上の写真は鞘堂(さやどう)の中の「林子平の墓」です。龍雲院の墓所にありました。
前回、「林子平祭」について書きましたが、先日八幡町付近の道を通っている時にたまたま「林子平の墓」の方向を示す表示を見つけました。
そこで、用足しの帰りにちょっと寄ってみようと思い、矢印の方向の道に入ってみました。途中二股に分かれている道があり、一応太い方の道を進みました。
確か東北福祉大学の近くと知っていたので、そちらを目指しましたがなかなか見当たらず、途中のコンビニで聞いてみたところ、林子平の墓や龍雲院は近くにありそうなのですが、その辺の道路は昔の道で狭く一方通行が多く車の私にはすぐ行けそうもありません。
今回はあきらめてまた出直そうと考え、家に戻りました。
インターネットで地図をみると、どうやらあの分かれ道で太いほうにいったのが悪かったようです。細い方にほぼ真っすぐにいくと良いようです。
そうと分かると、ぜひ行ってみたいと思い、(どうせその日はこの夏一番の暑さとなり、家にいても汗がたらたらで何かをする気になりません。家の中でのエアコンも嫌いだし、車のエアコンで涼みながら林子平の墓に行けるならその方が良いと思い)出発しました。
北山トンネルを抜けてその近くからも行けそうですが、やはり一方通行だったりするので遠回りでも表示のあった大学病院を過ぎたところから行くことにしました。
午前中と同じ道に入り、今度は二股の道で細い方に進みました。
そして進んでいくと正面に龍雲寺が見えました。近くコインパーキングに車を置き、歩いていきました。
あたりを見回しても、林子平の墓らしきものは見えません。
脇の駐車場の方から境内の方を見ると、なんとそれらしい鞘堂が見えました。
(写真、どうして縦にならないのかな?)
縦に見たときに左奥の方に見えるのが子平の墓がある鞘堂です。
まず、五重塔の前にあるものを見ました。
柵の中には、子平が長崎から持ち帰った日時計がありました。
また、表示には子平の言葉もありました。
鞘堂の両脇には、石碑があります。一つは伊藤博文の寄進したもの、もう一つは大槻文彦寄贈の顕彰碑なのでしょう。漢字だけで書いてあるようで意味は分かりません。
そして、そばには「林子平先生 仙台海に記念日祭典 令和元年度 寄付者 ご芳名 」という掲示がありました。
町内会の他、輪王寺やその他他区のお店や会社、企業等、様々な方々の名前が連なっています。たくさんの方々からの寄付で成り立っているのですね。
お墓はしっかりお参りできました。
さて、このすぐ近くには、「子平堂」という老舗の和菓子屋さんがあるはずです。
せっかくなので行ってみたいと思い歩き始めました。
途中のお米屋さんに尋ねてみました。店主らしい年配の男性が中から出てきて、快く親切に教えてくれました。
その通りに歩いていき「まだかな?」と思い始めている頃に、
「あっ!ありました。」
昭和の香りのほっこりするような店構え。
入ろうとすると、入り口には幕のようなカーテンが閉まっていたので、「今日はこれだけでも良しとして帰ろう。」と思ったときに、
店の前に止まっていた車の中の中から店主の方らしき年配の男性が「今、開けるから。」と声をかけてくれました。
中に入ると、「子平饅頭」それから表示の「おはぎ団子」「黒豆大福」その他の和菓子がありました。
店内には、「林子平祭」のポスターの他、子平の肖像画や子平についての書等が展示してあります。老舗の香りがします。
「子平まんじゅう」 「おはぎ団子」きれいな色どりです。ずんだと餡です。
白いものが黒豆大福。いくつかずつ買って代金を払おうとしたら小銭がちょっとたりませんでした。
すると、店主の方は、「いいからちょっきりで良いから。」と言ってくれました。辞退はしたのですが「いいから、いいから」とのことなので、「それでは、」とちょっと足りない小銭をだしてありがたくおまけしてもらってしまいました。
こんなところも何か旧き良き時代の香りのする温かい雰囲気を味わいました。
このへんは、昭和の頃の懐かしい建物と新しいモダンな建物が混在しています。
住人もこの建物と同じ時代のような人達なのでしょうか?
「林子平祭」に参加する人が減っているのもこの建物の比率と同じなのかもしれません。
帰宅して、和菓子を味わってみました。
「おはぎ団子」はご飯の粒の細かさが絶妙で舌ざわりが素晴らしいです。ずんだや餡は甘さがそれほど強くないのに、餡の味がとてもよくまろやかで上品な味わいです。子平まんじゅうも後味の柔らかな美味しい味でした。
近くであればいつも食べたいと思わせる味わいです。
旧き良き時代を味わった一日でした。皆さんにもぜひ体験してほしいと思います。
昨年、練馬区の幕末歴史を企画展示していたものを見に行ってきました。東京湾の砲台守るために、村の誰それがいくら寄付したとか、何を寄付したとか書かれた図や文書がありました。村ごとに寄付が割り振られたわけです。
幕末は海の防備に大騒ぎだったわけですが、子平は生まれた時代がちょっと早かったために、不遇な死を迎えたわけですね。
林子平も支倉常長も、時代の一歩前いった仙台人が不遇だったわけだ。残念ですね。
現在の趨勢だけが正しいと思わず、自分なりに考えることも大切であることをこの出来事は教えてくれますね。
でも、「その業績は色あせず」宮城県人として誇りに思います