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“僕らしくなくても僕は僕なんだ 君らしくなくても君は君なんだ” 【ハイロウズのNo.1】

【小説の翻訳】『ハイファに戻って』ガッサーン・カナファーニー 1/10ぐらい

2019-06-26 17:16:36 | homo - 人間
後ほど、また、整理して修正しようと思います




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視線の先に武装した兵士達が立っている
遠くから爆発音が聞こえる
銃声が続く
ハンドルが手の中で震える

通りを渡る少年を見かけた時に
恐ろしい過去が声や物音と共に蘇る
20年前に起こったことが今、初めて、詳細に思い出される
今また、その時を生き直しているかのように

1948年 4月21日 水曜日の朝

ハイファでは特別な事件はなく
しかし、神秘的な緊張に支配されていた

Ahead his car standing armed soldiers
Comes sound of the explosion from far away
After comes the gunshots
And here comes the past in every detail
For the first time in this 20 years
As if he is living that time again now
Of the 20 years ago

Morning, Wednesday, 21st, April, 1948

Yet not was involved in something remarkable
Although was it under some kind of strange tension
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Google翻訳に頼りました。
この作品は大昔に、ラジオドラマで初めて聞きました(NHK FMシアター)。パレスチナが、イスラエルがどこにあるのかも、国名であることも知らなかった頃に。かなりの衝撃を受けた物語でした。。衝撃というか、なんだろう、なんだろう、なんとも言えないので言わない方がいいみたいです。パレスチナ人の夫婦がハイファに戻って色んな物事と直面する話です(ごめんなさい。。。)。

ガッサーンはパレスチナ人作家で、36歳の時に自動車内で爆殺されました。ハイファは北西部の海沿いの街です。
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When Mr.S returned to suburb of Haifa via Jerusalem,
He was feeling like his tounge tied up and kept silent,
And sorrow coming up from inside.
He knew she was crying silently without even looking at her when the idea of “coming back” came to his mind.
Suddenly came the sound of the sea, same as it had been,
No, he did not even remember anything about the past.
But in his mind he was feeling that stone walls are falling and piling up on one another.
Also a lot of matters and events had come to his mind, and his body was filled up with them.
He said to himself “Sofia”, the name of his wife,
she was also feeling same as his husband,
and crying.




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サイードは自動車でエルサレムを経由してハイファの郊外にたどり着いた。舌が縛られているように感じて黙っている。悲しみが内側から登ってくる。「戻って来たのだ」という考えが彼の頭に巡った時、彼女が黙って泣いていることは見なくともわかっていた。ふいに海の音が聞こえて来た。かつてと同じ音だ。違う、彼は以前のことはもう覚えていなかった。しかし彼の頭の中では石の壁が崩れ落ちて次々に積み重なるようだった。その上に様々な物事や出来事も到来し、積み重なり彼の体はいっぱいになった。彼は「そふぃーいや」と妻の名前を独りごちた。彼女も隣で同じことを感じて泣いていた。








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ラームアッラーを朝に出発してから彼も彼女も話を止めなかった。
車の窓ガラス過ごしに、眼下に畑が広がる。
この暑さは耐え難いものだ。
横顔が燃えるように熱い、まるで車輪の下で焼けついているアスファルトのようだ。
そして頭上には、大地に怒りの油を注ぐ、この酷い六月の太陽、太陽。


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彼は、道中ずっと妻と、話した、話した、話した、あらゆる事柄について。戦争のこと、敗北のこと、トラクターで壊されたマンダルバウム門のこと。そしてダマスカスの川と運河にまで到達した敵のことについて何時間も。また、停戦のこと、ラジオのこと、兵士による物資や家具の略奪のこと、クウェートにいる叔父の息子(いとこ)が心配なこと、荷物をまとめて逃げ出した隣人のこと、アウグスト・ビクトリア病院の近くの丘でたった3人だけで戦っていたアラブ人兵士のこと、制服を脱いでエルサレムの通りで戦っていた男たちのこと、ラーム・アッラーの一番大きなホテルの近くであっという間に殺された農夫のこと。彼の妻もまた別のたくさんの物事を道中ずっと話しており、二人の話が止むことはなかった。そして今、ハイファの入り口にたどり着き、二人は沈黙した。その瞬間に、二人は、なぜここに来たのかという目的について、一文字足りとも話すことはしないと誓い合った。

ここがハイファだ
20年ぶりの
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1967年の6月30日の真昼、車は白のヨルダンナンバーをつけたグレーのフィアットで、北へ向かっていた。「アーメルの息子」という名の牧草地を抜けて。20年前のことだ。そして、ハイファの南口へ向けて海岸沿いの道を走っていく。小さな通りを抜けて、幹線道路に入っていく時に、彼は自分の中にあった壁が全て崩れていくのを感じた。涙のカーテンで目の前の道は見えなくなった。彼は無意識に口にした
「ソフィア、これがハイファだよ、ソフィア!」
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汗をかいた手の中でハンドルが重くなっているように感じた。彼は妻に「わかっている、ハイファは、私を拒んでいる」と言いたかった。しかし少し考えを変えてこう言った「知っているか? 私は、この20年ずっとマンデルバウム門が開く日のことを想っていた。。。だが、反対側から開くなんてことは全く想像していなかった。そんなことは一度もない。だから、本当に反対側から彼らが門を開いた時に、それは恐ろしくて馬鹿げたことだと思ったんだ。本当に屈辱的なことだと。。。全ての門は一つの正しい方向から開かれなければいけないし、反対側から開いたならそれはまだ閉まっているのと同じことだ。こんなことを言ったら狂っていると思うかもしれないが、でもこれが真実だ。」
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彼は妻の方に向き直った。しかし、彼女は聞いていない。窓の外を見つめていた。右手に広がる農場や、左手に広がる海を眺めていた。20年以上ずっと離れていた風景、しかしいつも想い描いていた風景が今現実に目の前にある。「またこの景色を見ることになるなんて、まるで思っていなかったわ。」「お前が見ているんじゃない、彼らがお前に見せているんだ」そして彼女はーこんなことは今でなかったがー感情を抑えきれずに突然叫んだ。「さっきまでずっと続いていたこの「哲学」はなんだったの?門のこと、様々な光景のこと、そのほかの諸々は。私はいったいあなたになにが起きたの?」「私になにが起きたんだ?」

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彼は自分自身に震えながら語りかけた。しかし、感情を抑えて静かにこう言った
「彼らは占領を終えるとすぐに突然に国境を開いた。そんなことは歴史上のどんな戦争でもなかったことだ。1948年の四月に起きたひどい出来事をそして今も起こっているひどい出来ことを知っているか?どうしてだ?私やお前の目が暗い(黒い)からか?違う、これは戦争の一部だ。彼らは我々にこう言うんだ。『さあどうぞ。私たちが君たちよりもどんなに優れていて威厳があるかを見たまえ。君たちは我々に支え、我々を支持するべきなのだ。。。。』だがお前も見たように何も変わっていないんだ。。。我々だったらもっと上手くやれたかもしれないのに。。。。」
「じゃあ、どうしてあなたは戻ってきたの?」
彼は憤って彼女を一瞥して沈黙した。
彼女も知っていた。なんでそんなことを聞いたのか。彼女がそもそも戻ろうと言ったのだ。これらの事柄は20年間ずっと避けてきたわだいだったが、火山が噴火するように過去の出来事が一気に噴き出してきたのだった。。。

ハイファの中心部を走っていると、まるでまだ戦争の香りそこにあるように感じた。ある意味ではその通りだ。神秘的でエキゾチックで挑発的なことだ。彼は自分の顔が固く険しくなていくように感じた。しばらく車を走らせていると、街の様子が何も変わっていないことを認めた。そこここに置かれている石や交差点、そのまた向こうの交差点。。。いつも1946年モデルの緑のフォードで走った道だ。まるで20年間ずっとここにいているかのように道も光景も知っている。20年間の苦しい年月がなかったかのように、以前のように今、車を走らせている。

彼の頭の中から様々の名前が離散していった。埃の厚い層が吹き飛んでいくように。ニスナーシの谷、ファイサル王通り、ハナーティール広場、ハリーサ、ハーダール。。。様々の記憶がまた到来する。彼はまだ執着している。薄暗い声で妻に尋ねた
「それで、どこから始めようか?」
しかし、彼女は黙っていた。まるで沈黙しているかのように泣いている彼女の暗い泣き声を聞いた。同じ苦しみを彼も味わっている。その苦しみを完全に知ることはできないこともわかっている。それでもそれが大きな苦しみであることはわかっている。20年間ずっとあった苦しみだ。そして今、その苦しみは大きな巨人:その内臓、頭、心臓、記憶、思考。。。そのどれもが信じることができないほどに大きな巨人、そいつが今彼女の未来を支配している。彼はその苦しみがどんな意味持ちうるかを今まで考えなかったことをおかしなことだと思った。そして、その苦しみがどれほど彼女の顔のしわ、瞳、心に潜んでいるのかを考えなかったことを。そして彼女が今までどんなことを味わってきたのか、今まで暮らした全部の小屋で(?)、そして子供達やサイードや彼女自身に投げかけてきた視線の中に。そしてその全てがいま、破片と忘却と悲しみの中かから噴き出している。そして少なくとも彼の人生で2回は経験した苦い敗北の瓦礫の上に積み重なっていく。

突然過去は鋭いナイフのようにやって来た:車ファイサル王通りの端を走っていた(ほとんどの通りの名前は以前と変わっていない)。左へ港の方へと下っていくジャンクションへ向かって。そして右側へニスナース渓谷の方へ向かう。バリケードの向こうのジャンクションに立っている武装した兵士のグループを見つけた時。視線の端に彼らをとらえた時、遠くから爆発音が聞こえた。銃声が後に続き、ハンドルは彼の手の中で突然震えた。(不明な一文)。車の先に通りを渡る少年を見つけた時に、恐ろしい過去が音とともに一気に蘇って来た。この20年間で初めて、起こったことを詳細に、そして、今またその瞬間を生きているかのように思い出した。

第4日(水曜日)の朝、21日、二イサーン(四月)、1948年。

ハイファは特別な事には巻き込まれず、しかし神秘的な緊張感に支配されていた。


【アラビア語・・・とアラブとの出会い】

2019-06-18 07:38:08 | homo - 人間
【アラビア語・・・とアラブとの出会い】
アラブに興味を持つようになったのは、誰かの旅行記で「イエメンでめっちゃ親切にさ接待された」とか(なんだこの俗な理由 笑)、2001年に911があってなんとなくアラブの人たちの側に立ってみたいというよくわかんない考えがあったり、オバマさんのカイロのスピーチの「あっさらーむあれいこむ」を聞いたりして、ちょっとずつです(オバマさんのスピーチを読んだ時は興奮したものです。「あなた方に平安を」?なんじゃこの素敵な挨拶は?アメリカの大統領がアフリカ系だし、そんでアラビア語の挨拶。。。。色々希望をかんじました^^)。中東今回が初めてですが、7年ぐらい前にフランスのアラブ研究所(美術館?)でシリア人の職員女性と交わしたのが僕の最初の「あっさらーむあれいこむ(あなたに平安を)」でした。とくに、そこがアラブではなくフランスだったからもあると思うけど、彼女は「あんたアラビア語話せるの?」とめっちゃ喜んでいました。「ごめん話せない」だったけど。そこでは、お土産で、オマル・ハイヤームの詩をアラビア語書道で描いた本を何冊か買ったけど、ちょっと値引きしてくれました。(ルバイヤート(アラビア語で四行詩集の意味。詩そのものはペルシャ語で書かれてる。飲酒詩集の感じ。生命の喜び、宇宙の喜び、自然との交歓、というイメージを僕は持ちます。オマルはペルシャ人で、安全のためにムスリムを装ってメッカ巡礼もしたそうです)


アラビック書道
https://www.pinterest.com/mahery76/arabic-calligraphy/

フランスにはかなりアラブからの移民の方が住んでいるようでした。公園でお土産に買ったコーラン(っぽい装飾の小さな本)を読めないのに何となく眺めたりして、アラブ人っぽいおっちゃんたちの気を引こうとしたり(笑)」アラブのスイーツもフランスで初体験。「なんじゃこの砂糖のかたまりは・・・・」と思ったよ!!

その後近くのモスクに。初めてのモスク。「居場所」「拠り所」という感じがしました。めっちゃコーラン勉強してる人おるし。でもなんか寝そべってる人もおるし。くつろぎ、というか、各々の時間を感じました。ここでもここぞとばかりに「あっさらーむあれいこむ」連発(汗)。何か喋りたかったけど、「近所に美味しいレストランはありますか?(はる たぁりふーな まとあむ らずぃーずん?)」しか思い出せず 笑。リビア人のおっちゃんがシュワルマー(?)屋さんに連れて行ってくれました。シュワルマー(?)半分個したけど 笑。仕事がなくて、川辺でずっと座ってるおじさんもいました。

昔アラビア語を勉強してた時は「読み書き」は完全放棄していました。だってん「こんなん無理!」って思った。でも、「これは難しいものだから時間と労力を費やさねば成らない」という覚悟があれば、出来るようにはなるんだな。

アラブ人であることとムスリムであることは、なんかごっちゃになりがちで、俺も未だにごっちゃになります、混乱させてたらすみません。。。

ジブリの「紅の豚」の冒頭ででテロップが色んな言語で流れるんだけど、ひとつだけ右から流れてきて、「ねぇねぇお母さんこれ何? これ何?」になった。それがアラビア語との出逢いだ多分。

写真コーランの解説書です。半年前に、首都で礼拝の仕方とその前の体の清め方を教えてもらった時にモスクの方がくれました。僕はムスリムにはなってないです。今回はコーランのことをちょっと書こうと思ったけど、アラブのとの出会いで力つきました。

【老後のための2000万円について思ったこと 1】

2019-06-15 20:11:11 | homo - 人間
さておき!
今日でも明日でも1年後でもなく、「老後」というもののために2000万円を貯めることを現実的に考えうる人々が同じ地球上に存在する事を、どんな風に思っているんだろうなー?ちょっと意味わかんないんじゃないかな。リンゴ15万kg買えるもんな。いま必要な人のために使いなさい、って言われるかな。いま必要な人のために使いなさい、って言われるかな。

お金がないと生きていけないのは問題だよね。リンゴ育てたりジャガイモ育てたりしていたら生きていけるかもしれないのに、街はコンクリート舗装済。学校ではいっぱい勉強したよ、社会の中で生きていく知識や技術(それでも机上メイン室内メイン)。おかげで市場に依存、社会のシステムやサービスに依存、職業細分化しまくって、特殊能力磨きまくって。でも生きていくために皆が知ってても良いような、食べ物とか薬草とか人間の体のこととか生命の循環とか自然との向き合い方とか(勉強してるけどさー)、もっともっと自然の中で、地球の上で生きていくための知識や力やしなってもいいんじゃないかな、学校で。図書館で探したりネットで探したりしなくても、うちのおばあちゃんとか、近所のおっちゃんおばちゃんとかに聞いてわかったら素敵だけど、今や命の知恵はどこにあるのですか、誰に聞けばいいのかなー。

酸素吸って、水を飲んで、米や豆や肉を食べて自然の中からエネルギーもらって生きているんだ! ということを、もっと実感してたら、職業の選択肢の見え方も変わってくるかな。人間社会ありきで、既存の社会の中でどうやって生きていくか、活躍するかってことばかり考えるんじゃなくて、そもそもの始まりから、命はあって当たり前じゃないんだから、この地球の上で自然の中で、どうやって命を繋いでいくのか、自分と環境の健康を保ちつつどう自然とか関わりあっていくのか、ぐらいのとこから職業(というか 生業?)を考えてはいなかったな、学生のころは全然。完全に人間社会ありきだった。人間社会には生態系と接している点がいくつもあるけれど、社会の内側にいれば自分自身は社会の中だけで完結して生きていけてしまえる。大きくなって自分で動き出して旅をしたり色んな経験をしたりしてからやっと思い知ったと言うか思い出したと言うか。

水も空気も土もぜんぶつながってるし、体に入ってくるものは全部このひとつながりの地球からやってくるものなんだから、汚したくないよね、大切にしたいよね。

もう疲れて、何を言いたいのかもわからないです。

電波受信しすぎかな!?

【ぼくの好きな先生 英語 T先生(女):高校】

2019-06-12 17:31:29 | homo - 人間
【ぼくの好きな先生 高校:英語 T先生(女)】

この先生に似合うBGMは Bee Gees の「Staying Alive」 一択です


いや、そんな「いぇーい 踊るよー!」的な感じの女性でもないのですが、背が高くて、髪が長くて(ちょっと松田聖子風で 笑笑)、スマートでパンタローンが似合いそうな素敵な先生なのです。美人で、それも、「カッコいい」感じの美人なのです。

しかし先生はちょっと「残念」な女性なのでした。僕は「残念」だとは思ってなかったけど、同級生いわく「服がダサい(服がふるい(流行にオンじゃない))」「ベルトが変」「ベルトが変」なのでした。たしかに、いつも異様にバックルの大きな、言ってしまえば、仮面ライダーの変身ベルトみたいなのをして、しかも、シャツは絶対に、絶対に、絶対に「イン」しているのです。スカートにだろうと、パンタロンにだろうと、絶対に「イン」なのです(多分そうだった)。みんなが「変だよねー」「ださいよねー」って言うから、僕もあわせて、「うんそうだね。。。」って言ってたけど、本当はそんなの否定したかったんだ
よ、「いいじゃん、いいじゃん服なんてあれでいいじゃん。先生は素敵な人なんだからそんなこと言わなくてもいいじゃん」。

先生はたしか独身でした。でも本当に独身だったかはわからない、みんながそう言ってただけだから。高校生なんてそんなもんだろ 笑
多分30代ぐらいだったと思う(自分が17歳だったので、やっぱりここは曖昧。20代だったかもしれないし、40代だったかもしれない)。今の自分よりちょっと若いぐらいかな。

僕は今 Carpenters を聴いています。何気なくカーペンターズをかけたのだけど、もしかしたらだけど、このT先生のことを考えていたからかもしれないです。「松田聖子風」と言いましたが、どちらかといえば カレン だと今気づきました。
カレン=カーペンターみたいなスタイル(服も込みで)。先生はカレンが好きだったのかも(笑)。顔はそんなに欧米風ではなくめっちゃ和風美人でしたが。あ、違うわ、天海祐希だ。天海祐希をイメージしてください。



戻ります。

僕が先生に言われた言葉で覚えているのは一つだけです。
(ちなみに先生は僕が入ってた弓道部の担当もしてたけど、それでも他の言葉は覚えてない)

「変なやつ。あんなにでっかくメモしてたのに」

というのは、前の日に、A4わら半紙にでっかく
「宿題」と書いてカバンにしまうところを先生は見ていたのです。僕は最前列の席だったから。そして、翌日、しっかりその宿題を忘れたところで、

「変なやつ。あんなにでっかくメモしてたのに」

と言われたわけです。

つまり、この「僕の好きなT先生」は、つまり、単純に「僕の好きなT先生」というわけです。恥ずかしいから「僕の好きなひと」と書けないのです。というか、思い出している、今、「僕の好きなひと」だけど、当時は、なんだろう、やっぱりちょっと「残念」な女性だと、思ってたのかも。だって、さ、生徒に

「変なやつ」

とか言う?
なんかそれ少女漫画のキャラのセリフみたいじゃない?
違うか、だからそこが好きなのか。

でも、先生の声は覚えてるんだなー。
前の国語のA先生の声もだけど。
声って意外とよく覚えてるもんだな。
でも、本当はそんな声じゃなかったかもしれないけれど、今でも頭の中で再生できる。
なんとなく、ちょっと、鼻にかかった、透き通った男前の声。オスカルだから。
そんで、生徒たちに「あんたたち」とかって、言うんだ。かっこいいべ。

あとなんとなく、動き方とかも覚えてる。やっぱりちょっと「残念」な感じ。つまり、かっこいいんだけど。宝塚のオスカルみたいだ。かっこいいんだ、つまり。

というわけで、これは20年前の話なので、T先生は今は多分50代半ばだと思うけど、会いたいなー。まだ先生をしてるのかなー。そんで、やっぱりちょっと、「残念」で、だけど、かっこよくて綺麗で素敵な英語の先生をしてるのかなー。結婚したかなー(笑)。

会いたいなー
話がしたいなー
今なら、カーペンターズの話もビー・ジーズの話もいっぱいできるのになー。
ロバートデニーロとか、イザベルユベールとかの話もいっぱいできるのになー。
先生が好きな音楽も映画も知らないんだけど 笑




次回は
【僕の好きな先生 音楽 K先生(小学校3年ぐらいから6年まで)】
です!!

【僕の好きな先生 高校:国語 A先生(男)】

2019-06-12 12:01:55 | homo - 人間
【僕の好きな先生 高校:国語 A先生(男)】
最近RCサクセションを聴いているので、なんとなく。

授業の冒頭で毎回「心に染みるいい話」みたいなタイトルのエピソードを朗読する。いま思い出せるのは、ひたすら石を積む少年(青年?)の話だけだ。海辺でひたすら石を積み続ける。それを著者がどう感じたのか。切ないのか わびしいのか 優しい気持ちになったとか 尊い気持ちになったとか そこまで覚えてない。著者も何を感じているか言葉にできなかったかもしれない。著者は確か青年の母だった気がする。僕はでも、そんな、静かでゆっくりした穏やかな時間が流れていてもいいんじゃないかと、勝手に思った。その青年の心の中が本当に穏やかだったかもわからない。その青年は他のことは何もしないで、ただひたすら海辺で石を積んでいたのだ。この話をよく覚えているのは、会社を辞めて5年間「ニート」をしていた自分が時々この青年のことを思い出していたからかもしれない。そのときは、穏やかな気持ちではなくて、「俺は何をしているんだろう?」というそんな気持ちだったけど。それでもいろんなものに甘えて5年間だらだら過ごしていました。うちの母親は朝遅くまで寝ていて、朝ごはん食べたらまた寝てしまう大きな長男のことをどんな風に思っていたか、心配していたかもしれませんが、この物語の著者である母親はそんな気持ちではなかったと思う。

正直、妹も母ちゃんも幸せだったら(親父は男だからいいんだ。男はなんとでも一人でやっていけるものだ(偏見と差別、ごめんなさい。男性に対しても女性に対しても))、もう俺は自分はどうでもいいや、とか、思ったりするけれど、俺がどうでも良かったら、きっと母ちゃんは心穏やかではないだろうな、という当たり前のことは、割と心の底から思う。でもそんな愛情も当たり前ではないのだから、いや当たり前でないからではないけれど、本当にありがたいものだと思います。

だから、この「石を積む青年」の話が強く心に残ったのは、その青年を見つめる母親の心、その内面の気持ちはわからないけれど、でも、その尊い視線が気持ちがこの世に存在することがきっと心に残ったんだと思います。多分。

そして、肝心の国語のA先生についてあと覚えていることは、
「作家は、山本周五郎が嫌いで色川武夫が好き。だからこそ2人の作品は全部読んだ」
(嫌いなのは志賀直哉で山本周五郎のことは好きだったのかも。忘れた。。。)

「若い頃にバイクですっ転んで死にそうになった」
(それについて先生が何を語ったかはよく覚えてない)
(おいらもその後、自転車で2回すっ転んでアンビュランス沙汰になり、うち1回は ゆにてどそわんぞんとんすぃーふ 沙汰になった。小さい頃はがちょっとおかしな子だったみたいだけど、その打撃のおかげで普通に戻れたんだと思う)


俺のことを「インチキ博士」とか「ヘンタイ博士」とか呼んでいた。(呼んではいないか。普通に「はまちゃん」と呼んでくれてたな。ヒゲがちょっと生えててそれが「インチキ博士みたいだな」とかは言っていた。)別に嫌な気分はしなかった。なんとなく この先生は俺のこと好きなんだろうなー(変な意味じゃないよ)と、思っていた。そして、俺もこの先生のことを何となく好きだったのです。ちょっと青臭いなーとか思ってたけど。30代半ばぐらいだったのかな、今思うと。当時は40代ぐらいだと思ってたけど。時々道徳くさい話とか、青春くさい話とかをするけれど、そのせいじゃなくて、多分なんとなく気に入られてる感じがしたから俺もこの先生が好きだったんだと思う。あと、あんまり進学とか、点数とか、そういうんじゃなくて、本当に、作品の中から、作者の魂とか、心とか、そういうのを一緒に感じていこう、っていうそういう感じの授業だったから好きだったんだなぁきっと。

2年生の時に一年国語を担当してもらって、その後は、転勤していきました。三浦半島の保養所だったか、養護学校だったか、よく覚えていない。当時の私は、「保養所」「療養施設」「養護学校」そういうものの違いがわかっていなかったので、だから、覚えられなかったんだと思う。卒業アルバムにも載ってないから、フルネームもわからない。

一番思い出す先生。
会って話がしたい。





あと、以下が続きます。
思ったより長文になったので、シリーズ化しました 笑

【高校:英語 T先生(女)】
【中学:体育A先生(男)】
【中学:国語N先生(女)】
【中学:美術Y先生(女)】
【小学:音楽K先生(女)】
【高校:書道B先生(男)】