昨年は「戊辰150年」とうことで、様々な催しがありました。
河北新報には、「戊辰150年」という特集記事が掲載され私もそれまでに知ずにいた歴史の一端を垣間見ることができました。
その中に、石巻に関する出来事もあり、改めて石巻の時代的な意味づけを知るきっかけにもなりました。
今回は、その中の一つ、あの当時の石巻での様子、日和山でのことです。
以下に、2019年1月20日の河北新報の記事を紹介します。
この中に石巻の名前がでてきています。その関わりを見ることができます。
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「奥羽の義」 戊辰150年 35 第6部 仙台藩降伏
「徹底抗戦派が石巻に集結」 「遅すぎた榎本武揚」
仙台藩が新政府に降伏する直前の1868(慶応4)年旧暦8月26日、旧幕臣の榎本武揚率いる海軍が松島湾に入港した。奥羽越列藩同盟を支援するためだった。
6日前に8隻で江戸・品川沖を出港した榎本艦隊は房総沖で暴風雨に遭い、咸臨丸など2隻を失った。難を逃れた旗艦の開陽など6隻も破損し、修理が必要だった。
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艦隊は多数の砲門を備え、兵数は1500.さらに会津から新選組副長の土方歳三、旧幕府軍の伝習隊や彰義隊ら各戦線の敗残兵、フランス人の軍事顧問ブリュネら、新政府の徹底抗戦を主張する集団が仙台に続々と集結し始めた。
9月2日、榎本と土方は仙台城で藩主の伊達慶邦と対面。榎本は「奥羽の地は日本全土の6分の1を占め、兵数は約5万に上る。新政府など恐れるに足りない」と力説した
しかし、劣勢の仙台藩は藩論が降伏に傾き、主戦派は失脚していた。榎本と議論した勤皇派の執政遠藤文七郎は、「官軍に抵抗するなど大逆無道。今は伊達家の危機を救うとき。諸君も帰順すべきだ」と一蹴。土方に対しては「斗屑の小人。論ずるに足らず」と酷評した。
榎本らの到着は遅すぎたのだ。
9月15日、仙台藩降伏。榎本らは同藩に見切りをつけ、蝦夷地(北海道)行きを視野に石巻へ移動、豪商の毛利屋理兵衛の屋敷に寄宿した。
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石巻市の旧家の古文書「萬方記」によると、石巻に集結した兵らは約4300人。桑名藩の「谷口四郎兵衛日記」には、土方やブリュネの指導下、市中心部の日和山(現在の日和山公園)一帯で軍事演習を行ったと記されている。降伏した仙台藩に対する怒りのデモンストレーションだったとも言われる。「戦争が始まるのか」大砲の音に住民はおびえ、近隣に家財を避難させる者もいた。
榎本らの勢力がもし、石巻で新政府と衝突したらー。既に降伏した仙台藩首脳にとって、彼らはやっかいな存在となった。
文 酒井原雄平
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その他の記事
※ 石巻市住吉町にかつてあった旧毛利屋敷。老朽化のため2008年に解体され、現存していない。(阿部和夫さん提供)
(家屋の写真げ掲載されています。私たちが中学時代の頃はありましたね。もう解体されていたのですね。)
※ 仙台藩の降伏直後、石巻に4000人を超える旧幕府軍が集結した。新政府軍との戦闘が始まるのではー。港町は不穏な緊張感に包まれた。との文言で現在の日和山から望む中瀬あたりの風景の写真が掲載されています。
※ 榎本武揚 1836年に幕臣の次男として誕生。62~67年オランダ留学。帰国後、幕府海軍副総裁。戊辰戦争では函館で新政権樹立を宣言するが、69年、五稜郭の戦いに敗れて降伏。72年特赦で出獄後、新政府に登用され、北海道開拓などに尽力し、諸大臣を歴任した。1908年死去。
※ 土方歳三 新選組副長。1835年現在の東京都日野市で富農の四男として誕生。剣術の出張稽古で訪れた局長の近藤勇と親交を深め、63年、近藤らと京都で新選組結成。草創期からの隊士として池田屋事件などに関わった。69年、函館五稜郭の戦いで戦死。
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ということで、当時の日和山では大砲の音がとどろいたのですね。砲筒は海岸の方に向いていたのでしょうか?その頃の南浜町あたりはまだ家もなく野原が広がっていたのでしょうか?
港町としての石巻の存在感が感じられる出来事です。
時間軸の中で石巻にも様々な出来事が眠っているのですね。
「戊辰150年」の節目にまた、石巻の歴史の一部を知ることができました。
新田次郎の『アラスカ物語』の安田家についてとか、掘り起こせばもっと市民が町に誇りをもてる歴史や人があるだろうに、惜しいですねえ。
開陽丸もミニチュア作って日和山にでも置いて、話を伝えたらどうでしょうねえ。
日和山でも祈念館にでも良いので、サンファンバウテスタ号だけでなく、若宮丸や千石船そして様々な歴史も展示紹介したらおもしろいのではないでしょうか
それから金華山への道の紹介や整備など、観光地としていかせないでしょうかね。