"bokuttenani - ぼくってなに" هيا بنا إلى الاحلامات

"判断留保"
“僕らしくなくても僕は僕なんだ 君らしくなくても君は君なんだ” 【ハイロウズのNo.1】

内と外

2020-06-29 17:17:48 | mundus - world - 世界
海で泳いだり
山を歩いたり
森の中で寝泊りしたり
畑で土にまみれたり

そんなことをしてると
いろんな境界がだんだんどうでも良くなってくる
どうでも良くならなきゃ、やってられないだけかも知れないが。

内と外
綺麗と汚い
人間とその他の生き物たち


汚れを家の中に入れてはいけない?
虫や土や蛇やムカデが家の中に入らないように?

なんでそんなに恐れるようになったのか
恐れることが生存につながることもある
だけどそんなに恐れなくても良いこともある

テレビ番組とかCMとかは
物が売れれば良いと思ってるのかな?
民が幸せになるためには思えないよな
過剰に菌や虫に対する恐怖を抱かせて
悪者を作り上げて
購入意欲を刺激してる

政府だって、
国民が幸せになることを望んでるようには全然見えないよな
生かさず殺さず、
国家が「安定」した状態で運営できればそれでいいんだろう?
自分たちだけは安全なところにいて?
なんて思っちゃうのはひねくれてる?

だからやっぱり
国に頼らないで
お金に頼らないで
生きていきたいなー




教育や社会について:均質さ、複雑さ、多様、シンプルさと幸せな生活

2020-06-15 18:36:33 | societas - 社会
障害児教育に限らず一般の教育も含めて、平等・均質なものではなくて、個人の能力・適性・気質・希望などが反映されるものであれば良いと思います(よりコストがかかるかも知れませんが)。全ての人間が同じような能力を習得する必要はなく、社会の成員が個性を活かしあって助け合う状態になれば良いと思います。それでも全ての人が習得すべき生活にまつわるスキルもあるとは思います。ヨルダンでは生徒の能力・気質に応じて伝統芸能や作業の時間には、教員が活動に参加させる生徒を選別することが頻繁にありました。参加しない生徒の能力に応じた別の活動の割り当てがあればそれも良いかと感じます(ヨルダンではそれは全くありませんでしたが)。

私は特別支援教育も、教員課程も履修しておらず、派遣前に特別支援学校で2週間見学研修をし、学習指導要領も初めて読みました。感じたことは、カリキュラムも指導要領も量がとても多いこと、複雑であることです。それをこなせる人が教員になれば良いだけかもしれませんが、私は教育がこれほど複雑であることに疑問を感じます。それは、生徒が今ある社会に適応するため、または多様な職業の選択を可能にするためには必要なものかもしれませんが、日本は公平・均質化を求める傾向が強く感じます。しかし例えば最初から農村などでのシンプルな時給生活を視野に入れて、屋外での作業や実生活直結する技術に極端に比重を置いたカリキュラムの中で、コミュニケーション・道徳・思考力などの能力を磨く、という、教育の選択肢も、もっとあって良いかと思います(シンプルさを求めるのは単純に私の好みとキャパシティの問題かもしれません)。

今日のグループセッションで別の隊員が「日本に比べて配属先の施設の生徒は落ち着いている。それは興味の対象になるモノが少ないからではないか」と言っていました。モノに限らず、情報・選択肢など日本の社会では多すぎて弊害の方が多いと感じます(衣食住が足りてそれに満足できるならば人間が幸せに平和に生活するためには十分と自分は考えています)。社会の物質・情報・選択肢の過剰さ複雑さは学校での教育内容にも反映されているので、そんな日本のモデルを抱いてをアフリカや中東などの緩やかな(?)暮らしに拡めようとするのは方向が違う気がします。実際にヨルダンでは、学習などの自己投資に時間を費やすことは日本と比べて極端に少ない印象で、逆に、食事・休憩時間・余暇の楽しみには手間と時間をたっぷりかけます。それで皆幸せそうです。人生を楽しむために必要なものはそんなにたくさんないのではないでしょうか。

38歳の自分が経験した小・中・高校での教育をもとにして書いたので、現状はもっと違うかもしれません。

【言葉と共感】

2020-06-08 20:19:08 | homo - 人間
人間ってどうも自分と同じ言語を話す相手に対しては
自分と同じ世界観や主観を持ってい者として共感し尊重できるけど、
自分と異なる言語を話すものやそもそも言語を話さないものに対しては
共感・尊重できない(し辛い)ようになってる気がする

今まで言葉を何も発しなかった自閉症児がある日、突然流暢にコミュニケーションを取れるようになったら、周りの人々は今までよりも多分ずっとずっとその子のことを尊重する。今までだって、その子の気持ちを想像しようとか理解しようとか努力してきたかもしれないけど、答えを確かめられないものっって、どこまで考えればいいのかわからない。言葉を話しても話さなくても、大人は子供を、強者は弱者を抑圧するけど、支配するけど。

話さない者たちの心や意思や感覚や主観は無視されがち

割といつも自分のことだけで精一杯
だから
他人の感性なんて
他者の主観なんて
そんなものわからない方が楽だろう

動物たちがもしも人間と同じ言葉を話したとしたら、動物実験とか家畜とかペットとか、そういうものもしかしたらはなくなるかな。
なくなんないかな。

言葉を話し合う人間同士でも虐待あるな


鯨の代弁をしてくれる人(代弁しようとしてくれる人、だって確かめられないもの。同じ言語を話す人間同士だって誤解だらけ、思い込みだらけ)
犬の代弁をしてくれる人
蚊やゴキブリの代弁をしてくれる人はいますか?
コモドドラゴンやムカデやなめくじの代弁をしてくれる人はいますか?

今ここで感じていることが私の感じていることの全て

明日のことは
明日のわたしは、もうそれはわたしのことではないし
明日の彼も、明日の彼女もそれもわたしのことではないし
どうせどれもわたしのことではないんだから
「明日のわたし」なんてそんなどこにもない者のことばかり心配するのはやめて
全部対等、等価
今のわたしは今で終わり
わたしは今で終わり
後は、みんな、等価

【最近のこと】ヨルダンで一年半、帰国して3ヶ月

2020-06-08 20:07:24 | societas - 社会
最近のことを報告しようと思ったら、愚痴になってしまいましたごめんなさいあんまりごめんて思ってない。

人間の社会に疲れました 笑
具体的に言うと以下のようなものに疲れた。
これらについて考え過ぎてしまうことに疲れた。

言葉、意味、役割、目的、目標、意義、「人生論」的なもの、権利や責任、
社会、公共の利益、価値観、道徳、・・・・・などなど

JICAボランティアとしてヨルダンの特別教育センター(障害児の支援施設)で活動して1年半、日本に帰ってきてから3ヶ月。

ヨルダンにては、自分たちの信仰の正しさを強く主張し、他の宗教や価値観を否定したり見下したりする(そのように俺には見えた)人々とどのようと付き合っていくか、「多様性を認め合う」をかかげる自分としてどれほどそこで寛容に?なれるのか、どうあるべきか。。。。とか考え過ぎて

また、「障害者」と呼ばれる人々がどのように生きていくのが幸せか、社会とどのように関わっていくべきか・・・・とか考え過ぎて

教育・学習という名のもとに各人がいろんな知識を詰め込み、数々の「ペーパーテスト!」を乗り越えて、「立派な肩書き!!」という名誉を手に入れて名誉に溺れている。表象に溺れる人々は表象に溺れている。自分もそう。

ラベル・名札に溺れている。コーラを欲して買う人は、その「飲み心地」「飲む体験んそのもの」を欲していることもあれば、あのコーラのパッケージや名札、「コーラ」というシンボルを欲していることもある。

「エンジニア」「会計士」「先生」それらはただの言葉で、現実には一人一人の人間がいる、行いがある。嘔吐する生徒や失禁する生徒を汚がって近づかない、それの何が先生か?というのは俺の価値観を正しさを押し付けてるだけなんだろう。

人間は今まで学んできたこと覚えてきた知識を総動員して、感じる世界を切り刻んで型にはめて思考を止めて、片付けてるだけなのか。

日本に帰ってきてからは、「除菌・殺菌」という極限対症療法を愚かだと思いながらも、そうは言っても、それが必要な時もある(それは本当に命が危ない時)、でも今ってそうなの?・・・・そもそも「人間が世界の中心」「人間が世界の視点」みたいな言説の数々に辟易し


今日、海を眺めていた時に、
波はあっちからもこっちからも力を伝える
お互いに合わさったり離れたりしつつも
自分自身を保ちながらまた進んでいく
混じり合ってしまわずに
それぞれの波は一つずつ進んでいる、よく見ると
全体的にぼーっと見ると網の目みたいに支離滅裂に見えて
潮の流れは速いところもあれば、ゆるやかに たゆたう ような所もある。
こんなに複雑に絡み合った中で、
何かを見つけようとしたり、何かを解きほぐそうとしたり、
渦の真ん中で溺れそうになってる何かを掬い出そうとしたり・・・・・

落ち着いて一つずつ取り組めば、
一つの波が独立しているように

でもまー、
めんどくさくなっってしまった
考えるの疲れる

シンプルが一番
複雑な現状はさておき
シンプルなゴールがイメージできたなら
そっちに向かって動けば良い
複雑な現状を基準にして考えるより
シンプルなゴールを基準にして考えた方が良い


食べる眠る、後まあちょっと
そんだけ

【命の重みとか、迷惑とか、の話】

2020-06-05 20:47:25 | homo - 人間
Tシャツとジーンズで富士山に登ろうとする青年がいると、周りの大人たちは「遭難したらどうするんだ!?」「迷惑だからやめなさい」とかって言う。

だけどその様にして、止めることは、その青年にとってまさに迷惑じゃないのかな。

命の重み、というのは、同じではない。
国や地域によっても違う(自然環境、労働環境などが変われば、失命リスクも変わる)し、
個人個人違うはずだ。
「死なないように生きる」ことと、「好きなことをやって生きること」その
折り合いの付け方は人それぞれ、のはずだけど、
日本では、「死なないことを最優先にする」命の重さを全員が強要されてるみたい。
命に限らず、行動倫理とか、公共の利益とか、大事なのは間違いないが、
なんだろう、「みんな同じ」に振る舞うこと、「他人に迷惑をかけないこと」、
そのようなことが異様に大事にされている。
それは、「自由!」な人にとっては、それこそが大迷惑な話、だ。
でも、出る杭を打つのが、日本の社会?
それで、今までうまくやってきた?

事なかれ