並んでるのさえ見た事がないような妙な話で…。
その前年には、某事務所の人と何度か打ち合わせをしたものの、衣装を可愛くしろとか曲を変えろとか言われてイヤになって決裂した事があり、「おいしい話でも簡単にはとびつくな」と自分に言い聞かせていた。
そんな中でも、Kさんの話は納得できるもので、なによりハイテンションな彼の人柄にやられたというか、一緒に何かを創っていけたらな…と考え、お世話になる事を決めたのだった。
Kさんは、オレの世代だったら誰でも知っているバンド「S」のマネージャーだった人で、「S」とは高校時代からの親友で、アマチュア時代からマネージャー的な役割を担っていて、「S」のデビューと共にそのまま業界に入ったとの事だった。
「S」が、いかにメチャクチャな連中だったかってのを面白おかしくオレに聞かせてくれる事も多々あり、初対面のオレの悪びれた態度に好感触(?)を抱いてくれたのも、少し前に解散してしまった「S」への思いが断ち切れず、後釜を探していたのではなかろうか…なんて自分なりに分析したもんである。
さてさて、オレの事務所通いも本格的になり、週に一度、新しい詞を二つ作っては添削してもらい、その後は詞の先生(?)でもあり、「S」のプロデューサーだったのはもちろんの事、オレがガキの頃の国民的兄弟アイドルグループの産みの親でもあった事務所の代表のIさんが「Kちゃん、ビール買ってきてよ」と指令を出し、酒盛り…って事が多々あった。
Iさんはもっぱら、オレに音楽的な事を教えてくれて(おそらく当時はまだよく理解できていなかったオレだが)、Kさんは年が近かった事もあり、彼女の話とか、ワンフを食っちゃったらどうのこうの…とか、下らん話ができるアニキ的感覚だった。
バンドは、事務所主催のイベントで、吉祥寺を抜け出し渋谷TAKE OFF7でライヴ。
オレ達はトリで、MCを担当したKさんが冒頭から「最後にすごいバンドが出るぞ。今から追っかけてないと後悔するよ!」とかアオり続けたおかげか、満員の客が初めて耳にするオレ達の曲で拳を上げて波打つという異常な光景を目にし、幸先のいいスタートを切る。(ビデオとかを残していないのが残念!)
で、続いてKさんの決めたブッキングで初遠征。向かう先は大宮フリークス。
とにかく、関東近郊にファンを作っていこう、他のバンドのファンを奪っていこうって事で、デビューしたての新人バンドと対バンになるよう仕組んでくれた。
最近のライヴハウス事情を見ていると…残念ながら、お目当てのバンドの時間にライヴハウスに入り、終わると出ていくお客さんが多いけど、当時はロックが好きな子達がライヴハウスに集まり、1枚のチケットでなるべく多く見て帰ってやるって空気が漂っていて、他のバンドのファンを奪える可能性は今よりもずっと高かったのだ。
器材車にメンバー4人とKさんで大宮まで行く道中はまさに遠足気分。
車中で「ヒルビリーのヴォーカルが自殺したぞ」とKさんに聞かされたのも、切ない想い出だな。
オレ達を見に来てる客はいない中でのライヴ。後半になってようやく立ち上がって踊り出した女の子達がいたりして、満足気に「こんな事がずっと続いていくんだな…」なんて思ったのもつかのま。
何ヶ月かで歯車が狂い出していく。
社長のIさんから、ギターリストを変えろと指示が出された。
ギターリストとしてのテクニック的な事よりも、オレの作詞レッスン同様の作曲レッスンを課していたのに、ちっとも顔を出さないからやる気が感じられない…そんな理由だったと思う。
前年あたりまでは衣装や音楽に口を出されただけで嫌がってたオレが、この指示に関して悩んだのは、すでにIさんやKさんが特別な存在になっていたからだと思う。
このスタッフで、この事務所から大きくなっていきたい…そんな気持ちだった。
メンバーの中で唯一年上だったドラマーに相談すると、彼は彼でこのチャンスに賭けている気持ちがあり、ギターリストは自分が見つけてくるから、事務所の意向に沿っていこうという結論になった。
これはこれでしょうがない決断だったのかもしればい。が、最大のミステイクは…オレがギターリストに対して、メンバーチェンジの意向を言い出せなかった事だ。
事務所はTAKE OFF7で新メンバーでのライヴを決め、新しいギターリストとのリハは新鮮で刺激的に進んでいるんだけど、結局メンバーチェンジを元のギターリストに言えないまま、後ろめたい気持ちで新生バンドはライヴを行ない、その場に偶然、元のメンバーが来てしまうというバツの悪い事態を迎えてしまう。
この経験はオレに、人間関係を悪くしたくないとズルズル逃げて行く事こそ、よっぽど人間関係を悪くするんだと教えてくれて、以降の人生においては言うべき事はきちんと言うように、また、言ってもらうように心がけるようになった。
とにもかくにも、新生でのライヴはかなりいい手応えで、事務所に戻ってみんなでカンパイし、ギターリストにひどい事をした罪の念と新生スタートの安堵感とIさんとKさんの喜んだ顔とで色んな感情が交ざりまくり、メチャクチャに酔って、その後に行ったラーメン屋で問題を起したはずだが…まぁそれは割愛しよう。
こんな葛藤を抱えながらメンバーチェンジをしたっていうのに、新しいギターリストは次のライヴを最後に抜けていってしまった。
同じ事務所の「F」のライヴを見に行き、年下のアイツらがオレ達よりも大きなハコで熱いライヴをやってるのに、一体何をやっているんだろう…事務所に言われるまま、昔からの友達だったメンバーを切ったのにこのザマかよ…なんて、事務所逆恨みまで始める始末。
今よりもずっとずっと、精神的に弱いオレであった。
新しいギターリストを探す気力もなく、事務所からも足が遠のいていたオレの仕事場に、Kさんがフラっと遊びに来てくれた。
近くのラーメン屋でラーメンをすすりながら、これからどうしていこうか、Kさんが親身になって話してくれたものの、心ここにあらずで聞いていたような気がする。
そんなオレに見切りをつかたのか、Kさんはしばらく連絡をよこさなくなった。
オレ達は…さすがにいつまでも意気消沈してもいられず、ギターリストのいないままリハを再開させ、翌年になってようやくメンバー募集の張り紙を見てやって来たギターリストを加入させ、再出発をする。
が!
楽曲もバンドのイメージも…なにもかも中途ハンパになってしまった。
オレがどうにも自信喪失気味で、ドラマーがリーダーシップを取りバンドのコンセプトを打ちたてていった。
オレは髪の毛を伸ばし、楽曲も思いっきりハードポップ(?)なモノを求められて、そのように作った。(こんな状態でも、曲は量産していた)
そこに、Iさんに見てもらいながら作っていった、社会風刺もチラリと入った物語的な詞をあてて…曲も詞もルックスも、もうメチャクチャ、思考錯誤だらけって感じである。
事務所に行かなくなったオレに、Iさんは完全に愛想をつかしたかもしれなかったが、この再出発ライヴをKさんは見に来てくれた。
………けど、ライヴ後、楽屋にも訪れずに帰ってしまった。
中途ハンパなバンドに、新しいギターリストは45分のライヴ中ずーっと緊張が解けず、身体は動かないは間違えるは、最悪な印象だっただろう。
もう完全に、何をどうしたらいいんだか、敗北気分のオレだったな。
このライヴ1本で、新しいギターリストはクビ。
ドラマーは、ベースをクビにしようと言い出す始末。
ベースとは、プライベートでも一緒に飲む友達であっただけに、もう友達と険悪になるのはたくさんで、ここでもオレは悩みに悩み…
結局、ドラマーと別れる事になってしまった。
またまたメンバー探しからスタート。
なんとかカタチだけは整えてライヴを行なったものの、ドラマーがかわるだけでバンドの音はペラペラになってしまい…一度狂った歯車はどうにもならんなってのを認識させられるだけで…すぐに活動休止。
ベースと二人で、続けていくかどうか話し合い、やっぱりこのまま引き下がるワケにはいかないと二人で燃えて、多少時間がかかっても実力のあるメンバーを見つけてくるぜ!とオレが豪語し……しかし、無情に時間だけが流れていった。
どのぐらい経ったのか、記憶が曖昧だけど、ある日オレの職場に一本の電話がかかってきた。
久しぶりのKさんだった。
Kさんが遊びに来てくれてた時の職場とは変わっていたのに、電話をかけてくるとは…よっぽど探してくれたんだろうな。
「下沢、元気でやってるか?実はな…『F』のリーダーだったギターヴォーカルが抜ける事になった。他のメンバーはお前とやりたいって言ってるんだ。
トリオだったバンドを4人編成にかえて、『新生F』としてアルバム作りに入りたいんだ。やってくれるよな?」
急な誘いに驚くと同時に、事務所はオレを忘れてはいなかったんだと、モーレツに嬉しくなった。
そして…何をやってもうまくいかなくなっていたバンドの現状、自分の年齢、メジャーで活動中のバンドに新メンバーとして迎えてもらえる好条件…。
やるよ!いや、やらせて下さい!
心から、そう言いたかった…。
だが、ベースと二人でやっていこうと誓った事。
もう、友達を裏切りたくない…そんな気持ちからか…オレはぶっきらぼうに「オレはやれませんよ。ベースのヤツと新メンバーを探しているところなんですよ。他を当たって下さい」と言ってしまったのだ。
しばらく考えさせて下さい…なんて言った日には、オレは「やらせて下さい」と言ったであろう。
自分でもわかっていたから、即答したのだ。
もう、後ろめたい思いはしたくない。それだけが頭にあった。
「そうか……。残念だな…。まぁしょうがないか。また飲もうぜ下沢!」
そんな会話で電話を切ったが、これがKさんとの最後になるな…と理解し、事実、そうなってしまった。
その時点では後悔はなかった。
が、ほんの数日して、近所の居酒屋で自分のバカ正直さを思い知らされる事件があった。
高校時代の友達が遊びに来たので、なんの気なしに飲みに繰り出した。
しばらく飲んでいるとそこに…ベースを抱えた、オレのバンドのベーシストが現れたのだ。
他には、ギターを抱えた男、スティックケースを持った男、手ブラな男…。
リハの帰りだというのはすぐにわかった。
「しまった!」という顔を浮かべ、別の席に着いたベーシストだったが、やはりそのままではいられなかったのかオレのテーブルに来て「すまない…オレもやっぱり、活動していたいんだよ。そんな時に誘われちゃって…」とあやまってきた。
オレはもう…何もかもバカらしくなって、怒る気も起きなかった。
オレだって、バンドの人事で人を傷つけてきたじゃないか。自分が人にやってきた仕打ちは自分に返ってくるもんだ…。
ただ、こんなオレを探して電話をくれたKさんに、悪態をつくような態度で誘いを断った事だけが、モーレツな後悔として頭をグルグル回り……。
オレは歌う事をやめてしまった。
ベーシストが加入したバンドのヴォーカルのヤツに愛用してきたマイクスタンドをあげるという、お人よしを最大限に発揮して…。
それから10年ぐらい、オレは過去の活動を封印して、あまり人にも話さなくなった。
本来なら青春時代のいい想い出のバンド活動は、オレにとっては苦すぎる事だらけだったからだ。
ロックから、歌から挫折した人間なんだっていう、敗北感もずーっと抱えてきた。
それでも音楽の魅力からは離れられず、歌からは距離を置いて、楽器を弾いたり曲を作ったりしながら、楽しみながらバカなバンド活動を続けて…過去の自分にケリをつけなくては…という気持ちを持てるまで、10年もかかってしまった。
テリー&スラングで歌い、昔とは比較できないほど心臓にまで剛毛が生え、強い自分も弱い自分もしっかり認識できるようになったここ1~2年。
やけにKさんの事を思い出す事が多くなった。
今のオレのライヴを見てどう思うんだろう?
笑いながら、クルっとターンしてるオレを見たら「丸くなったなぁ」って思うんだろうか。
何もかもがいっぱいいっぱいだったあの頃のオレを笑いながら、成長したオレを見てもらいたいな。
心底、そう思っていた。
今日、仕事の調べモノでネットを見ていたら、偶然にもKさんがマネージャーだった「S」のヴォーカルギターだったKKさんのサイトがある事を知った。
高校時代からの親友だっただけに、もしかしたらKさんの近況がわかるかな…。
いや、BBSに書き込みがあったりして…。連絡が取れるかもしれないな…。
そんな事を思って、KKさんのサイトを見てみた。
確かに、Kさんの事はアチコチに書かれていた…が。
Kさん、亡くなっていた。それももう、何年も前に。
なんてこったよ!
もう会えないじゃないか!
あんな、イヤな感じで電話で決別する事になった詫びも、永遠に言えないじゃないか!!
すごくショックだったよ。
お世話になった人なのに、死んだ事さえ知らないでいたとは…。
「下沢ぁ!アンチ尾崎で行こうぜ!」
尾崎的世界がキライだと言ったオレに合わせてくれたのか、よくこう言ってくれたKさんの声と笑顔はハッキリ覚えている。
Kさん、あの頃は本当に、色々と親身になってくれてありがとう!
いつか必ず、謝らせて下さいね!