じいさんが死んでしまった。
俺は自分のことばっかりいつも考えてるな。
当たり前だけど、死んだ人にはもう何も出来ないんだね。本当に何も出来ないんだね。
交わした会話は頭に残ってるし、声も耳に残ってるし、体はただ眠ってるようにも見えるから
普通によろよろしながらトイレに起きだしたり、ご飯食べに来たりしそうな雰囲気だけど。
身の回りの人がもし死んでしまったら、と、想像してみよう。
今、むかついてたり、嫌いな人でも。
本気で、「その人が死んだら」想像する。
明日死ぬからとか、まだ死なないからとかそういう問題じゃないけど。
その人が生きてるなら、生きている今この瞬間が本物。未来も過去も関係ない。生きてる今この瞬間が無条件に大切だけど。
じいさんは足に力が入らず上手に歩くことができなくなってて、週に何日かデイサービスにお世話になっていました。
上手く歩けないから時々家の中で転んでた。最近ちょっと転ぶ回数が多くなってた。でも、俺は、大丈夫だろうと思ってた。
「大丈夫じゃない」って思ったら、面倒だから「大丈夫」って思うことにしてただけだ。
今朝、母さんが、倒れて意識なくなってるのを見つけて、病院に運ばれたけどそのままもう意識戻らなかった。
じいさんの部屋から、デイサービスのセンターで作ったらしい工作や、塗り絵や、ひな人形が出て来て。
じいさんの誕生日に、撮ってもらった写真が出て来て。静かな笑顔でした。
俺は、その日に何をしてたか、まったく覚えてない。
じいさんはどんな気持ちで、塗り絵をしていたか。
どんな気持ちで家族のいない誕生日をデイサービスセンターで過ごしたか。
小便を便器からはみ出してトイレ汚したり、うんこを漏らしてズボン汚して怒られたりしてどんな気持ちだったか。
孫につらく当たられて、きついこと言われてどんな気持ちだったか。
じいさんはマイペースだ。
夜中に何度も起きだして、鍋に箸突っ込んで直接つまみぐいしてたり、トイレ汚しちゃったりするから、いろいろお願いするんだけど、なかなか聞いてくれない。
でも、こっちは、色んなことじいさんに言い過ぎだ、そんなにいっぱい言われたらもうどうしていいかわかんないよ。
体がどんだけ不自由なのかとか、頭がどんだけ回転してるのかとか、そんなこと想像もしないで、聞きだしもしないで、ただ、こっちの都合ばかりおしつけてた。わかってても、本人を前にすると、辛く当たってしまう。
俺は、本当に冷たかったよ。そういうのは言葉で言わなくてもきっと伝わっちゃうんだろうな。。。って思ってたけど、本人前にするとイライラしてしまったよ。
「死んじまえ」頭の中でつぶやいたりしました。ごめんなさい。
じいさんは、だれにきついことを言われても、ほとんど、怒り返すことはなかった。
穏やかに返事をしていた。
なんかしてもらったら「ありがとう」って言ってた。都合の悪いことは、聞かないふりされたりもしたけど^
じいさんは最後の数日、元気も食欲もなくなってしまいました。それまでもほとんど寝たきりだったけど、食欲だけは、いっぱいだったのに。
「食欲ない」「満腹だ」 そんなこと言ったことなかったのに。
足に力が全然入らなくて、上手く歩けなくて「もう駄目だよ」なんて、言ってました。笑ってたけど。
「もう生きたくない。死にたいよ。妻が迎えにこない」なんて言ってたことを後でききました。
そんなことを感じさせてしまった。
「生きたくない」なんて思ったら、体は反応してしまうんだよ。
「病は気から」は本当。理屈はわからなくても、とりあえず事実は受け入れる必要がある。
じいさんは俺が小さい時にオセロや将棋をやるとわざと負けてくれました。俺はわざと負けてくれてるのがわかったから、逆に気を使ったりしたけど、気持ちよく笑顔で勝ってしまえばよかった?
じいさんは、孫に連れ回されて京都の清水の坂、ひいひい登ったり、天橋立でリフトにのって山登ったりした時、どんなこと感じてたろうか。
じいさんは、俺が大学入試で合格したときに「上手いな」と言っていました。俺は、「変な言い方」って思ってたけど、じいさんは嬉しそうだった。
もう今は、楽になったというか、もう、なにも感じるもなにも、消えてしまったんだろうと思ってるけど
でも、寂しかったり、辛かったり、怖かったり、退屈だったりしたその瞬間を、じいさんが感じていたその感じがなかったことにはならない、と思ってしまう。
気持ちの問題だけど。
これは、俺の勝手な後悔。後に残ったものの身勝手だけど。
俺は、でも、じいさんが今生き返っても、また辛く当たってしまう。。。
じゃなくて、もうそういうのはやめよう。
繰り返さない。
他人を傷つけたり、いらだたせたりするような本物の悪意なんてない。
みんな、自分が欲しいものが欲しいだけだ。
自分を被害者にしないで、相手も幸せになりたい人、なるべき人なんだって思ったら、ちょっと楽になる。
ありがたいことに、父も母も生きています。
誰かに幸せになってほしいのなら、自分の体裁など気にしないこと。
優しくする覚悟をする。鬱陶しがられるかもしれない覚悟をする。でも、身勝手な押しつけは駄目だね。
今出来ることは、今出来ることだけ。
俺は自分のことばっかりいつも考えてるな。
当たり前だけど、死んだ人にはもう何も出来ないんだね。本当に何も出来ないんだね。
交わした会話は頭に残ってるし、声も耳に残ってるし、体はただ眠ってるようにも見えるから
普通によろよろしながらトイレに起きだしたり、ご飯食べに来たりしそうな雰囲気だけど。
身の回りの人がもし死んでしまったら、と、想像してみよう。
今、むかついてたり、嫌いな人でも。
本気で、「その人が死んだら」想像する。
明日死ぬからとか、まだ死なないからとかそういう問題じゃないけど。
その人が生きてるなら、生きている今この瞬間が本物。未来も過去も関係ない。生きてる今この瞬間が無条件に大切だけど。
じいさんは足に力が入らず上手に歩くことができなくなってて、週に何日かデイサービスにお世話になっていました。
上手く歩けないから時々家の中で転んでた。最近ちょっと転ぶ回数が多くなってた。でも、俺は、大丈夫だろうと思ってた。
「大丈夫じゃない」って思ったら、面倒だから「大丈夫」って思うことにしてただけだ。
今朝、母さんが、倒れて意識なくなってるのを見つけて、病院に運ばれたけどそのままもう意識戻らなかった。
じいさんの部屋から、デイサービスのセンターで作ったらしい工作や、塗り絵や、ひな人形が出て来て。
じいさんの誕生日に、撮ってもらった写真が出て来て。静かな笑顔でした。
俺は、その日に何をしてたか、まったく覚えてない。
じいさんはどんな気持ちで、塗り絵をしていたか。
どんな気持ちで家族のいない誕生日をデイサービスセンターで過ごしたか。
小便を便器からはみ出してトイレ汚したり、うんこを漏らしてズボン汚して怒られたりしてどんな気持ちだったか。
孫につらく当たられて、きついこと言われてどんな気持ちだったか。
じいさんはマイペースだ。
夜中に何度も起きだして、鍋に箸突っ込んで直接つまみぐいしてたり、トイレ汚しちゃったりするから、いろいろお願いするんだけど、なかなか聞いてくれない。
でも、こっちは、色んなことじいさんに言い過ぎだ、そんなにいっぱい言われたらもうどうしていいかわかんないよ。
体がどんだけ不自由なのかとか、頭がどんだけ回転してるのかとか、そんなこと想像もしないで、聞きだしもしないで、ただ、こっちの都合ばかりおしつけてた。わかってても、本人を前にすると、辛く当たってしまう。
俺は、本当に冷たかったよ。そういうのは言葉で言わなくてもきっと伝わっちゃうんだろうな。。。って思ってたけど、本人前にするとイライラしてしまったよ。
「死んじまえ」頭の中でつぶやいたりしました。ごめんなさい。
じいさんは、だれにきついことを言われても、ほとんど、怒り返すことはなかった。
穏やかに返事をしていた。
なんかしてもらったら「ありがとう」って言ってた。都合の悪いことは、聞かないふりされたりもしたけど^
じいさんは最後の数日、元気も食欲もなくなってしまいました。それまでもほとんど寝たきりだったけど、食欲だけは、いっぱいだったのに。
「食欲ない」「満腹だ」 そんなこと言ったことなかったのに。
足に力が全然入らなくて、上手く歩けなくて「もう駄目だよ」なんて、言ってました。笑ってたけど。
「もう生きたくない。死にたいよ。妻が迎えにこない」なんて言ってたことを後でききました。
そんなことを感じさせてしまった。
「生きたくない」なんて思ったら、体は反応してしまうんだよ。
「病は気から」は本当。理屈はわからなくても、とりあえず事実は受け入れる必要がある。
じいさんは俺が小さい時にオセロや将棋をやるとわざと負けてくれました。俺はわざと負けてくれてるのがわかったから、逆に気を使ったりしたけど、気持ちよく笑顔で勝ってしまえばよかった?
じいさんは、孫に連れ回されて京都の清水の坂、ひいひい登ったり、天橋立でリフトにのって山登ったりした時、どんなこと感じてたろうか。
じいさんは、俺が大学入試で合格したときに「上手いな」と言っていました。俺は、「変な言い方」って思ってたけど、じいさんは嬉しそうだった。
もう今は、楽になったというか、もう、なにも感じるもなにも、消えてしまったんだろうと思ってるけど
でも、寂しかったり、辛かったり、怖かったり、退屈だったりしたその瞬間を、じいさんが感じていたその感じがなかったことにはならない、と思ってしまう。
気持ちの問題だけど。
これは、俺の勝手な後悔。後に残ったものの身勝手だけど。
俺は、でも、じいさんが今生き返っても、また辛く当たってしまう。。。
じゃなくて、もうそういうのはやめよう。
繰り返さない。
他人を傷つけたり、いらだたせたりするような本物の悪意なんてない。
みんな、自分が欲しいものが欲しいだけだ。
自分を被害者にしないで、相手も幸せになりたい人、なるべき人なんだって思ったら、ちょっと楽になる。
ありがたいことに、父も母も生きています。
誰かに幸せになってほしいのなら、自分の体裁など気にしないこと。
優しくする覚悟をする。鬱陶しがられるかもしれない覚悟をする。でも、身勝手な押しつけは駄目だね。
今出来ることは、今出来ることだけ。